建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した磯崎 新。磯崎なくして今の現代建築はなかったと言わしめるラディカルな先駆者が建築界にもたらした“事件”とは?

BY JUN ISHIDA, PHOTOGRAPHS BY TAKASHI HOMMA

 中秋の名月の翌9月14日、満月の夜に群馬県渋川市にある「ハラ ミュージアム アーク」に建築関係者ら約200名が集った。今年88歳を迎えた建築家、磯崎 新の米寿を祝うためだ。ハラ ミュージアム アークは東京にある原美術館の別館で、設計は磯崎が手がけた。広大な敷地にはオラファー・エリアソンやアンディ・ウォーホルの作品が点在し、美術館の一角をなす「觀海庵」では『縁起』と題した磯崎の展覧会も前日から始まった。

 大型バス3台に分かれて会の参加者が到着する。その中には建築家の妹島和世や青木 淳、石上純也らの顔も見える。日が暮れる前にホンマタカシによる集合写真の撮影が行われ、会が始まる。お祝いのスピーチの先陣を切るのは、磯崎 新アトリエの元所員、渡辺真理(まこと)だ。「磯崎さんの周囲には、常に新しく謎だらけの興味深いプロジェクトが渦巻いていて、見とれているといつの間にか自分も巻き込まれ、大変な困難に直面することになる」と、ユーモアを交えながら話す。

画像: 磯崎 新(ARATA ISOZAKI) 建築家、都市デザイナー。1931年大分県大分市生まれ。1954年東京大学工学部建築学科卒業。丹下健三都市建築設計研究所を経て、1963年磯崎新アトリエ設立。日本建築学会作品賞、RIBA(王立英国建築家協会)ゴールドメダルほか受賞多数。最新の著作に『瓦礫の未来』(青土社・2019年)がある

磯崎 新(ARATA ISOZAKI)
建築家、都市デザイナー。1931年大分県大分市生まれ。1954年東京大学工学部建築学科卒業。丹下健三都市建築設計研究所を経て、1963年磯崎新アトリエ設立。日本建築学会作品賞、RIBA(王立英国建築家協会)ゴールドメダルほか受賞多数。最新の著作に『瓦礫の未来』(青土社・2019年)がある

「謎」は、常に磯崎新につきまとう。会のスピーチで建築史家の藤森照信は、時代や状況に応じて建築物のスタイルを次々と変えてゆく磯崎のことは「なかなかよくわからない」と言い、思想家の浅田 彰は磯崎を“エニグマ(謎めいた)の人”と呼んだ。「オイディプスかスフィンクスか。磯崎さんのことを饒舌なスフィンクスだと言ったことがあります。近代の主体、特にアーティストやアーキテクトはオイディプスでした。オイディプスは世界の謎に自分から主体的に挑み解いてゆきます。対して、磯崎さんは先に自分の周りに謎のバリアを振りまいて、こういう解釈もできると自分で言ってしまう。謎の反復であり、その周りをさまざまな言葉が取り巻いている」

画像: 磯崎の初期作品である大分県立大分図書館の開館時の写真。ホール中心へと注ぐトップライトの光が美しい。1966年に竣工し、日本建築学会作品賞を受賞。1995年に閉館するが、改装され、複合文化施設「アートプラザ」となる。3Fには磯崎の建築模型や資料の展示スペースがある ŌITA PREFECTURAL LIBRARY, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

磯崎の初期作品である大分県立大分図書館の開館時の写真。ホール中心へと注ぐトップライトの光が美しい。1966年に竣工し、日本建築学会作品賞を受賞。1995年に閉館するが、改装され、複合文化施設「アートプラザ」となる。3Fには磯崎の建築模型や資料の展示スペースがある

ŌITA PREFECTURAL LIBRARY, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

 磯崎 新の謎は到底ここで解き明かせるものではないが、その建築界における功績は周囲の人物の言葉からもたどることができる。なぜ、磯崎は国内外の建築界から特別視されるのか、その謎に迫ってみたい。

 今年、磯崎は建築界の最高峰とされるプリツカー賞を受賞した。日本人の受賞者としては7組目となり、「遅すぎる受賞」とも言われた。プリツカー賞は、1979年にハイアットホテルズアンドリゾーツのオーナーであるジェイ・プリツカーによって創設されたが、磯崎はこの賞の設立メンバーの一人でもある。受賞のスピーチで、磯崎は当時を次のように振り返った。「40年前に、ジェイ・プリツカーが国際的なアーキテクチュアの賞を設立することを議論するために建築家をシカゴに招集し、私は唯一のノンアメリカンとして参加しました。アーキテクチュアはローマの時代からありましたが、近代社会が誕生した地であるフィレンツェで、ヒューマニズムの流れから、メディチ家の周りに集まった文人たちがアーキテクチュアという概念を生み出したと思います。シカゴの会議では、社会システムやテクノロジーが進化した現代社会において、建築的な達成を遂げた個人に与えるという、賞の方向性が定められました」

画像: ロサンゼルス現代美術館は1988年に竣工。福岡相互銀行(現・西日本シティ銀行 本店)の壁に用いた赤いインド砂岩が、LAの陽ざしに映えるという理由から採用された LAMOCA, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

ロサンゼルス現代美術館は1988年に竣工。福岡相互銀行(現・西日本シティ銀行 本店)の壁に用いた赤いインド砂岩が、LAの陽ざしに映えるという理由から採用された
LAMOCA, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

 プリツカー賞の審査員たちは、磯崎を建築家、都市計画者、理論家として位置づけ、「東洋と西洋の対話を促し、建築界におけるさまざまな世界的潮流を解釈し、若い世代の活躍をサポートした」と授賞理由を挙げている。また「建築の歴史と理論に深い知識を持ち、アヴァンギャルドであることを謳歌し、現状を模倣することなく、常に意味のある建築物を探求しつづけ、様式化されることを避けて絶えず進化し、常に新鮮なアプローチで取り組んできた」と、その建築家としての姿勢を評価する。

 磯崎 新は1931年に大分で生まれた。初めての建築体験は、戦後の焦土と化した都市の風景だ。「この都市が、建築が、どうやったらゼロから生まれてくるのかを考え」、建築を志す。東京大学在籍中に丹下健三と出会い、丹下健三研究室に入ると都市計画「東京計画1960」などのプロジェクトに参加する。’63年に退職すると、磯崎新アトリエを設立。独立後、60年代から70年代にかけては旧大分県立大分図書館(1966年)、群馬県立近代美術館(1974年)などを設計し、80年代はつくばセンタービル(1983年)に代表されるポストモダン建築の旗手として名を馳せた。そして1988年には海外での最初の建築作品となるロサンゼルス現代美術館(MOCA)が竣工し、名実ともに日本を代表する国際的建築家となる。

画像: ハラ ミュージアム アークで行われた米寿を祝う会

ハラ ミュージアム アークで行われた米寿を祝う会

 80年代の磯崎を知る人物の一人が、1983年から’90年にかけて磯崎新アトリエに勤務した青木淳だ。入所当時、スタッフのほとんどは磯崎にとって初の国家的プロジェクトとなるつくばセンタービルの計画に忙殺されていたという。青木が所員時代に担当した主なプロジェクトは水戸芸術館(1990年)。水戸に文化施設を造りたいという市長の強い思いから始まったプロジェクトであり、磯崎も真摯に向き合っていた。「基本的に磯崎さんは、クライアント思い。クライアントとの話を徹底的に掘り下げるのですが、一度全部忘れる、切断するんです。そして忘れることで、結果として応えられる。施主が言語化できない無意識の欲望を実現するのですが、それには飛躍が必要で、それが磯崎さんの場合は切断なのでしょう。論理的に導き出された答えではなく、よくわからないけれどうまくいく。それを成し遂げられるのが磯崎さんの魔法であり面白いところですね」

画像: 1990年に開館した水戸芸術館。シンボルタワーはDNAらせんを描く ART TOWER MITO, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

1990年に開館した水戸芸術館。シンボルタワーはDNAらせんを描く
ART TOWER MITO, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

 クライアントとの強いつながりはプリツカー賞の受賞スピーチでも感じられた。磯崎は数名のクライアントの名を挙げると、「アーキテクトを信用したクライアントがいたことで、これまでの仕事ができ上がった」と謝意を述べた。意外にも思えたこの出来事に対して、青木は幸せなパトロナージュの時代が終わったことを述べたかったのではと言う。「建築家を信頼して依頼するクライアントが存在した時代、建築は人間のために行う仕事でした。しかし今やそうしたパトロンはいなくなり、人間不在のところでシステムが自動運転している不毛の時代になりました。その中で、もう一度、人間が何かしなければお終(しま)いなのではと、磯崎さんは言いたかったのではないかと思います」

 2000年代に入ると、磯崎の主要なプロジェクトの地は、急速に開発の進む中東と中国へと移る。特に中国では都市計画を多く手がけ、その中には国家規模のものも含まれる。都市工学者である羽藤(はとう)英二は、磯崎とともに中国で都市設計のプロジェクトを手がけるコラボレーターだ。「中国の省は日本だと県にあたりますが、人口だけ見ると一つの国に値する規模です。彼らは統治するのに必要な物語を求めていて、磯崎さんはテクノロジーや歴史などさまざまな方面から揺さぶりをかけ、物語を提示してゆく。彼は、都市や国家のビジョンを描くことのできる世界でも稀有な建築家だと思います。師である丹下さんは20世紀後半の日本における国家建築家でありテクノクラートアーキテクトでした。資本の力が強くなり国家建築家であることが難しくなった時代に、そうした薫りのする唯一の人が磯崎さんです」

画像: 磯崎が最も好きな作品と言うスペインのア・コルーニャ人間科学館(1995年)。船の帆を思わせる外観が特徴 DOMUS: LA CASA DEL HOMBRE, PHOTO COURTESY OF HISAO SUZUKI

磯崎が最も好きな作品と言うスペインのア・コルーニャ人間科学館(1995年)。船の帆を思わせる外観が特徴
DOMUS: LA CASA DEL HOMBRE, PHOTO COURTESY OF HISAO SUZUKI

 現在、羽藤は中国で進む新しい都市計画にも参加している。磯崎が構想する新たな都市は、彼が世界のデジタル化が本格的になる前から唱えていた“ハイパーヴィレッジ”としての都市を具現化したものとも言える。「100年続いた“Home to Office”を規範とする都市構造は次の世紀に向けて確実に崩れてゆき、人は居住空間に留まりながら、AIの支援を受けて自らを分人化させ、情報空間を行き交う時代へと移行しつつある。中国で構想中の新たな都市はこうした時代の都市像として、建築と交通と情報を同時に設計しようと試みたもので、ハイパーヴィレッジの一つの体現です。磯崎さんの描くスケールアウトした都市プランを現実離れしていると言う人もいますが、旧来の社会制度の中で作られた都市は確実に破綻します。今、目の前にある状況のその先に向かって都市と人類の未来を描くことこそ、今アーキテクトに求められていることだという磯崎さんのメッセージが、そこには込められているのではないでしょうか」

画像: 東日本大震災を受け、アニッシュ・カプーアと共同制作した移動式コンサートホール、ルツェルン フェスティバル アーク・ノヴァ(2013年/宮城県松島町) LUCERNE FESTIVAL ARK NOVA, PHOTO COURTESY OF IWAN BAAN

東日本大震災を受け、アニッシュ・カプーアと共同制作した移動式コンサートホール、ルツェルン フェスティバル アーク・ノヴァ(2013年/宮城県松島町)
LUCERNE FESTIVAL ARK NOVA, PHOTO COURTESY OF IWAN BAAN

 磯崎は、新しい才能を見抜く目利きとしても知られる。現代建築界をリードするレム・コールハースや故ザハ・ハディドなども、コンペで磯崎に選ばれ、その代表作となる建築物を作る機会を与えられた。石上純也もまたその一人で、磯崎が審査員を務めた2010年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で企画部門金獅子賞を受賞した。時代の風を読む磯崎の嗅覚の鋭さについて、石上は次のように述べる。「磯崎さんがザハやレムの案を選んだ頃と今ではコンペの概念がまったく異なります。磯崎さんが選ぶ作品はその時代を反映し、結果として歴史に残るものになる。コンペは本来もちろんそういうものですが、その当時のコンペは磯崎さんがいることによって、建築の可能性を広げるとても重要な実験的フィールドになっていたと思う」

 フランス在住の建築家、田根 剛はプリツカー賞授賞式で初めて磯崎との対面を果たした。田根は磯崎を、現代建築を切り開いた人物と言う。「近代という時代を抜け出して、現代に向かう切り替えを、自らの建築やコンペの審査、国際会議、著書などを通じていち早くグローバルに行なったのが磯崎さんです。磯崎さんがいなければ現代建築はこれほどまで飛躍できなかったのではないでしょうか」。また田根は磯崎が建築界に起こしてきた“事件性”にも注目する。「歴史をつくるには二つの方法があります。一つは権威が持つ大きな力によって歴史をつくる。もうひとつは事件を起こす。磯崎さんは建築の事件を起こすことで歴史をつくってきました。メタボリズムや新都市を構想し、国際コンペで無名の建築家を一躍表舞台に引き上げる。事件を起こすことで、建築によって建築界を前進させ続けました」

画像: ヴェルサイユ宮殿で開催されたプリツカー賞授賞式でスピーチを行う磯崎新。隣に写るのは、ジェイ・プリツカーの息子、トム・プリツカー。授賞式には、国内外の建築家やクライアントが集まった

ヴェルサイユ宮殿で開催されたプリツカー賞授賞式でスピーチを行う磯崎新。隣に写るのは、ジェイ・プリツカーの息子、トム・プリツカー。授賞式には、国内外の建築家やクライアントが集まった

 プリツカー賞のスピーチを、磯崎は「アーキテクチュアとは何か?」という問いで締めた。「プリツカー賞を設立した初期は、“architecture is art”、芸術としての建築といえば納得されました。しかし20世紀の終わりに社会的・文化的な変わり目が訪れ、アートは中身が変わりました。もはやアートはないという人もいます。ではアーキテクチュアとは何か? アーキテクチュアそのものの意味は広がり、国家から都市、住宅、社会情報システム、国家戦略に至るまでを設計するものが、アーキテクトとされる。この時代は建築のターニングポイントです。こういうときにこの賞を受賞することは、感無量であります」。磯崎新というアーキテクトもまた、時代とともに変化し、拡張しつづける。

画像: 大分市美術館で開催の[磯崎新の謎]展の展示風景。過去に手がけたインスタレーションや都市計画が主に 展示されている。写真は、1976年にNYのクーパー・ヒューイット 国立デザイン博物館で、ハンス・ホラインとともにキュレーションした展覧会『MAN TransFORMS』で発表した作品を再制作したもの ≪エンジェル・ケージ≫(1976/2019)from MAN TransFORMS(1976-77, N.Y.)

大分市美術館で開催の[磯崎新の謎]展の展示風景。過去に手がけたインスタレーションや都市計画が主に 展示されている。写真は、1976年にNYのクーパー・ヒューイット 国立デザイン博物館で、ハンス・ホラインとともにキュレーションした展覧会『MAN TransFORMS』で発表した作品を再制作したもの
≪エンジェル・ケージ≫(1976/2019)from MAN TransFORMS(1976-77, N.Y.)

[磯崎新の謎]展
会期:〜11月24日(日)
会場:大分市美術館
住所:大分県大分市大字上野865番地
開館時間:10:00〜18:00(入館は17:30まで)
休館日:毎週月曜日(祝日・休日の場合はその翌日)
※ 第1月曜日は開館し、翌日の火曜日が休館(ただし、特別展会期中の火曜日は開館)
電話:097(554)5800
公式サイト
※展示会は終了しております

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