建築家としてのキャリアの大部分を、人道的な目的に使われるシェルターの開発に費やしてきた人物がいる。彼はまた、建築という分野の優先順位をも塗り替え、災害が絶えない私たちの時代の課題を緊急に解決する手段として、自身の建築を役立ててきた

BY NIKIL SAVAL, PORTRAIT BY NOBUYOSHI ARAKI, ARCHITECTURE PHOTOGRAPHS BY BENJAMIN HOSKING, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 坂 茂(ばんしげる)について書くということは、現在生きているほかのどの建築家について書くこととも違う。なぜなら、彼の主要な作品の多くは、実際に見たり、体験したりできないからだ。作品が隠された場所にあるとか、行くことが不可能だ、という意味ではない。多くの建築家と同様、彼も数多くの個人住宅を設計してきたし、その多くは個性的で進歩的だ。

画像: 建築家、坂 茂。2019年7月17日に東京で撮影

建築家、坂 茂。2019年7月17日に東京で撮影

 彼は日本のスキーリゾートの軽井沢に、合板を用いたプレハブ工法のホテル「ししいわハウス」を造り、フランスのメスではポンピドゥー・センターの分館、「ポンピドゥー・センター・メス」を造った(フランスの建築家ジャン・ドゥ・ガスティーヌとの共同設計で、竹で編んだ中国の帽子に似せた屋根がのっている)。さらにコロラド州の「アスペン美術館」では、カーテンウォールの外側に合成樹脂加工を施した段ボールの格子状スクリーンを配置した。最近完成した静岡県の「富士山世界遺産センター」は、逆円錐型の構造体の半分がガラスの箱に入っており、その上に平らな屋根がのっている。

この建物は清らかな風情を感じさせ、日本の最も著名なシンボルの麓に広がる静かな町に、厳かに建っている。だが、坂の全作品を見渡してみると、このような“普通の”建築物はかなり異質だ。彼の主要な作品は、一時的な仮設の建築物であり、クライアントにとってその施設が必要なくなれば、この世から消滅してしまう運命だからだ。彼のクライアントとは、災害や人災の被害者たちだ。

画像: 「ポンピドゥー・センター・メス」(2010年) HUFTON+CROW/VIEW

「ポンピドゥー・センター・メス」(2010年)
HUFTON+CROW/VIEW

画像: 「アスペン美術館」(2014年) MICHAEL MORAN/OTTO

「アスペン美術館」(2014年)
MICHAEL MORAN/OTTO

 坂は住宅やビジターセンター、コンドミニアムやタワーもデザインするが、緊急時用のシェルターのデザイナーとして、その名が最も知られている。それは地震や洪水で被災した人々や、暴力や虐殺を逃れてきた人々のための建物だ。それらのために採用したのは、坂のシグネチャーである素材、さまざまな長さや厚さの再生紙の管(紙管)だ。世界中のどこでも手に入る。小さなサイズなら、トイレットペーパーやペーパータオルの芯もそうだ。豊富に手に入るだけでなく、構造的にもしっかりしており、シェルターや住宅、さらに教会の構造としても使うことができる。坂はそんな建築物すべてを自ら造ってきた。

 1999年にはルワンダの虐殺で難民となった人々のシェルターを建て、1995年には日本で起きた阪神・淡路大震災の被災者のための住宅を建設し、同じ1995年には富士山の麓に自身のための週末用別荘を造った。自分の別荘を建てたのは、紙管の耐久テストをし、それを日本で建築資材として使えるよう政府の認可を取るためだった。これらがうまくいったことで、坂は紙管を使って神戸に教会を建てることができた。この教会はのちに撤去され、そのまま台湾に運ばれ現地で再建された。彼はしかし、別荘で時間を過ごすことはほとんどない。「週末の休みがないので」と彼は昨春、東京のオフィスでのインタビューで語った。「あの家は全然使っていない」と。

画像: 「紙の家」(1995年)。富士山の近くにある坂の別荘 HIROYUKI HIRAI

「紙の家」(1995年)。富士山の近くにある坂の別荘
HIROYUKI HIRAI

 実際に会ってみると、坂はとても落ち着いた人物で、カタログのページをさっとめくって説明する以外には、椅子から立つこともほとんどない。自分の作品について話すときには、質問を予期し、それに対する答えを効率的に提示し、時折少しいらだっているようにも見える。常に全身黒ずくめの服装で、肩幅は広く、身体はがっちりしている。若いとき、ラグビーをしていた名残があるようだ。特徴的な円錐型の髪は少し薄くなってきた。60代前半の年齢になり、彼も、彼自身が現代における人道的な建築家として最もその名が知られ、称賛されていることを自覚している。

彼は2014年にプリツカー賞を受賞した。ライバルたちも遅まきながら、世界中で最も危険にさらされている人々に建築で貢献するという彼の使命に讃同し、彼の後を追いかけるようになった。坂の作品の根底には、他者への思いやりと献身があるが、世界の厳しい現実を反映してもいる。彼の最も重要な建物が存在するところには、災害と死が常に隣り合わせで存在する。建築界というところは、一部のカリスマ的な人物の意見や、博物館のボードメンバーからの献金で物事が決まっていく社会だったが、坂のインスピレーションをかき立てたのは、気候変動や難民の危機、移民の大移動などだった。

 坂の成功が意味するのは、建築界の内部が変わっていく可能性だ。建築を使って政治的な目的を達成することから、不可避な危機への解決策(一時的なものでしかないとしても)を打ち出すことへのシフトが起きつつあるのかもしれない。10年以上の間、“スターキテクチュア(世界的に有名なスター建築)”、すなわち建築家と建築物のブランド化に重点を置いてきた建築界だが、次第に社会的な使命としての建築のあり方が問われ始めた。

だが、坂はすでに何十年も前からそうした建築を手がけてきた。彼は、突然サスティナブルな素材に注目し始めた同業者たちを称して「流行だから」と言う。彼は“サスティナビリティ”という言葉は、空虚なバズワードだと認識している。彼は単純に資源の無駄遣いを懸念しているだけなのだという。一時の流行を冷静な目で見るこうした態度こそが、彼を人道的建築家のヒップスター的存在にしているのだ。

 人が“かっこいい”と言い出す前から、この分野に夢中だった――坂はそう言いたいのではないだろうか。だが彼は同時に、公共の利益になる作品をつくることに興味を抱いて建築を学ぶ学生の数が世界中で増えていることは、嬉しいことだと語る。これは、人道的な建築物に対する需要が切迫して高まっている今の時代において、建築業界を根本から変えるほどの力をもつ変化といえる。彼は楽観的であると同時に、厳しい見解をもっている。「これから先も、問題は次々に起こるだろう」と彼は言う。「そのひとつひとつを解決していく必要がある。自然災害は発生しつづける。それを止める手立てはない」

 

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