エルメスのメンズ部門で、長年アーティスティック・ディレクターを務めるヴェロニク・ニシャニアン。眼識のある男性のために、くつろいだスタイルでありつつ細部までこだわり抜いた彼女の服づくりは、マーケティング戦略やブームとは無縁のものだ

BY ALICE NEWELL-HANSON, PHOTOGRAPHS BY BRUNO STAUB, STYLED BY DELPHINE DANHIER, PORTRAIT BY KRIS KNIGHT, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

 英ファッション評論家のスージー・メンケスは『ニューヨーク・タイムズ』で、1992年の春夏コレクションについて、「シエナ(註:暗い黄褐色)、アンバー、クリームのグラデーションで彩られた、ゆったりしたシルエットのスーツで構成されており、今シーズンのパリで最高のコレクションだった」と絶賛した。

 このシーズン、エルメス以外の多くのブランドは、ネオヒッピー・ムーブメントを下敷きにしたり、ストリートウェアの要素を盛り込んだりしながら、90年代の始まりにふさわしいテーマやスタイルを見つけようと躍起になっていた。そんな状況も踏まえつつ、メンケスはさらにこう綴っている。「ニシャニアンは、上質な素材と絶妙なカラートーンを用いて、計算しつくされたシルエットの服を美しく仕立てている。これこそまさに90年代にふさわしいメンズウェアである」

 ニシャニアンは最初からわかっていた。自分と同じくらい要求が高く、同じようにこだわりのある人々にアピールすることが何より自分の強みになるだろうと。「私が目指しているのはつくり手のメッセージがお客さまにダイレクトに届くようなものづくり。価値やクオリティやディテールを評価してもらいたいので。セーターやボトムといったシンプルなアイテムでも、きっとそのよさを肌で感じて、理解してもらえるはず」

 ものを見る目があること、一定以上の経済的な余裕があることを除けば、エルメスには明確な顧客像というものはない。「エルメスの男性像はひとつじゃない。百人百様だから」とニシャニアン。彼女は、年齢や体型やバックグラウンドの違いだけでなく、それぞれのライフスタイルも考慮しながらデザインするという挑戦を楽しんでいる。2017年、ロサンゼルスで開催したショーでは、プロのモデル以外にアメリカ人若手シェフのアリ・テイモアや、当時ロサンゼルス現代美術館のディレクターだったキュレーターのフィリップ・ヴェルニュなどを登場させた。

 ニシャニアンは、ショーの演出ひとつとっても、メンズウェアを手がけるごく一部の女性デザイナーと、レディスウェアを創る数多くの男性デザイナーとの本質的な違いが浮き彫りになるという。男性デザイナーがたびたびファンタジーを売り物にするのに対し(そのために理想化したフェミニニティを体現する“ミューズ”を起用したがる)、女性デザイナーはもっと現実に即して、たとえば旅行向けのシャツや、体型をカバーするボトムといった細かい要望に応じたデザインをする傾向があると彼女は説明する。

 こうした事情があるために、ニシャニアンのようにメンズウェアの世界にのめり込む女性クリエイターがわずかしかいないのだろう。確かに、カフスやウエストバンドの幅をミリ単位で調整する作業に明け暮れるというキャリアは、性別を問わず、ファッションスクールの卒業生が一番に憧れるものではないかもしれない。

 90年代、ニシャニアンは、カジュアルなチェックのウールジャケットにスエードのパネルをあしらったり、レザーのベストにパッチワークを施したりと、モダンに味つけしたスーツのさまざまなバリエーションを展開していた。だが2000年代初頭にエフォートレスなファッションが広まり始めると、彼女は持ち前の創造力を発揮して、軽快なセパレートスーツの、ユニークなレイヤードスタイルを提案するようになった。たとえば2006年の春夏コレクションでは、ソフトなコットンTシャツに柄入りのニットポロを、カシミアのクルーネックセーターにスエードのジップアップブルゾンを重ね、ボタンダウンのシャツからベストまであらゆるトップスには、ほどよいシワ感のリネンブレンドジャケットを羽織らせた。こうした独特のレイヤリングは、このコレクション以降もたびたび登場している。

 また90年代はセルッティで身につけたイタリアン・テーラリングの名残で、クラシックなレザーやツイード素材特有のアースカラーを多く用いていたが、2000年代以降はアメリカや日本にヒントを得ることが多くなり、軽量繊維(ハイテク素材のリブニットや形状記憶繊維など)や新しいカラートーンを取り入れ始めた。こうしてライラック色のカシミアプルオーバーや、淡いピスタチオ色のリネンのパンツ、砂浜のような色合いのケーブルタートルニットなどが、彼女のコレクションを彩るようになった。今では夏を感じさせる爽やかな色調を目にしただけで、すぐにニシャニアンの服だとわかる。この彩りこそが、彼女が生むワードローブのベースにある「喜び」という大切な感情を象徴しているのだ。

画像: ブルゾン¥568,700、ニット¥331,100、シャツ¥104,500、パンツ¥143,000、ネックレス¥107,800/エルメス エルメスジャポン TEL. 03(3569)3300

ブルゾン¥568,700、ニット¥331,100、シャツ¥104,500、パンツ¥143,000、ネックレス¥107,800/エルメス
エルメスジャポン
TEL. 03(3569)3300

 ニシャニアンは今の仕事にやりがいと喜びを感じ、それがどんなに幸せなことであるかを自覚している。「パリのいろいろな会社で働いている友人たちに自分の話をすると、なんて素晴らしい仕事なのって、みんなにうらやましがられるの」と彼女は率直に、でもどこか照れくさそうに打ち明けた。ジャン= ルイ・デュマが約束したとおり、ニシャニアンはとてつもない自由を与えられているのだ。

 ジャン= ルイの息子で、2005年に彼女の上司となったピエール=アレクシィ・デュマも、父親と同様にニシャニアンに厚い信頼を寄せている。「30年ほど前、初めてヴェロニクに会ったときはすっかり怖じ気づいてしまって。でもすぐ彼女のエネルギーと意志の強さに魅了されました。ヴェロニクが打ちだした、メンズ・プレタポルテについての斬新なアイデアが、エルメスにとって重要なブレークスルーになったんです」。彼は、ニシャニアンとの関係を“ファッションの枠を超えて、いつまでも途切れることなく続く会話”と形容する。

 2008年にピエール=アレクシィから、メンズ・ユニバースのアーティスティック・ディレクターに指名されて以来、ニシャニアンはさらに大きな責任を負っている。この仕事を彼女は“各セクションが響き合い、全体としてひとつの美しいハーモニーが生まれるように導く指揮者”のようだと言う。

 昨年パンデミックが発生してからは、指揮者である彼女に、より慎重な舵取りが求められるようになった。ソーシャルディスタンスが叫ばれて以来、メンズ部門の各チームが顔を合わせることも、顧客を招いてコレクションを披露することもできなくなっていたからだ。

 だが彼女はこの逆境こそがチャンスだと考えた。ニシャニアンと7 人のデザイナーからなるチームに課された任務は、今まで以上に顧客のニーズに寄り添うこと。彼女たちは、外出もままならず家にこもっているとき、人はどんな服を着たくなるのかを考えた。こうして紡ぎだされた2021年の春夏と秋冬のコレクションは、これまで見たことがないほど繊細な技巧が光り、魅力にあふれていた。“現状の改善策”とでも呼べそうなルック(在宅ワークに最適な、ゆとりがあるが上品な紫がかったグレーのドローストリング・ポプリンパンツと、パジャマの上着とブレザーをミックスしたような、リラックス感のあるライトブルーのツイルジャケット)と、未来へのポジティブな姿勢を感じさせるルック(爽やかなパープルのノーカラーコットンシャツと、鮮やかなストライプのふんわりしたウールカシミアのベスト)の両方を見事に織り交ぜたコレクションだった。

画像: ニット¥177,100、シャツ¥125,400、パンツ¥139,700・ネックレス¥59,400/エルメス エルメスジャポン TEL. 03(3569)3300

ニット¥177,100、シャツ¥125,400、パンツ¥139,700・ネックレス¥59,400/エルメス
エルメスジャポン
TEL. 03(3569)3300

 ロックダウンの解除後は以前と同様に、ニシャニアンはほぼ毎日チームのメンバーと一緒にエックヴィリー館でランチをとっている(私が訪れたこの日は近所で寿司を調達していた)。彼女にとってチームは家族同然だ。なかには一緒に仕事をしてもう10年以上になるというメンバーもいて、風通しがよい関係を築いている。同族経営のエルメスが持つ、温かい人間性と社員を大切にする社風をニシャニアンが理解しているからこそ、こうした心地よいつながりが育まれるのだろう。パリ6 区、オスマン様式のアパルトマンに暮らす彼女は、社員を大事にする社風のおかげで、夫婦で過ごす時間もきちんと確保できている。週末になるとフランス中央部のサンセールにあるカントリーハウスまで車を走らせ、そこで読書をしたり(フランスの《ロマン・ニュース文学賞》の審査員も務める彼女が今読んでいるのは、フランス女流作家デルフィーヌ・ド・ヴィガンの『Les enfants sont rois』だ)、蚤の市を見て歩いたり、友人(大半がモードとは無関係な仕事をしている)をもてなしたりするそうだ。ニシャニアンは結婚して20年になる夫について「エルメスのセーターを贈ろうとすると、もういらないと言う唯一の男性」とからかうように言って笑った。

 彼女はインタビューが終わると、フィッティングの様子や新しいコレクションを直接見たらどうかと、ボールルームへ案内してくれた。白い壁の前に並んでいたのは、繊細な中間色と、地中海を思わせるカラーパレット(ひまわりのようなイエロー、スカイブルー、ブーゲンビリアに似たピンク)の服がいくつもかかったラック。ニシャニアンはその中から、メゾンの伝統的な馬具柄をプリントした“トワロヴァン”(1999年に彼女がエルメスで開発した、驚くほどなめらかで軽量な合成繊維)の淡いターコイズブルーのシャツと、新素材(クロコダイルレザーの製造過程で、普通は廃棄されてしまう端材を利用したやわらかな質感のスエード)のスモークグレーのワークジャケットを取りだして見せてくれた。コバルト色の小さな花柄をプリントした白いコットンブレザーについては、「着回しがきく服で、ビーチバッグに入れて持ち運べるし、シワがついてもほどよい感じだから、そのあと街で着るのにもぴったり」と丁寧に説明してくれた。すぐそばではモデルがボトムのフィッティング中だ。「彼はちょっと背が高すぎるけれど、すらっとした美しい脚をしてる。何点かバミューダもチェックしたかったから、彼に履いてもらえたらバッチリね」とニシャニアンはささやいた。

 そこにいたスタイリストやデザイナーの大半は男性で、何人かはエルメスのスカーフを首元にさりげなくあしらっていた。彼らを見ながら、数週間前に彼女から聞いた話─自分が手がけた服を着る人に何を感じてほしいか─を思い出した。「男性たちを変えたいとは思わない。ただ最高の気分を味わってもらいたいの。自分のことを誰より魅力的でスマートだって感じてほしいし、心地よさも味わってほしい」。男性をもっと魅力的にするために力の限りを尽くす女性。彼女のこんな役回りは、いろいろな意味でちょっと変わっているかもしれない。だがメンズウェアのデザインこそニシャニアンの生きる道であり、この仕事のおかげで彼女の人生は自由と充実感で満たされている。10代だった頃は「男性は何でも好きなことができてなんてラッキーなの」と思っていたという。だが今はきっと心の中でこう言っているはずだ。「女性である私も、好きなことを好きなようにやってこられた」と。

MODELS: OTTAWA KWAMI AT PREMIUM MODELS, OMBENI JEAN AT TIGERS BY MATT, MOUTAGA AT SUCCESS MODELS AND JODECI FATY AT IMG MODELS PARIS. CASTING: SUUN CONSULTANCY. HAIR: OLIVIER NORZ AT HOME AGENCY. MAKEUP: CELINE MARTIN AT ARTLIST PARIS. PHOTO ASSISTANTS: MICHAL CZECH, NANAO KURODA. DIGITAL TECH: REBECCA LIйVRE AT IMAGIN. STYLIST’S ASSISTANT: THГO GUIGU. HAIR ASSISTANT: ZARAH BENGHIDA

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