INTERVIEWS BY LOVIA GYARKYE AND NICOLE ACHEAMPONG, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA
アンドリュー・ホラーラン 79歳、小説家
『ダンサー・フロム・ザ・ダンス』(1978年)を語る
『ダンサー・フロム・ザ・ダンス』(1970年代のニューヨークを舞台に、同性愛者たちの生き方を描いた小説)は、この本自体が命をもっていた─僕自身予想もしなかったことだけれど。フロリダの実家でひと冬で書き上げた(当時33歳)。最後の本になるはずだった。大学院で芸術を学んで修士をとって、それから10年書き続けて、世に出た作品は雑誌でたった一本だけだったから。「もうあきらめろ。ロースクールに入り直せ」と自分に言い聞かせていた。幸いこの本は、あっというまに書き上がった。あとから考えれば、これはニューヨークで過ごした僕自身の6 年間を綴ったものだ。"自分ごと" だったから、とても書きやすかった。『ダンサー』を書き直すとしたら、きっと修正しまくるだろう。一度も最後まで読み返してはいないし、どこか変えるなんて想像もできないが。表紙の書体はもう時代遅れらしいが、僕はあれが好きだから残念だよ。
この本を書いてから、執筆とは基本的に無意識にするものだと知った。頭で考えてもうまくはなれない。脳外科医だったとしたら、何度手術してもやり方を学習しないなんて恐ろしいにもほどがあるが、物書きに関しては、はて、いったいどうやって書こうかと、毎回わからないものなんだよ。
ゼイディー・スミス 48歳、小説家
『ホワイト・ティース』(2000年)を語る
『ホワイト・ティース』(人種とアイデンティティをテーマに、ロンドンのウィルズデン周辺の数世代にわたる住民を描いた作品)には明るい喜びがある。そのことをとても気に入っています。もう25年近くも自分では手に取っていませんが。当時の私(刊行時24歳)は人について書こうとしていました。人と人との関係に何より興味があって。私が育った地域の人間は、病的な存在として語られることばかりでしたが、私たちは病気じゃないと説明したかった。見えていることの本当の姿を知ろうとせず、人の性質を決めつける─そういうことをつねに書いてきました。最近ではあまりがんばらなくてもよくなりましたが。多くの国の作家が一緒に訴えてくれていますから。特に西アフリカですね。子どもの頃の私が、一度見てみたいと思っていた土地です。 近頃は権力というものに興味があります。それなりに健全な生き方を成立させていた環境は消えてしまいました。『ホワイト・ティース』の登場人物が置かれていた状況─そこそこ健康で、手頃な値段で住める家があって、大学教育は無償─は、もうありません。今でも喜びに光をあてたいと思っていますが、そもそも人が喜びを感じるには最低限どんな環境が必要なのでしょうか。年齢を重ねた今、ノスタルジアとしてではなく政治的な危機感から、そうしたことについて執筆しています。
デボラ・ハリー(78歳)、クリス・シュタイン(74歳) ミュージシャン
『妖女ブロンディ』(1976年)を語る
ハリー デビューアルバム『妖女ブロンディ』の収録をしたのは(当時ハリーが30歳、シュタインが25歳)ジャズ・ミュージシャンが使うスタジオ。時代が違うから、高度な技術も使えなかった。つくり込みすぎなかったおかげでタイムレスな作品になったのかもしれないわね。「Xオフェンダー」とか「汚れた天使」とか、収録曲は今でもステージで演奏してる。私たちの音楽はひとつのスタイル、ひとつのサウンドじゃなくて、いろんな気持ちや生き方を歌ったもの。たぶんクリスが求めたような曲にはならないことばかりだったけど。「マン・オーバーボード」もね。
シュタイン あの曲はレゲエビートがぴったりだったかもしれないね。今つくり直すとしたら、録音しっぱなしじゃなく、いろいろと手を加えるだろう。当時はただ何テイクも録音して、一番いいのを選んで、ちょっと手を加えて、それで完成だった。多重録音もほとんどしなかった。その後の数年でプロデューサーのマイク・チャップマンから多くのことを学んだから、デビューアルバムと、その後のアルバムでは、天と地ほども違う仕上がりになった。それでも『妖女ブロンディ』は気に入ってるよ。当時の気持ちや出来事が詰まってる。あの頃のダウンタウンの空気、ニューヨークの一時期のことを思うと、50年後に僕たちがこんなふうにしゃべってるなんて、誰も考えもしなかっただろうね。
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