1860年代から約40年にわたり、日本の美学や独自の素材、また職人による手仕事は、パリの美術界に多大な影響をもたらした。忘れられつつある史実だが、フランス、そしてヨーロッパにおける美術とデザインを刷新したとされるこの文化現象は、永遠にその根底を流れつづけている

BY NANCY HASS, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

 1870年、フランスの画家アンリ・ファンタン=ラトゥールは、「喜ばせ、感動させる」のではなく、観る人の「心にひっかかる」ような絵を描いた。花の静物画で有名な知識人の彼は、当時パリ17区の薄汚ないバティニョール地区で活動していた若い画家グループの前衛的な精神に共鳴していた。彼らこそがほどなくして<印象派>と呼ばれるメンバーだが、当時の批評家たちからは酷評されていた。そこでファンタン=ラトゥールは、彼らが一堂につどった様子を空想し《バティニョールのアトリエ》という絵を描いた。その中で、印象派のリーダーである著名なエドゥアール・マネは、批評家ザカリー・アストリュックの肖像画を描くためにイーゼルの前に腰かけ、クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワール、小説家のエミール・ゾラはその様子を見つめている。ファンタン=ラトゥールは、彼らが権威者に認められるべき人物であることを示そうと、それぞれに控えめなグレーや黒のフロックコートをまとわせ、凜とした表情に重々しいあごひげも加えた。だが彼の<挑発>はこれだけにとどまらなかった。画中の左側のテーブルの上に、彼はひときわ目を引く、大きな丸い花瓶を描いた。金色と淡紅色でキンモクセイとツバキの絵を焼きつけた、日本風の精緻な装飾が特徴のこの花瓶は、フランスの陶芸家ローラン・ブヴィエの作品である。

 この花瓶が明示するのは、フランスで沸き上がった日本のあらゆるものへの情熱的な愛と、フランス流に日本の美学を解釈した<ジャポニスム>への賛辞だ。パリを魅了したのは日本の色やかたちに対する感性、職人技だけではない。花瓶、食器、化粧箱などこれまで西洋では単に実用品とされてきたものを、芸術としてみなす見方にも感化された。フランスのあらゆる芸術における根本的な革新は、こうして始まった。

画像: 葛飾北斎《牡丹とカナリア》(1834年頃) KATSUSHIKA HOKUSAI, “PEONIES AND CANARY,” FROM THE SERIES “SMALL FLOWERS,” CIRCA 1834, WOODBLOCK PRINT, PHOTO:RMN-GRAND PALAIS(MNAAG, PARIS)/THIERRY OLLIVIER/DISTRIBUTED BY AMF

葛飾北斎《牡丹とカナリア》(1834年頃)
KATSUSHIKA HOKUSAI, “PEONIES AND CANARY,” FROM THE SERIES “SMALL FLOWERS,” CIRCA 1834, WOODBLOCK PRINT, PHOTO:RMN-GRAND PALAIS(MNAAG, PARIS)/THIERRY OLLIVIER/DISTRIBUTED BY AMF

 学者たちは長いこと「米国のマシュー・C・ペリー提督率いる黒船の一団が、1853年に江戸湾(入り口の浦賀)に現れていなかったら、印象派もポスト印象派も存在しなかっただろう」と論じてきた。日本は200年以上にわたる厳しい鎖国政策を貫き、好奇心と不満を募らせていた欧米諸国の船団をはじめ、諸外国からの開国要求をはねのけてきた。唯一の例外は、厳重な規制下でポルトガルやオランダと貿易を行った、長崎の出島だった。ペリー来航後、日本は1854年に、米国に対してふたつの港を開くという和親条約の調印を余儀なくされ、続いて米国とヨーロッパとの通商条約も締結する。こうしてほぼ一夜にして、無数の日本製品が一気に西洋になだれ込んでくるようになった。19世紀初頭に葛飾北斎や歌川広重が手がけた木版画<浮世絵>などに触発されたのは、エドガー・ドガ、フィンセント=ファン・ゴッホ、メアリー・カサットといった画家に限らない。磁器や日本刀、彫刻を施した小さな象牙製の根付(着物の帯から小物を吊るす紐の先端につける留め具)など目を見張るような骨董品の数々が、フランスのル・アーブル港から流れ込んでくると、当時の欧米に波及していた、多様なスタイルを複雑に混ぜ合わせたネオルネサンス様式は影を潜めていった。

 美術評論家フィリップ・ビュルティが1872年に生んだ<ジャポニスム>という造語は、瞬く間にフランスで広まり、この国で最も長らえた芸術運動のひとつとなった。その影響を受けたオブジェは枚挙に暇がない。エルメスのティーセットに、ブシュロンのクロワゾネ(有線七宝)を施したテーブル用の銀の装飾品。トランクメーカー、ルイ・ヴィトンの装飾モチーフに、アイルランドに生まれパリで活躍した建築家兼デザイナー、アイリーン・グレイの漆塗りの屛風。宝石をあしらったリュシアン・ガイヤールのブローチや、ルネ・ラリックのガラス工芸品。アール・デコ時代の伝説的インテリアデザイナー、エミール=ジャック・ルールマンの壁紙。このようにジャポニスムは40年以上にわたり、デザインの世界の奥深くまで影響を与えてきた。その後、19世紀後半から20世紀初頭にジャポニスムの後身として現れたのが、アール・ヌーヴォーとアール・デコだった。両者は西洋独自のものだと誤認されやすいが、もし西洋が日本の美術やデザインに出会っていなければ生まれることはなかった。当時、宝石細工師リュシアン・ファリーズはこう述べている。「日本が我々に、この世に潜む詩情に気づかせてくれた」

画像: 《花柄の着物姿で横たわるフローレンス・ピーターソン》。フランスの写真家ポール・ビュルティ・アヴィラン ドが 1909~’10年 頃 に 撮影。彼の祖父はジャポニスムという造語を生んだ美術評論家のフィリップ・ビュルティ PAUL BURTY HAVILAND, “FLORENCE PETERSON LYING DOWN, IN A FLORAL KIMONO,” 1909-10, CYANOTYPE, PHOTO:RENÉ-GABRIEL OJÉDA, MUSÉE D’ORSAY, DIST. RMN-GRAND PALAIS/PATRICE SCHMIDT/DISTRIBUTED BY AMF

《花柄の着物姿で横たわるフローレンス・ピーターソン》。フランスの写真家ポール・ビュルティ・アヴィラン ドが 1909~’10年 頃 に 撮影。彼の祖父はジャポニスムという造語を生んだ美術評論家のフィリップ・ビュルティ
PAUL BURTY HAVILAND, “FLORENCE PETERSON LYING DOWN, IN A FLORAL KIMONO,” 1909-10, CYANOTYPE, PHOTO:RENÉ-GABRIEL OJÉDA, MUSÉE D’ORSAY, DIST. RMN-GRAND PALAIS/PATRICE SCHMIDT/DISTRIBUTED BY AMF

 日本との交易、日本文化への敬意、日本文化の模倣などさまざまな要素が重なって、フランスでは熱狂的な日本ブームが起き、ヨーロッパはかつてなかったほど創造性にあふれた時代を迎えた。だが日本にとって、ペリーの来航は幕府を狼狽させた大事件であり、その後十数年(1868年の明治維新まで)にわたって動乱が起き、経済も大混乱した。同時にこの事件を通じて日本は海軍力の弱さを思い知り、その後、数十年をかけて軍事力を強化し、ついには大日本帝国を築くにいたるしかし、フランスを夢中にさせたのはこうした軍事的発展ではない。当時、北アフリカや東南アジアの各地を次々と植民地化していたフランスにとって、200年以上続く徳川幕府が、欧米諸国からの侵略を免れてきたという点が魅力だった。

「フランス人は“鎖国で閉ざされた日本”に惹かれていました。おそらく独占欲を刺激されたんでしょうね。彼らは日本人のもつ強さだけでなく、忍耐力にも目を留め、こうした要素を自国の伝統と融合して新しいものを創り出せればと考えるようになったんです」。ミネソタ大学の名誉教授であり、『Journal of Japonisme』誌の編集長を務める美術史家ガブリエル・P・ワイスバーグはこんなふうに説明している。すでに何世紀にもわたってヨーロッパと交易関係を築いていた中国からは、フランスのデザインは長いこと影響を受けていた。職人たちも18世紀から、ビルマ(現・ミャンマー)、中東、インドなどエキゾティックな極東の幻想を寄せ集めた<オリエンタル>な簞笥(たんす)や、大邸宅や城を飾る精巧な漆工芸品を創っていたが、彼らが初めて目にした日本の芸術は驚くほど新鮮に映った。金箔使い、漆黒の木材、ドラゴンモチーフの彫刻が特徴の中国製品が、華麗きわまるロココ様式の源流だったとするなら(18世紀のフランスでは中国に着想を得た<シノワズリ>様式が生まれ、青と白の模様で埋め尽くされた磁器、金メッキで部分装飾した優美な乙女像などが大量に作られた)、日本の自由な美術様式と、職人を敬う匠の文化こそが、20世紀のモダニズムの基盤になったと言えるだろう。それまで西洋美術の根幹をなしていたキリスト教は、知らぬ間に神道の自然崇拝(自然の万物に精霊が宿るという哲学)や<円相(円を一筆書きした禅の書画で、悟りや無限性を示す)>に変わっていた。

 当時、ヨーロッパの美学の導き手であったフランスにとって、日本の開国は思いがけない幸運だった。彼らはちょうど新しい視点を探していた。画家ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルに代表される19世紀の厳格な新古典主義は、「エコール・デ・ボザール」(パリ国立高等美術学校)など王立アカデミーでの鍛錬を通じて踏襲された様式でしかなく、すでに時代遅れになっていたからだ。ナポレオン3世による第二帝政の崩壊後、第三共和政へ移行し、中産階級が拡大した世の中では、貴族の肖像画や英雄の戦闘図は、どんなに壮麗でも色あせて見えた。それにくらべ、海辺に座ったり、野原を散歩したりする庶民のくつろいだ姿をシンプルに描いた浮世絵はずっとモダンだった。鯉の跳ねる姿や風に舞う花といったはかない一瞬を、陶磁器や七宝で表現する日本の装飾芸術にも、はっとするような自由さがあった。「フランスが日本文化に出会い、それを独自のフィルターに通して発展させたことで、何もかもががらりと変わりました」。ジャポニスムの最盛期である1882年に設立されたパリの装飾芸術美術館で、アジアコレクションの学芸員を務めるベアトリス・ケットが言う。「フランスのデザインだけでなく、フランスの国そのものが変わったんです」

画像: エルネスト・シャプレによる炻器の《ウサギ》(1890年頃) ERNEST CHAPLET, “RABBIT,” CIRCA 1890, GLAZED STONEWARE, BEQUEST OF CHAPLET, 1910, MUSÉE DES ARTS DÉCORATIFS, PARIS © MAD, PARIS/JEAN THOLANCE

エルネスト・シャプレによる炻器の《ウサギ》(1890年頃)
ERNEST CHAPLET, “RABBIT,” CIRCA 1890, GLAZED STONEWARE, BEQUEST OF CHAPLET, 1910, MUSÉE DES ARTS DÉCORATIFS, PARIS © MAD, PARIS/JEAN THOLANCE

 印象派のメンバーは「日本美術の巨匠を発見し、彼らが使う明るい色調や風変わりな遠近法、平面的な描写、アンバランスな構図といった重要な要素に気づいたのは自分たちであり、こうした要素を取り入れたことで、超写実主義の制約から解放された」と主張していた。確かに美術史にもこういった感じのことが書かれている。だがヨーロッパに流入してきた日本美術を広めたのがコレクターや画家であろうと、最初に新しい何かを創り出したのは装飾工芸の職人だった。フランスの画家で版画家のフェリックス・ブラックモンが、摺師(すりし)オーギュスト・デラトルの版画工房で北斎の木版画を初めて見たのは1856年のことだと言われている。それは約40年前に刊行された伝説の『北斎漫画』で、黒、灰色、薄桃色で彩られ、空を舞う鳥や、薄紙のようにやわらかな花、レースのように繊細なトンボといった花鳥画が描かれていた。どうやら日本から送られてきた磁器の梱包材として使われていたようである。

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