障害のある俳優たちが、ブロードウェイの演劇やハリウッド映画、そして評判の高いテレビ番組にキャスティングされるケースが増えつつある。彼らは、アーティストであると同時にアクティビストとして活躍する新しい土台を創造してきた。エンターテインメント産業とその観客たちがもつ常識に異議申し立てをし、「インクルージョン」という言葉が、真に何を意味するのかを問い直すために

BY MARK HARRIS, PHOTOGRAPH BY PHILIP CHEUNG, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 このムーブメントには、障害のある俳優たちの現状を実際に変える力があるのだろうか? たとえば、1970年代のエンターテインメント業界で、アフリカン・アメリカンの人々の力が認められ始めたように。また2000年代初頭に、ゲイの人々が注目され、ここ数年はアジア系アメリカ人に注目が集まり始めているように。カルチャーの変革が成功した最終的な証拠を、マイノリティの頭数をもう数えなくていいぐらいの状態に達した瞬間だと定義するなら、変革の最初の兆しは、数えるべき頭数が、実際に存在することが認識できた瞬間だろう。改革の先鞭をつけるのは、いつもテレビだ。それは単に番組数が多いからという理由なのだが。ピーター・ディンクレイジがまたひとつエミー賞を受賞したり(これまでに四度受賞)、誰かが手話で受賞スピーチをしたりする、そんな年に一度の受賞シーズンだけでなく、最近は急に多くの才能が認識されるようになった。

 ルダーマン・ファミリー財団が2018年に行った、主要テレビ局、ケーブルテレビ局とストリーミング・サービスに関する調査では、56の障害者の役が障害のある俳優によって演じられたという。ひとつ補足すると、この調査における「障害」の定義は、米国障害者差別禁止法に基づき、依存症に苦しむ役も含んでいる。だが、この解釈は、多くの人々にとって違和感のあるものだった。「障害」という言葉の定義は、目に見えて顕著で、はっきりとした身体的、認知的、神経的な損傷がある人々に使われるべきだと考える人が多いからだ。さらに大きな問題は、この調査によって、障害者の役の大多数は、いまだに健常者の俳優によって演じられているという事実が明らかになったことだ。どちらにしても、今、これまでにはなかった変化が起きていることは確かだ。

 車椅子に乗った俳優のクリストファー・ソーントンが、ドラマ『ふたりは友達? ウィル&グレイス』の続編でカレンの恋人役を演じているし、四肢麻痺の俳優、ジョージ・ロビンソンが、Netflixの『セックス・エデュケーション』のシーズン2に出演している。さらに、筋ジストロフィーで車椅子を使用しているコメディアン兼俳優のスティーブ・ウェイは、Huluで放送された『ラミー 自分探しの旅』の好演で話題をさらった。Netflixの『ハンディキャップ・キャンプ:障がい者運動の夜明け』というドキュメンタリーは、1960年代から70年代にかけて開催された障害者の子どもを対象にしたサマーキャンプを描いた作品で、サンダンス映画祭で公開され、国内ドキュメンタリー部門で観客賞を受賞した。さらにNBC局の『Zoey’s Extraordinary Playlist(ゾーイの驚異的なプレイリスト)』という番組では、ロサンゼルスを拠点とする「デフ・ウェスト・シアター」という聴覚障害者を中心に設立された劇団が、歌手レイチェル・プラッテンの歌『ファイト・ソング』をミュージカルとして演じたシーンを放送した。さらに、ショシャナー・スターンは、聴覚障害のある女優として初めて、ドラマ『グレイズ・アナトミー 恋の解剖学』に医師役で起用された。

 彼らが役を得るたびに、その情報がソーシャルメディアで拡散され、期待は高まるが、障害者の俳優(そして視聴者)たちの間では、それが何か確かなものにつながるのだろうか、という疑惑の念は簡単にはぬぐい去れない。その疑いが正しいことは、歴史的にこれまで立証されてきたからだ。過去何十年にもわたって障害者たちは、自分たちが、人として完全に認識された形ではなく、障害のない人間にとっての教訓的存在として、ポップカルチャーに組み込まれてきたのをずっと見続けてきた。彼らは、ハンデがありながらもよく頑張っている存在だと上から目線で見られ、称賛され、そして結果的に忘れ去られるのだ。

 テレビ界では彼らは長年、「非常にスペシャルなエピソード」症候群と呼ばれる場面の役割を押しつけられてきた。シリーズ番組のおなじみの登場人物たちは、社会的にも性的にも身体的にも常に好ましいと定義される役どころで、そんな健常者の役柄は、自分たちと違う境遇に置かれている人間が世の中には存在するのだという事実を、ごく短い時間だけ番組内でつきつけられる。それは、“普通の”人々の目を開かせるためだ。そして、この異色な配役に起用されるのは「無垢さ」が強調される子役のことが多い。彼らは用済みになると、穏便に、だが強力に、彼らがいた場所に押し戻される。それは画面には映らない端っこの場所だ。そんな扱いは、(ショッキングなことに)自らを「生きる教訓」とみなさない障害者たちにとって、耐えがたいほどの屈辱だ。

「我々はインスピレーションの象徴であり、苦難を乗り越える象徴であり、尊厳死の象徴でもあるのさ」と俳優でありアートディレクターであるグレッグ・モズガラは言う。「我々はひとつの文化として、こういう役割を押しつけられてきた。そうだろう? だが、人々は、この3つの筋書きに異議申し立てをするようなストーリーをどうやって抽出したらいいか、知らないことが多いんだ」。モズガラはマルティナ・マジョック作の劇『Cost of Living(人生の代償)』の主演を務め、オフ・ブロードウェイ俳優に与えられる最高の栄誉、ルシル・ローテル賞を2018年に受賞した。その後パブリック・シアターで上演されたマイク・ルー作の『Teenage Dick(原題)』でリチャード3世の高校生バージョンを演じた。

 彼自身のホームページには「俳優、ライター、障害あり」と書かれている。彼は42歳で、脳性麻痺があり、俳優としても、そして物言う存在としても、改革を一歩一歩進めようと長年活躍しつつ、同時に、何とか改革のスピードを速めたいと願ってきた。障害のある俳優のコミュニティに属する多くの仲間と同様、彼は有色人種やLGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クエスチョニング)の演者たちが勝ち取ってきた変革の歴史を学んだが、彼らと同じやり方では頭打ちの結果しか出せないと感じている。「障害はジェンダーでもなく、人種でもなく、地理的なものでもない」と彼は言う。「障害をめぐる状況で顕著なのが、トラウマと痛みだ。そんな題材を扱うのは怖いと思う人もいるし、そんな異質の存在、特に目に見える身体的な違いには、不安が永久的について回るんだ」。

 45歳の脚本家のクリストファー・シンは、希少がんに罹患して数年前に左足を切断し、義足になった。彼はこう書いている。健常者の観客たちが、ステージ上にいる障害のある俳優を見つめるとき、目の前にある現実のせいで、これまで障害を比喩として捉えていた安全な距離感が崩れてしまい、混乱するのだと。「役柄とそれを演じている俳優の情報が交錯してしまうんだ」とシンは言う。「その場で起きる違和感や緊迫した空気を、言葉でうまく言い表すのは難しいよ」。煎じ詰めれば、健常と障害の境目は多くの場合あいまいで、場合によってはその境目がなくなることもある。作家のスーザン・ソンタグが『隠喩としての病い』(1978年)でこう書いている。「この世に生まれた者は健康な人々の王国と病める人々の王国と、その両方の住民となる。人は誰しもよい方のパスポートだけを使いたいと願うが、早晩、少なくとも或る期間は、好ましからざる王国の住民として登録せざるを得なくなるものである」(富山太佳夫訳・みすず書房刊)。障害者にならないという特権など、誰ももってはいない。つまり彼らは我々であり、我々は彼らなのだ。障害というものは、何かほかのものにたとえられることを拒絶し、高みの見物を許さない。それが人々を恐れさせるのだ。

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