注目の展覧会を紹介する本企画。今月は森美術館で開催中の『ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会』に出展している演出家・アーティストの高山明のインタビューをお届けする

BY MASANOBU MATSUMOTO, PHOTOGRAPHS BY KOHEY KANNO

画像: 演出家・アーティストの高山明。その前に展示されているのは、2008年に実施したプロジェクト《サンシャイン62》のドキュメント。これは、5人1組になった参加者が、地図を頼りにホテルの一室や墓地、空っぽの体育館など16のスポットを巡っていくツアー型作品。すべてのスポットの窓からは、「サンシャイン60」を眺めることができ、それぞれの場所で、池袋という場所や東京裁判(「サンシャイン60」は、戦争犯罪容疑者を収容する巣鴨プリズンの跡地に建てられた)に関するインタビューを聴き、住人からの講義を受けながら、参加者は「サンシャイン60」周辺を散策していく

演出家・アーティストの高山明。その前に展示されているのは、2008年に実施したプロジェクト《サンシャイン62》のドキュメント。これは、5人1組になった参加者が、地図を頼りにホテルの一室や墓地、空っぽの体育館など16のスポットを巡っていくツアー型作品。すべてのスポットの窓からは、「サンシャイン60」を眺めることができ、それぞれの場所で、池袋という場所や東京裁判(「サンシャイン60」は、戦争犯罪容疑者を収容する巣鴨プリズンの跡地に建てられた)に関するインタビューを聴き、住人からの講義を受けながら、参加者は「サンシャイン60」周辺を散策していく

 創作ユニット「Port B」を率いる演出家・アーティスト、高山明の作品は、演劇的な考え方やアイデアをベースにしながらも、一般的な舞台作品とはだいぶ趣が異なる。2017年からドイツや日本、香港などの都市で展開している《マクドナルドラジオ大学》は、文字通り、マクドナルドを大学に変えてしまおうという試みだ。実際のマクドナルド店舗(あるときはマクドナルドを模したスペース)で、観客は、ハンバーガーなどの商品とともに数十種類の「講義」をオーダーでき、手渡されるポータブルラジオや自分自身のスマートフォンを介してそれを聴講する。ただ、普通の講義と違い、教授となっているのは移民や難民の人たち。「哲学」や「スポーツ学」といった講義は、すべて彼らの体験、経験が凝縮された内容で、独自性とバラエティに富んだものだった。

 2017年から18年に行った《東京修学旅行プロジェクト》は、2泊3日の東京観光ツアー型作品。タイや中国、台湾といったアジアからの修学旅行生が実際に訪問する(あるいは、訪問するかもしれない)スポットを旅程に組み込んだものであり、参加者は、アジア各国から見た東京を体験していく。このプロジェクトは、その後、日本に住むクルド難民や中国残留孤児などをツアーガイドにした《新・東京修学旅行プロジェクト》(2018年~)に発展した。

画像: 展示風景。壁面の展示物は、《東京修学旅行プロジェクト》(2017年~)と《新・東京修学旅行プロジェクト》(2018年~)のドキュメント

展示風景。壁面の展示物は、《東京修学旅行プロジェクト》(2017年~)と《新・東京修学旅行プロジェクト》(2018年~)のドキュメント

「都市を学びの場に変える」作品だ。ただ、そうした作品のあり方は、じつは、演劇の根本と深いところで結びついている。そのことに高山が、あらためて気がついたのは、アテネの最古の劇場・ディオニソス劇場を訪れたときだった。「ディオニソス劇場は、アクロポリスの丘の斜面に客席があり、そこから見下ろすように舞台が設けられています。その舞台の奥は開かれていて、客席からはさらにアテネの街が一望できる。そこで思ったのは、『当時の観客は、客席にいながら舞台と一緒にその後ろにある街を見ていたんだ』ということ。つまり、舞台は、街のこと、そこでの営みについて考えるための媒介になっていたということです」

「シアター」の語源は、ギリシア語の「テアトロン」。もともと「客席、見る場所」を意味する言葉だ。「観客の体験が、演劇の実質であるということ。そうした観客論的な発想が、僕の作品の大きな軸のひとつです。そして、もうひとつが演技論的な発想。どういうことかというと、演劇の根本には、モノマネがある。演劇では、洋の東西を問わず、俳優がある人物を役としてマネるわけです。つまり、演劇は、何かを模倣するメディアであると言えるのですが、僕の場合は、モノマネの概念を少し広げて、作品やプロジェクトに拡張して考えています。たとえば、《マクドナルドラジオ大学》は大学の模倣、《東京修学旅行プロジェクト》は、修学旅行の模倣。そうやって既存のものをマネること、そして観客に『やり直し』の体験を促しながら、知っていたつもりの都市やもの、人に対する別の見方を提供する。それが、僕がやっていることです」

 森美術館で開催中の『ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会』展では、これまで高山の創作ユニット「Port B」が展開してきた作品のうち、東京を舞台にしたプロジェクトをドキュメント形式で見せる。以下は、会場で本人へインタビューしたものを編集したものだ。

――《マクドナルドラジオ大学》や《新・東京修学旅行プロジェクト》では、移民・難民問題といった社会問題もテーマになっています。この問題に関心をもったきっかけは何だったのでしょうか。

高山 これについては、少し複雑で、いろいろなことが重なってテーマにするようになった部分があります。まず、2009年くらいに、僕自身、インターネットカフェやマクドナルド、個室ビデオなどを転々として暮らさざるをえない時期がありました。たとえばインターネットカフェに行くと洗濯物が干されていたり、真夜中のマクドナルドでも大きいカバンを持った人がスマホで次の日の仕事を探していたりする。すでに「ネットカフェ難民」という言葉もあり、なんとなくそういった状況は知っていましたが、そこで、東京のリアルな側面が垣間見えた気がしました。以降、東京の難民、インターネットカフェ難民やマクドナルド難民をどう自分の作品で扱えるのかと考えるようになったのですが、ただ、舞台作品のように、誰か別の人にマクドナルド難民の役を与え、舞台上で演技させるようなことは、到底できない。

ではどうするか、と考えていくうちに、また、舞台ではできないこと、舞台表現からこぼれてしまうものを、演劇でどう扱えるのかという新しい問題意識も出てきた。加えて、ヨーロッパに行くと難民とされる方に会う機会がたくさんあり、日本の難民とは、どう違うのかにも関心が広がっていく。そういった、一連の流れで移民問題、難民問題を作品のテーマのひとつに据えるようになったというのが本当のところです。

画像: 《マクドナルドラジオ大学》(2017年〜)のセクション。本展の開催期間中、鑑賞チケットの半券をマクドナルド 六本木ヒルズ店に持っていくとマックフライドポテト®(Sサイズ)がもらえる

《マクドナルドラジオ大学》(2017年〜)のセクション。本展の開催期間中、鑑賞チケットの半券をマクドナルド 六本木ヒルズ店に持っていくとマックフライドポテト®(Sサイズ)がもらえる

――《マクドナルドラジオ大学》では、難民の方が教授になり、鑑賞者が教わる側になる。その関係が逆転するような構造に、ハッとさせられるところがありました。

高山 ヨーロッパで難民の方と話をし、一緒にプロジェクトを行って感じたことも影響しています。母国を離れざるをえなくなった人が、たとえばドイツに来ると、母国での職種や経験に関係なく、すべての人が難民という言葉で一括りにされてしまうわけです。難民の方も、その状況に満足しているわけではない。また、保護や支援を受けるためには、“行儀のいい難民”でいる必要があり、そのことに疲れてしまう人もいる。局所的に見ると、現地のドイツ人は「助けてあげる」、難民の人は「助けてもらう」という状況をどこか演じるようにも思えました。その関係は、双方にとって決して幸せなものではない。

そこで思いついたのが、難民の人に教授になってもらうということ。「助けてあげている人」が学ぶ側になり、「助けてもらっている人」が教える側になる。そうやって関係が逆転すれば少しは風通しが良くなるのかな、と。実際に、一人一人にインタビューすると、国際的に活躍してきたマラソンランナーや、本当に教授だった人、家事従事者だけれども料理のレシピについてものすごく詳しいという人もいる。そうしたその人のアイデンティティを取り戻せる場を確保したいというのが《マクドナルドラジオ大学》のはじまりでした。

――マクドナルドは、グローバリゼーションの象徴のように思われがちですが、この作品で、マクドナルドの印象もだいぶ変わりました。

高山 実際に、マクドナルドは、バルカンルート(注:2015年ごろ、シリアやアフガニスタンからの難民の多くが、西欧諸国へ移動する際に通ったルート)を通ってヨーロッパに移動してくる難民の方のセーフティネットになっていました。彼らにとって、国に残してきた家族の安否や、国境が閉鎖されているかどうかの情報は欠かせないもので、スマホは生命線。その点で、マクドナルドでは食事がとれ、充電ができ、wifiを利用でき、場合によっては寝ることもできる。難民の人にとって、そこは居場所であり、救いの場になっていたわけです。

実際にこのプロジェクトは、いちばん始めに、2017年にドイツ・フランクフルト市内のマクドナルドの7店舗で行なったのですが、マクドナルドという場所には、多様性があり、いかにさまざまな人たちの救いの場になっているかが、あらためてわかりました。劇場や美術館は多様性を担保する場所だと言われていますが、われわれは、まだマクドナルドから学ばなければいけないことがあるのでは?という問いも、作品をつくるうちに浮かんできたことです。

画像: ゲームの要素を交えた《完全避難マニュアル 東京版》(2010年)。ウェブサイトの質問に答えていくと、山手線のいずれかの駅から近い「避難所」が指定され、2010年の実施時には、地図をダウンロードして、実際にその場所を訪問することができた。「避難所」は、都市に実在する宗教施設やシェアハウス、出会い系カフェなどが設定されており、参加者は、そこで多彩なコミュニティに出会うことができた(現在はアーカイブのみの体験が可能。実際に「避難所」を訪問することはできません)

ゲームの要素を交えた《完全避難マニュアル 東京版》(2010年)。ウェブサイトの質問に答えていくと、山手線のいずれかの駅から近い「避難所」が指定され、2010年の実施時には、地図をダウンロードして、実際にその場所を訪問することができた。「避難所」は、都市に実在する宗教施設やシェアハウス、出会い系カフェなどが設定されており、参加者は、そこで多彩なコミュニティに出会うことができた(現在はアーカイブのみの体験が可能。実際に「避難所」を訪問することはできません)

――はじめて都市を舞台にした作品は、東京の巣鴨で収録した環境音を、観客が「音の地図」として聞きながら街を歩く、ツアーパフォーマンスでした。あらためて振り返ると、高山さんの作品は、「声(インタビュー、朗読、講義)」が重要な要素になっていると思いますが、こうした声、音の可能性について、何か考えがあれば教えてください。

高山 たしかに僕にとって声はすごく重要な要素です。たいてい舞台を手がけるときは、まずテキスト、戯曲がある。舞台でやることは、究極的には、書いてある文字を声にする作業だと言えます。どういう声で読むか、その先に、どう演技をするか、どんなキャラクターを表現するか、ということが演出になってくるわけですが、僕は、以前から、声がそのまま声として響いてくる舞台を作りたいとも思ってきました。ただ、「声をそのまま声として響かせる」ことは非常に難しい。役者が話す声は、セリフとして、その役の心理状況やキャラクターに自然に回収されていくもの。むしろ一般的に、声そのものが異物のように際立ってしまう演技は下手だとされてしまうものなので。

では、どうしたら、それがうまく表現できるのかーー。ふと気づいたのは、日本に帰国後、街中で作品を展開するようになったとき。街には、声がそこら中に溢れていて、これまで、戯曲を声にすること、どういう発声でやるか、どういう声を響かせるかということを、演技者の立場からしか考えていなかったことに気がつきました。そこから、「どういう声を発するか」から「巷に溢れている声をどういう風に聞けばいいのか」ということに興味が移っていったわけです。

その意味で、僕がおこなっているプロジェクトは、声を声として聞く装置をどのようにつくることができるのかということかもしれません。つまり声を受容する器つくり。普段、僕らには聞こえていないけれど、耳を澄ますとハッとさせられるような声、例えば難民の人の母国での経験についての話や自慢話。それらを器をつくっておろしてあげる。その声を声として体験できる環境をいかにつくれるか。それが、僕がやっていることだと思います。

画像: 《東京/オリンピック》(2007年) 「はとバス」を使った約8時間のバスツアー型のパフォーマンス《東京/オリンピック》(2017年)の記録ビデオ。現在の東京の基礎は「東京オリンピック」(1964年)によって作られたという見立てのもと、そのレガシーを辿りながら、東京の都市を再発見する試みだ

《東京/オリンピック》(2007年)
「はとバス」を使った約8時間のバスツアー型のパフォーマンス《東京/オリンピック》(2017年)の記録ビデオ。現在の東京の基礎は「東京オリンピック」(1964年)によって作られたという見立てのもと、そのレガシーを辿りながら、東京の都市を再発見する試みだ

――今回、森美術館の『ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会』では、2007年の《東京/オリンピック》から、現在進行中の《東京ヘテロトピア》まで、東京を舞台に展開したプロジェクトをドキュメント形式で紹介しています。振り返って、気づいたことがあれば教えてください。また、今、どういったことに関心がありますか。

高山 まず作品を振り返って、気がついたのは、次第に「プロジェクト化」していること。以前、建築家の磯崎新さんがプロジェクトという言葉の定義について、「リアルな空間にバーチャルな空間を重ねることだ」と言っていました。リアルな都市空間に、バーチャルな物語やフィクショナルな計画といったものを被せること。そうすると、現実とフィクションの間にズレができ、ものや人、都市の見方が変わることがありうる、ということです。都市そのものが変わってしまうことだってある。僕の作品も、演劇という嘘を現実の都市空間に重ねているわけですが、あらためて興味深い定義だなと思い直しました。

そして、いま、関心があることのひとつは、その「嘘」がどのように「現実」に侵食できるかということ。たとえば、これまで展開してきた《新東京修学旅行プロジェクト》は、いわば嘘の修学旅行。ですが、半分嘘で半分本当の修学旅行にしてみたら、どうなるか。《マクドナルドラジオ大学》も、嘘の大学。ただ、常に多くの店舗で難民の方たちのレクチャーを聞けるようになったら、本当にマクドナルドが大学になるということもありえる。「嘘からでた実」ではないけれど、「これ、はじめはどうも嘘だったらしいよ。じつは演劇作品だったけど、今は都市の機能になっているよね」といったところに、作品を発展できれば、と思います。

画像すべて/高山 明 展示風景:「ワールドクラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」森美術館(東京)2023年

画像: 高山明(AKIRA TAKAYAMA) 演出家・アーティスト。1969年生まれ。ドイツでの演劇活動を経て帰国。2003年に演劇ユニット「Port B(ポルト・ビー)」を結成。実際の都市を使ったインスタレーション、ツアー・パフォーマンス、社会実験プロジェクトなど、現実社会に介入する活動を世界各地で展開している。著書に『テアトロン: 社会と演劇をつなぐもの』(河出書房新社)

高山明(AKIRA TAKAYAMA)
演出家・アーティスト。1969年生まれ。ドイツでの演劇活動を経て帰国。2003年に演劇ユニット「Port B(ポルト・ビー)」を結成。実際の都市を使ったインスタレーション、ツアー・パフォーマンス、社会実験プロジェクトなど、現実社会に介入する活動を世界各地で展開している。著書に『テアトロン: 社会と演劇をつなぐもの』(河出書房新社)

森美術館開館20周年記念展
『ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会』
@森美術館
開催中。2023年 9月24日(日)まで。
詳細はこちら

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.