1860年代から約40年にわたり、日本の美学や独自の素材、また職人による手仕事は、パリの美術界に多大な影響をもたらした。忘れられつつある史実だが、フランス、そしてヨーロッパにおける美術とデザインを刷新したとされるこの文化現象は、永遠にその根底を流れつづけている

BY NANCY HASS, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

 ブラックモンにとって、日本の木版画は変わりゆくヨーロッパ美術にふさわしい、斬新な視覚言語だった。彼はすぐさま、歌川広重の20点からなる大判の連作《魚づくし》(1830~40年代に制作)や、二代葛飾戴斗(北斎の弟子)による花鳥画(1848~49年作)などの作品を収集し、それらをもとにジャポニスムの原型と言えるような表現様式を編み出した。

1866年、パリで陶磁器とガラス製品の販売店を営んでいたウジェーヌ・ルソーは、パリ近郊の「クレイユ・エ・モントロー陶器工場」で作る食器セットのデザインをブラックモンに依頼する。ブラックモンは浮世絵をもとに、当時フランスでは良しとされていなかった<左右非対称性>や<大きな余白>といった要素も取り入れながらエッチングを行った。転写による絵付けは複雑で、まず彼が描いて紙に刷った絵柄をパーツごとに切り取り、クレイユ・エ・モントロー社の白いファイアンス陶器(註:淡黄色の土の上に錫釉(すずゆう)をかけたもの)に配置し、窯に入れる。その後、紙が高温の窯の中で燃えてなくなり、絵の輪郭線だけが残った状態で焼き上がると、職人たちが鮮やかな色を塗り、再び焼成された。

皿の縁にあしらわれたのは紺や水色の刷毛目模様で、当時のフランスとイギリスの磁器の伝統的なデザインである。グレイビーボート(註:ソース用の容器)の下のほうに描かれた子ガモを見てもわかるとおり、どの動植物も息吹を感じさせるほど鮮やかに描かれている。約100点の食器をセットにしたこの《セルヴィス・ルソー》は、1866年から1938年まで継続的に生産された。それぞれの食器の柄が違うというアイデアも日本から来たもので、このセットを持つことが新興ブルジョワジーのステータスシンボルになっていた。

画像: 歌川広重の《魚づくし・いなだとふぐ》(1830~40年代頃) SEPIA TIMES/UNIVERSAL IMAGES GROUP/GETTY IMAGES

歌川広重の《魚づくし・いなだとふぐ》(1830~40年代頃)
SEPIA TIMES/UNIVERSAL IMAGES GROUP/GETTY IMAGES

画像: フェリックス・ブラックモンの 《セルヴィス・ルソー》 のスープ皿(19世紀) FÉLIX BRACQUEMOND, ROUSSEAU SERVICE, SOUP BOWL, 19TH CENTURY, UNDERGLAZE, FINE EARTHENWARE, TRANSFER PRINTING, PHOTO:RMN-GRAND PALAIS(MUSÉE D’ORSAY)/HERVÉ LEWANDOWSKI/DISTRIBUTED BY AMF

フェリックス・ブラックモンの 《セルヴィス・ルソー》 のスープ皿(19世紀)
FÉLIX BRACQUEMOND, ROUSSEAU SERVICE, SOUP BOWL, 19TH CENTURY, UNDERGLAZE, FINE EARTHENWARE, TRANSFER PRINTING, PHOTO:RMN-GRAND PALAIS(MUSÉE D’ORSAY)/HERVÉ LEWANDOWSKI/DISTRIBUTED BY AMF

ブラックモンは、ファンタン=ラトゥール、フィリップ・ビュルティ、陶芸家マルク=ルイ・ソロンなど計9人のメンバーで、月に一度パリ近郊のセーヴルにつどい、日本から来た着物をまとって、箸と《セルヴィス・ルソー》で和食を味わう<ジングラーの会>を開いていた。彼が手がけた《セルヴィス・ルソー》が登場してからは、それまで実用品でしかなかった陶器が、価値をもち、珍重される芸術品になった。ステファヌ・マラルメは、マン・レイのダダイスム(註:既成概念を破壊した芸術運動)の写真作品や、クロード・ドビュッシーの無調音楽(註:機能和声に基づかない音楽)にインスピレーションを与えた象徴派の詩人だが、彼は1871年に《セルヴィス・ルソー》について「これまで目にしたものの中で最も美しい食器だ」と書き残している。

 誰の手も借りずに個人で創作することを信念としてきたフランスの画家にとって、浮世絵の分業システムは奇妙に感じられたにちがいない。浮世絵では版下絵を描く絵師だけでなく、版を彫る彫師、紙に刷る摺師、製本する版元がいて、各人が各分野で、別々の評価を得るのだ。だがこの分業体制は、弟子や制作者と共同制作を行ってきたヨーロッパの装飾芸術家にとっては当たり前のことだった。日本の伝統的な装身具には髪飾り程度しかなかったが、西洋の装飾芸術家はその緻密な細工や忠実な自然描写をまったく新しい絵画的表現として捉え、宝石で飾ったブローチやペンダント、ドロップイヤリングなどに巧みに取り入れた。

フランスのハイジュエリーメゾン「ショーメ」と日本とのつながりは、1793年にさかのぼる。王妃マリー・アントワネットが断頭台に消えて2カ月後、ショーメの創立者マリー=エティエンヌ・ニトが、かつて顧客だった王妃の日本の漆器コレクションを保管すべく助力したのである。1860年代には、アレクシスとリュシアン・ファリーズの父子による金銀細工工房で、クロワゾネの技法が採用された。ビザンチウム(現在のイスタンブール)を起源とし、明朝時代の中国で発展したというこの技法が頂点を極めたのは19世紀初期の日本だった。ファリーズ作の、チェーンネックレスにつけた小さなガラスの香水瓶は、雪を頂いた山々や黄水仙の花畑を飛ぶ鷺(さぎ)といった浮世絵風の七宝が施されている。また「メゾン・ヴェヴェール」の三代目、宝石細工師のアンリ・ヴェヴェールがラリックからの依頼で1890年代後半に制作した、細長い淡水パールを花びらに見立てた高さ約8cmの菊のブローチは、ジャポニスムの究極のシンボルと言えるだろう。アンリ・ヴェヴェールは浮世絵の世界有数のコレクターで、彼が収集した約8,000点の作品は現在、東京国立博物館に所蔵されている。

 日本の美意識はジュエリーに限らず、ほかの分野にも浸透した。ルイ・ヴィトンは、日本がヨーロッパに扉を開いた1854年に、トランク専門の製造業者として創業した。当時のフランスには、それまで外国旅行のできなかった日本人貴族が続々と押し寄せていたので、ルイ・ヴィトンはこうした旅行客を見ながら日本人の感性を理解したのかもしれない。日本人がすぐにそれらのトランクを気に入ったこともあって、ルイ・ヴィトンは29点のティーセットを収めたトランクを制作。1896年に発表された四つ葉のモノグラムは、日本の家紋にアイデアを得たと言われている。

画像: ルイ・ヴィトン、日本風のローズウッド製ブラシとべっ甲の櫛のセット(1925~30年頃) THÉRÈSE BONNEY, LOUIS VUITTON BRUSH SET AND BOX, 1925-30, MADE FROM PALISSANDRE BRUSHES AND TORTOISESHELL COMB © THE REGENTS OF THE UNIVERSITY OF CALIFORNIA, COURTESY OF THE SMITHSONIAN LIBRARIES, WASHINGTON, D.C.

ルイ・ヴィトン、日本風のローズウッド製ブラシとべっ甲の櫛のセット(1925~30年頃)
THÉRÈSE BONNEY, LOUIS VUITTON BRUSH SET AND BOX, 1925-30, MADE FROM PALISSANDRE BRUSHES AND TORTOISESHELL COMB © THE REGENTS OF THE UNIVERSITY OF CALIFORNIA, COURTESY OF THE SMITHSONIAN LIBRARIES, WASHINGTON, D.C.

画像: イチョウの葉の模様をエンボスで表現したエルメスのレザーポシェット(1925年) COURTESY OF HERMÈS

イチョウの葉の模様をエンボスで表現したエルメスのレザーポシェット(1925年)
COURTESY OF HERMÈS

 1837年に馬具工房として始まり、今や数々の伝説的アイテムを世に送り出しているエルメスだが、1920~30年代は、創始者ティエリー・エルメスの孫であるエミールも日本文化に魅了されていた。彼は、日本の日常風景が描かれた金唐革(きんからかわ/註:唐草や花鳥などの文様を金泥などで彩色した装飾革)の戸棚や、カニやウサギが描かれた江戸時代の鎧(あぶみ)などを収集し、1925年にはエルメスの職人が日本の花のモチーフを型押ししたレザーのハンドバッグを制作。その数年後には、メゾン初のウェアや小物ラインで、下駄に着想を得た斬新なビーチサンダルを展開した。

 このような近代の「マーケティング」の原型と言える試みと相まってジャポニスムは注目を集め、さらに万国博覧会のおかげで一大ブームになっていく。19世紀の後半から、イギリス、オーストリア、フランスなど、ヨーロッパ諸国で開催されたこの万国博覧会では、最新の超大型機械、技術、芸術作品などが数カ月にわたって一般公開された。日本からは、刀装具の彫金から香炉などの装飾品制作に転向した、正阿弥勝義(しょうあみかつよし)の金工作品などが出展されたが、こうした日本の意匠や技術について、日仏双方の職人が理解し合えるように、展示解説も行われた。

 フランスの職人たちは、不完全なものこそ、完全であると見なす<わび・さび>の哲学について知ると、自分たちの作品に小さな傷や手の跡があることなど気にしなくなった。日本が初出展した1867年のパリ万博では、浮世絵の巨匠による傑作を展示したほか、裕福な江戸商人、清水卯三郎(うさぶろう)が帯同した芸者が茶屋の日常風景を披露し、約900万人の来場客の目を楽しませた。ほかにもシルバーウェアメーカー「クリストフル」が鶴の柄の七宝を施した《セルヴィス・ルソー》、アルザス地方を拠点とする壁紙工房「ズベール」が日本の明媚な風景画を手刷りした壁紙《ジャルダン・ジャポネ》(現在も販売されている)などが展示されていた。1878年の第3回パリ万博では、小さな花瓶からお猪口まで、日本的なあらゆるものに観客とバイヤーが殺到し、数週間ですべてが完売してしまった。権威ある美術評論家のエルネスト・シェノーは当時「ジャポニスムはもはや流行ではなく、熱狂であり狂気だ」と綴っている。

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