BY THOMAS CHATTERTON WILLIAMS,PHOTOGRAPHS BY JOANN PAI, TRANSLATED BY KANAE HASEGAWA
モードな薫りが漂うパリのマレ地区、ヴィエイユ・ドゥ・タンプル通りからはずれた路地に、以前は金物店が入っていた17世紀の壮麗な建物が建つ。その中に、東京を拠点とする建築家であり、デザイナー、レストランオーナー、そして食の表現者である緒方慎一郎による最新のプロジェクト「OGATA Paris」が完成した。オープンしたての店内には、ティーブティックから茶房、フルサービスのレストラン、和菓子ブティック、バー、オープン予定のギャラリー、そしてクラフトと生活道具を扱うブティックなどが、数フロアにわたって広がっている。この空間は一人の男性が考える“日本の粋”を表現した見事な作品であり、ここではカクテルからそれを出すグラスに至るまで、細部にわたりおおよそすべてを緒方自身がデザインしている。
緒方にとって単独ではフランス初進出の場ではあるものの、隅々にわたって美と調和を求める徹底した姿勢は、緒方がこれまで追求してきたプロジェクト、東京・目黒区の住宅街の、梅の木々に囲まれた庭にこしらえた和食店や、非木材の竹とサトウキビ繊維のバガスを原料に使った、磁器のように薄く洗練された紙の器コレクションなどにも一貫して見られるものだ。まだ工事中の現場で施工業者たちがのこぎりを動かし、やすりをかけ、ハンマーをたたき、金属を溶接する中を歩きながら、緒方はおもむろに立ち止まり、30席の茶房の姿が立ち現れつつある地下へと続く階段の、ざらついた石灰岩の表面に手を走らせた。「この石は元からあったものです」と通訳を介して緒方は話す。「押しつけがましくならないように、フランスの一部を残すことはとても重要です。私にとってフランスは“外”の存在であり、私たちは空間を借りてその内部に日本をつくり出すのです」
この“借景”、すなわち“景観を借りる”という概念は何世紀も前の中国における庭園づくりの本質をなすものだ。たとえば湖や遠くに見える山頂といった、背後にある景観の不変の要素を、人間がつくり出した前景となじむように、自然な形で取り込むという考えだ。1960年代、モダニズムを標榜する建築家たちが建物の内と外の境界をあいまいにするようになると、“借景”は本来の庭園づくりの概念から、現代日本のデザインを表すものへと解釈が変わっていった。
緒方はOGATA Parisにおいてその解釈をさらに広げて、建築物という“場”そのものに当てはめた。それは元ある建物の構造を借りつつ、フランス建築に対する自分なりの解釈を加えることを意味する。茶房に隣接し、ゆくゆくはお香を焚(た)いて聞くスペースになるホールでは、フランスの祖母の家のキッチンで見かけるような六角形のタイルを敷き詰めた床を、ひとりの作業員がかがみ込んで磨いている。しかしタイルそのものはフランスでなじみのレンガ色ではない。緒方が選んだのはコンクリートのように飾り気のないグレーのタイルだ。
こうした場の持つ文脈に歩み寄りながらも、OGATA Parisは何よりも連綿と受け継がれてきた日本のクラフト、職人技、そして広い意味での日本流の暮らしの愉しみ方に敬意を表し、それを体現するショーケースだ。緒方がOGATAをなす5つの柱と考えるのは、茶を喫すること、料理を味わうこと、ものづくりを継承すること、もてなすこと、そしてさまざまなつながりによって文化を創造することだ。それらの視点から、彼は日本の美を追い求め、自身で表現することに心を尽くしてきた。とりわけ、禅僧が嵯峨天皇に献茶した9世紀にまでその起源をさかのぼる、高度に様式化された儀式である“茶”の探究に情熱を注いできた。
OGATA Parisの1階は聖堂のように薄暗く、静まり返り、二層分が吹き抜けになった空間で、天窓からの明かりが、白いテラゾーの床に唯一あしらわれた丸いガラス板の存在によって際立っている。その脇の空間には、石を切り出した手水鉢がしつらえてある。壁は漆喰(しっくい:石灰岩と卵の殻を配合したベネチアのスタッコ塗りに相当する日本の塗装方法)で覆われ、和菓子や“ひと口果子”(木の実や干した果実など、さまざまな素材を異なる餡で包んだもの)をテイクアウトできるブティックも入っている。そこからさらに、茶の専門家が常駐するティーブティックへとつながり、その黒石のカウンターを覆う銅板が日本の家庭で代々受け継がれる京都の茶筒を思わせる。来店者はここでほうじ茶や玉露といった稀少な茶葉を選んで購入できる。
五感に響くこの魔法の空間に音楽はない。あるのは水のしたたる音、グラスの鳴る音、そしてあらゆるギフトを紙で包むときの音のみ。そうしたギフトには緒方が手がける環境にやさしい紙の器WASARAや、常に入れ替わるSゝゝ[エス]のアイテムなどがある。楡(にれ)やクスノキの木から削り出した器といったヴィンテージの品々は、緒方が修繕しアップデートしたもので、これまで日本以外ではほぼ扱いがなかったものだ。1階と中2階の2フロアは美術品と骨董を展示するギャラリー(オープニングでは和紙と漆の作品の展示)となっており、日本および世界の現代写真家による写真も展示する。
ギャラリーに隣接するバーではオリジナルのカクテルを提供し、和食レストランでは緒方と十六年来、仕事をしてきた料理人の渡辺一貴が、日本各地に息づく家庭料理や郷土料理から着想した洗練された四季折々の料理を供する。黒酢とすだちソースで和えた鴨と梨のサラダや、蕪(かぶ)のピュレを添えたブリの煮付けといったメニューだ。規模(約800平方メートル)の面でも内容の面でも、このプロジェクトはデザイナーの緒方が成し遂げてきたことすべての集大成として実を結んだものだ。
緒方慎一郎は、第二次世界大戦が終わってしばらくあとに(彼は年齢を明かすことに積極的ではない)、活火山の多い九州の西岸に位置する長崎県で育った。幼い頃に見た、かつて原爆が投下された故郷の風景を、緒方は驚くほど牧歌的な言葉で表現する。「自宅は大自然に囲まれていました」そして、「野菜も含めてすべての食べ物がとても新鮮でした」と語る。両親のおかげで緒方は自然への深い尊敬の念を育むことになった。その一方で、両親と長崎の土地は、緒方に世界からのインスピレーションも与えてくれた。「港があり、そこにオランダ人とポルトガル人が来航したんです」と、16世紀半ば、日本が正式に西洋に門戸を開く約300年前にやってきた商人たちに言及する。「長崎は西洋の文化が急速に広まり、さまざまな土地の影響や食文化が共存する場所でした」
1988年、緒方はインテリアデザインを学んでその分野で仕事をするために東京に移り住む。インスピレーションを求めた彼は、大都市の象徴として崇めてきたニューヨークへ毎年渡るようになった。しかし、駆り立てられるように故郷を飛び出し、外の世界をひとたび満喫すると、思いもよらない事実が明らかになった。「大切なことに気づいたのです。自分のアイデンティティは日本人であるということに」と緒方は言う。まさにその気づきが、その後の緒方の美意識から生まれるあらゆるものに反映されていく。
1998年に東京の目黒区にオープンした和食の店「HIGASHI-YAMA Tokyo」は、降り注ぐ光とモノクロームの空間とともに四季折々の伝統的かつ現代的な料理が評判となった。同時に、自身のデザインスタジオSIMPLICITYを立ち上げると、以来引きも切らないクリエイティブな仕事を実現してきた。その中には2004年に手がけた、大分県の湯布院にある旅館、山荘無量塔のインテリアデザインもある。最近では、幅広い分野にわたる海外パートナーの日本における店舗の設計を手がけている。その中にはオーストラリアのスキンケアブランド、イソップの店舗やフランス料理のシェフ、アラン・デュカスのレストランの一つで、今は閉店してしまった大阪の店もある。さらに自身の美に対する哲学を著した本を3冊刊行し、東京大学総合研究博物館の特任准教授に就任していた。
筆者と会ったときは、マンハッタンのWest 20th Streetで進めている14席の懐石料理店odoの最終調整を終えてパリに戻ったところだった。別の海外展開の一面だ。「現代のパリにはさほど影響を受けていません」と緒方は言う。「しかし、フランスには大いに敬意を抱いています。なぜなら文化を保持し、その価値を世界に送り出してきた国だからです」。
フランス人は19世紀日本の絵画や装飾芸術に魅了され、ジャポニズムという言葉を生み出した国民であり、食、ファッションそしてデザインにおいて、両国はキャッチボールするように互いに関心をもち、交流を深めてきた。それは今でも続いている。結局のところ、この二つの国では、暮らしの中で様式というものが欠かせないとされているのだ。去り際に、コートの下に緒方が着ていた日本のものらしき服の美しさを褒めた。すると彼は笑って、日本製どころかベルギーのデザイナー、ドリス・ヴァン・ノッテンのものだと教えてくれた。「生活様式はどこのものでも分かち合えるということですね」と、緒方は言う。「大切なのは線引きをしないことです」