エルメスのメンズ部門で、長年アーティスティック・ディレクターを務めるヴェロニク・ニシャニアン。眼識のある男性のために、くつろいだスタイルでありつつ細部までこだわり抜いた彼女の服づくりは、マーケティング戦略やブームとは無縁のものだ

BY ALICE NEWELL-HANSON, PHOTOGRAPHS BY BRUNO STAUB, STYLED BY DELPHINE DANHIER, PORTRAIT BY KRIS KNIGHT, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

 6月初旬、ニシャニアンと初めてビデオ通話をしたとき、2021年の春夏コレクションで特に気に入っているディテールがあるかを尋ねた。彼女は丁寧な口調でこう断った。「申し訳ないけれど、あのコレクションはすべてのディテールが主役みたいなものだから」

 毎シーズン、すべての服はフランス国内の生地工場と、エルメスの職人たちのアトリエ、そしてニシャニアン率いる7人のデザイナーチームが拠点とするメンズ・プレタポルテのアトリエ(フォーブル・サントノーレ通りのブティックの上階にある)の間を、何カ月にもわたって行き来する。その往来のなかで無数の事項が決められ、何度も改良を重ねたうえでそれぞれの服が創りだされていく。細部までひとつひとつが慎重に検討され、その場しのぎは決して許されない。もしシャツの前立てや丈感など、ニシャニアンのイメージにそぐわない箇所があれば、彼女は穏やかな声を保ちながら何度でも作り直しを求める。こうした長いプロセスを経てようやくコレクションは完成するのだ。「本当によいものを創るには時間がかかるもの。私はきわめて上質な素材の、計算しつくされたシルエットの服を創りたいので」

画像: ジャケット¥489,500・シャツ¥104,500、パンツ¥207,900、ネックレス¥107,800、スカーフ〈65×65㎝〉、¥56,100、バッグ¥1,727,000/エルメス エルメスジャポン TEL. 03(3569)3300

ジャケット¥489,500・シャツ¥104,500、パンツ¥207,900、ネックレス¥107,800、スカーフ〈65×65㎝〉、¥56,100、バッグ¥1,727,000/エルメス
エルメスジャポン
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 スピードよりも、こだわり抜いた完璧さを求めるという姿勢は、今のモード界ではめったに見られない。ここ10年、世界規模でアパレル市場が成長し、ソーシャルメディアの普及とともにトレンドの変化は加速しつづけている。新たにリゾート・コレクションやプレフォール・コレクションなどが発表されるようになり(エルメスのメンズ部門はいずれも展開していない)、モード界は、激増した業務と過密スケジュールに追われるようになった。

 多くのブランドは時間というものをシーズン単位で区分けしているが、エルメスは数世紀という単位で区切っている。いっときの文化的な変容より、上質な素材と卓越した技術力がもたらす価値を重視しているため、エルメスは決して流行に振り回されない。その価値観はファッションブランドというよりむしろギルド(註:相互扶助・技術の独占・品質の保持などのため、親方・職人・徒弟で形成された同業団体)に近く、高いスキルや経験知を備えた社員は高く評価される(そのためにエルメスのデザイナーは、他のブランドのように数年単位ではなく、数十年単位で勤続する傾向があるのだろう)。

 ニシャニアンは自分の仕事をファッションデザインというより、丁寧にオブジェを創りだすことだとみなしている。いっときの流行を取り込んで効率よく生産される服はすぐ時代遅れになるが、シンプルさと実用性を追求し、手間ひまかけて創られたオブジェは、かけがえのないものとしていつまでも大切にされる。彼女はこうした理想を形にした服を“ドゥドゥ”、子どもが肌身離さず持ち歩くブランケットにたとえる。ニシャニアンにとって服とは基本的に使い捨てにできないものだ。それは人生というファブリックに織り込まれていく、着る人の感性や感情を表すトーテムなのだから。

 常に未来を見据えているニシャニアンは、過去についてはあまり語りたがらない。彼女はパリ生まれでパリ育ち。自分の完璧主義は父親譲りだと言う。アルメニア系移民の一世である父親は、ケーキ店を経営して成功していた。その店舗兼自宅はパリ19区のビュットショーモン公園を見渡せるエリアにあり、放課後になると彼女の友人たちが立ち寄りたがる人気の場所だったそうだ。パリジェンヌである母親は、父親とふたりで頻繁に旅行に出ていたが、それ以外のときは定期的に、ギリシャやアメリカ、アルメニア、またフランスの各地からやってきた友人たちをもてなしていた。「そのおかげで私と兄の世界観が広がった」とニシャニアン。

 両親ともにオープンマインドなコスモポリタンだったが、それに加えて母親が驚くほど強い女性だったらしい。生涯にわたって揺るぎない自信をみなぎらせていたそうだ。「私はそうした強さを母から学んだ。父親は要求の高い人で、学校ではよい成績を取るようにと期待されていたの」と彼女はほほ笑む。ファッションを学びたいと告げると両親は同意したが、ひとつだけ条件がつけられたという。「ナンバーワンになるように」と。

 彼女がファッションの道を選んだ背景には、おしゃれだった両親の影響があるようだ。父親は50年代の厳格なメンズスタイルを貫いて、オーダーメイドのスーツを身につけ、母親はシルクのスカーフ(エルメス製だったそうだ)をこよなく愛していた。だが彼女自身は常識に逆らうようなファッションを好んでいた。10代の頃は自分で生地を買ってコートやシャツを作り、ときには兄の服装をまねることもあったという。

 1976年、彼女がファッションを学びに「パリ・クチュール組合学校」に入学したとき、パリではすでに女性の装いに大きな変化が起きていた。1966年にイヴ・サンローランがクチュリエとして初めて、自らの名を冠したプレタポルテ・コレクションを発表し、1971年には5 人のアメリカ人デザイナーと、パリで君臨していた5 人のクチュリエが、米仏対抗でセンスを競い合う「ヴェルサイユの戦い」が催された(註:同日に同会場で10人がショーを披露した、史上初のパリ・コレクションでもある)。アメリカ人デザイナーたちは、スポーツウェアにヒントを得たモダンなワードローブを披露し、これからの時代に求められるのは、レディライクな上品さより、もっと動きやすく、自分らしさを表現するスタイルになることを示唆した。

 だがフランスでは依然としてジバンシィやクリスチャン・ディオールといった一流メゾンが不動の地位を保っており、ニシャニアンの学校でも彼らが掲げるノーブルな優美さを踏とうしゅう襲する傾向があったという。彼女は授業を通して緻密さを身につけ、脚がすらりと伸びた女性のデッサンを数えきれないほど描いた。卒業後、イタリアのブランド「ニノ・セルッティ」のメンズ部門のデザイナーとして採用された彼女は、自分が学んだレディスウェアデザインのスキルを、異分野で活かせることに胸を躍らせた。

 セルッティに入社後、彼女はテーラリングの世界の“厳格さ”にすっかり魅了された。デザイナーのセルッティ自身は、1951年に一族経営の繊維工場の事業を継承して、新たにプレタポルテ・コレクションを展開していた。堅苦しかったイタリアンスーツをモダンでしなやかなシルエットに変えた彼は、戦後のメンズファッションの変革を担ったデザイナーのひとりであり、60年代にはジョルジオ・アルマーニを弟子として迎え、その後、ニシャニアンを育て上げた。今でも彼女にとってセルッティはよき友人であり、師でもある。ニシャニアンはミラノとパリにあるセルッティのアトリエで、くつろぎの中にも粋を感じさせるシルエットと、男性だけのチーム内での身の処し方を学んだ。

 アトリエでたったひとりの女性だった彼女の意見には、ときに師匠のセルッティでさえ耳を貸してくれず、必死に訴える必要があったという。デザインについてコメントすると“女の考えなんて”とはねつけられたこともあった。だが仕事のクオリティの高さと、ひたむきに打ち込む姿勢が認められて、ニシャニアンは一目置かれた存在に変わっていった。またこのメゾンでは、もともと大好きだったテキスタイルの企画開発にも夢中になって取り組んだ。ニシャニアンは北イタリアのピエモンテにある同社の繊維工場を訪れて、80年代後半にスポーティ感を強めていたセルッティに似合う、新しいテクニカル素材の開発に携わった。

 そして1987年、セルッティでメンズコレクションの共同ディレクターとして活躍していた彼女に、当時エルメスの会長兼アーティスティック・ディレクターだったジャン=ルイ・デュマから一本の電話が入った。セルッティ入社後、11年目のことだった。

 ニシャニアンは最初、この電話は間違いか、冗談か何かだろうと思ったという。ティエリ・エルメスの5代目にあたるデュマは、1978年からエルメスのC.E.O.を務めていた。1984年、機内で女優のジェーン・バーキンと隣り合わせになったのをきっかけにバッグ《バーキン》を考案したことでも有名なデュマは、新世代の心をつかむいくつものオブジェを編みだし、才能ある先進的なデザイナーを次々と招き入れていた。こうして前時代の遺物のように影を潜め、経営難に陥っていたエルメスを、世界的なラグジュアリーメゾンへと飛躍的に成長させたのである。

 当時のニシャニアンはセルッティでの任務にやりがいを感じながら仕事に専心していたが、デュマから「ぜひオフィスで一緒に朝食を」と熱心に誘われて承諾した。夏休み明けの9 月、ニシャニアンはクロワッサンの入った紙袋を抱えてデュマのオフィスに向かった。ふたりはすぐに打ち解けて、会話も弾んだそうだ。そして二度目に会ったとき、デュマは彼女にエルメスのメンズ・プレタポルテ部門を任せたいと申し出た。このときのオファーの内容はファッション界の伝説になっている。デュマが彼女に、クリエーション面での完全な自由を約束したからだ。そのとき彼に「君の好きなようにやっていいよ」と言われたことを、ニシャニアンは今もまだ覚えている。

 エルメスがメンズ・プレタポルテに乗りだしたのは、ある意味、ジッパーのおかげだと言える。1922年、ティエリの孫であるエミール・エルメスは、旅先のカナダで見つけたジッパーに目をつけ、フランスでの独占販売権を取得した。その後10年のうちに、この新しい開閉システムを使ったさまざまな新製品が誕生した。エルメス初のレザーハンドバッグや、1925年に登場した最初のメンズウェアである、スエード製でフロントジップタイプのゴルフ用プルオーバーブルゾンがその一例だ。だがその後の数十年間、エルメスで男性を惹きつけてきたものといえば主に、1940年代後半に誕生した柄入りのシルクネクタイなどの小物だった。

 だがニシャニアン就任後、彼女が手がけたコレクションは瞬く間に男性客だけでなく批評家からももてはやされた。現在、エルメスでアーティスティック・ディレクターを務めるピエール= アレクシィ・デュマは、ニシャニアンの服を初めて着たときのことを今でも覚えている。「いかにも80年代らしい、パッド入りの広い肩幅のジャケットでしたが、袖を通した途端、自分がとびきりエレガントになったような気がしましたね」

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