BY CHIE SUMIYOSHI, PHOTOGRAPHS BY KISHIN SHINOYAMA, STYLED BY KYU(YOLKEN), HAIR & MAKEUP BY ERI, EDITED BY JUN ISHIDA
唯一無二の舞踊家として国内外の芸術家や研究者に影響を与えてきたダンサー田中泯(みん)は、1985年より山梨県の山村に移り住み、現在も農業を営み続けている。
「カラダおよび労働と自然との本質的に密接な関係」に惹かれた彼は、「身体気象農場」と名づけた無農薬農場を山村に開設した。そのことについて「表現の原点としての土、森、畑、自然と切り結んだ労働の場、そこでの生々しい人間関係性への視差を、また、自らの出生現場を失うことへの危惧に突き動かされてのこと」とのちに編集者・木幡和枝は記している。
地元農家や周囲の住民たちの理解を得て、本格的に農業に従事するようになった田中は、編集者の松岡正剛(せいごう)、木幡和枝ら盟友たちに呼びかけて実行委員会を結成し、白州を舞台に、1988年『白州・夏・フェスティバル』を開始した。バブル景気が始まり、都市への一極集中が加速する社会を背景に、「日本列島の割れ目(フォッサ・マグナ)のキワにある」土地で、都市と農村の境界に新しい文化と生き方を探る長期計画だった。
舞踊、芝居、音、美術、物語、建築、映像、そして農業。そこにはあらゆる創作の営みがあった。夏の数日間、「芸能と工作・大地との生存」を掲げ、地域・ジャンル・世代を超えた人々が集った「祭り」は、やがて生活と創造の過程に力点を置いた『アートキャンプ白州』(1993~’99年)、『ダンス白州』(2001~’09年)へと展開していく。そこでは世界中から、なかには辺境の地より〈白州〉を訪れた創造者、芸能者たちによる膨大な数のイベントやワークショップが日夜催された。
伝説のように語られる〈白州〉で、いったいどのような営みが行われたのか。その全貌を開示する展覧会が市原湖畔美術館で開催されている。本展のゲストキュレーターを引き受けたのは、世界的に活躍する彫刻家・名和晃平だ。京都市立芸術大学在籍中の学生時代より『アートキャンプ白州』にボランティアスタッフとして参加。その後も幾度となく〈白州〉に通い、彼自身の創作の礎ともいえるほどの強烈な薫陶を受けた。〈白州〉とは何だったのか。田中泯と名和晃平、二人の表現者たちの証言からその一端を探る。
〈白州〉という類のない「現場」の体験。
田中泯は19歳よりクラシックバレエとモダンダンスを学び、1960年代にはモダンダンサーとして活躍したが、1974年、「精神─物理の統合体として存在する身体」に重点を置いた〈ハイパーダンス〉を標榜し、日本のダンスシーンから距離を置いて独自のダンスを追求していく。さらに1978年、東京・八王子で開設した「身体気象研究所」では、「身体の能力の問題とは違うところにある踊り」のあり方を探るワークショップが行われた。舞踊以外の領域からも芸術家や研究者が集まり、さまざまな議論が展開されたという。
「1985年に挙手した数名の仲間たちと白州に移住しました。わざわざヨーロッパから、本気かどうかを確かめにやってくる友人もいましたね。農業をしながら共同生活をすることの意味が理解できず、帰ったメンバーも多かった。1986年、土方巽(ひじかたたつみ)が亡くなり、意気消沈した僕は芸術を離れて農業に集中しようと考えました。農地を借りられるようになるまで、ほかの農家の応援をしたりしながら2年粘りました。過酷な冬を迎えても逃げ出さないことがわかって、ようやく住民たちの信用を得ることができたんです」(田中)
1987年、美術家の剣持和夫がふらりと白州を訪ねてくる。東京の磯崎新設計のビルに展示した作品が予定より早く撤去になるので、農場に移設できないだろうかという相談だった。
「鶏小屋のそばに10mの塔を建てました。村の人たちにしてみれば、これが芸術?っていうものです。剣持さんはタールだらけの顔で、ずっと作品を味わっていました。数日間の滞在中に気候が変化して、晴れたり雪が降ったりする中で、作品と心を通わせていることがわかりました」(田中)
都市の美術館やギャラリーとはまったく違う〈白州〉での現地制作では、美術作品のもつアナーキーな構造がさらに異化されることに気づいた田中は、これをきっかけに、高山登、遠藤利克、故・榎倉康二、故・原口典之ら何人かの美術家に〈白州〉で最初の展示をしないかと呼びかけた。ただし、地主から農地を借用する交渉から整地まで作家自身で行うこと。すべて現地で自分で制作すること。それが最初の年の条件だった。その後も〈白州〉のあらゆる創造的な営みを貫く指針となった姿勢である。
1994年の夏、『アートキャンプ白州』に学生ボランティアとして初めて参加した名和晃平も、〈白州〉という類のない「現場」を体験したひとりだ。
「古民家の解体や鶏小屋の修復、舞台の設営などを手伝いました。廃材の山から錆びて曲がった釘を抜いて、金槌でたたいてのばすだけで丸一日かかるんです。そこにあるものだけで何ができるか。ルールとかフォーマットといえるようなものが何もないので、自分たちで考えなければならない。しかも看板の位置とか、あらゆることが毎年変わっていくんです」(名和)
名和によれば、田中は「あとには何も残さない」と事あるごとに口にしていたという。「かたちあるものはみな消え去り、参加者の体験だけが残る。そんなあり方を泯さんたちは望んでいたように思う」と彼は当時の空気を回想する。
「マニュアルは絶対に作らないと決めていました。僕はツアーで旧社会主義国へ行くことも多かったのですが、舞台の設営をしようにも曲がった釘しかない、という時代でした。僕たちは別の文化圏にいるけれど、動かされるのではなく、自分たちの手でやってみようと決めたんです」(田中)
〈白州〉では実際に何が起きていたのか。
もの派の世代を中心とした美術家たちによる大規模な屋外彫刻やインスタレーションが現地制作され、休耕地や野山に設置された。山林や田んぼ、道端や穴の中を舞台に、ダンサーや音楽家が即興的なパフォーマンスを同時多発的に繰り広げた。
「人やものが絶えず出入りし、絡まり合いながら営まれる有機的な運動体」と名和が表するように、同時代を代表するアーティストから次世代を担う若手まで、すべての表現者が土地と格闘し、廃材を再利用し、創意工夫を試みたのである。
「あらゆる芸術の幅広い領域から友人たちを引っ張り込みました。たとえば、本土で初めて沖縄県人会によるエイサーの公演が行われたのは〈白州〉です。カレル・アペルは踊っている僕の衣装に〈白州〉の風景を描いた。マルセ太郎さんはノーギャラで『スクリーンのない映画館』を上演してくださった。仕事よりもはるかに自分の刺激になりました」(田中)
田中が初めて俳優として出演した映画『たそがれ清兵衛』(2002年)の山田洋次監督も訪れた。監督自身の昔の映画を田中らが手作りした大きな和紙のスクリーンで上映し、村人と一緒に食事を取って楽しんでくれたという。俳優の堤真一も何度も訪れ、田植えのワークショップに参加したりしている。「人々に取り囲まれることもなく寛いでいて、うれしそうでした」と田中は振り返る。
「観世栄夫さんのパフォーマンスでは、建築家の永山祐子さんが裏方で、舞台に枯れ葉を降らせていました。僕たち学生ボランティアチームはキャラバンのように各地の芸術祭を回っていましたが、〈白州〉ではすべてのプログラムを見せてもらえるんです。そこで過ごす間に、あらゆる芸術家の熱量を感じることができる。しかも権威やヒエラルキーがない。貴重な場所だったと思います」(名和)
「アートキャンプは混沌としていました。そもそも(観客に)見せるためにやっていないんです。表現者が当たり前に顔と顔を合わせて、常に新しいセッションやレクチャー、ワークショップが行われていました。説明も結論もないまま、参加するプロセスを大事にしました。突発的なものも含めて、あらゆることを許容して、ダメと言うことはありませんでした。社会はそれを常識で抑えて固めてしまうけれど、〈白州〉では新たに提案していけばいい。個人の可能性を信じていたと思います」(田中)
ずっしりと重みを持つ〈白州〉での身体と言葉。
一方、〈白州〉では対話や議論も大いに白熱した。フェスティバルやアートキャンプの期間、夜ごと酒を酌み交わしながら熱っぽい応酬があったことが想像できる。〈白州〉では「言葉」はどのように位置づけられていたのだろう。
「まだ学生だった自分には初めて聴くような議論ばかりでした。大人たちが喧嘩寸前になるまで本気になって、ひとつの概念を掘り下げようとする、その緊張感がすごかった。なかには政治運動を闘ってきた活動家もいましたが、そういった人たちの言葉にはどこかやるせなさのようなものを感じていました」(名和)
「やり合いのようなことはちょくちょく起きていました。社会思想や主義主張なんかなくても平気だった。むしろ理路整然としたことを言う者ほど、そういうあんた自身はどうなんだ?と疑われました。身体の模索という行動が先にあるほど、言葉はずっしりとしていました。身体からは逃げられないんです。今はますます、言葉からあふれてしまうダークマターのようなものを抱えて生きる時代だから、いくら言葉を尽くしても充当できないものがある。この国はスッキリ死ねない、お化けの国ですから」(田中)
前述のとおり、〈白州〉では必要なものをその都度つくり、解体することが常であった。「あとには何も残さない」という方針に貫かれたその活動について、記録や報告書、論評といった言葉のアーカイブもあまり残っていない。「記録」「報告」といった行為が、「継続」や「発展」「拡大」を目指すためのものだからだ。
「言葉の記録は、複雑で無限である〈個の日常〉に区切りをつけるものです。僕たちは成果や目標を想定しなかっただけでなく、啓蒙や伝達すら意識していませんでした。時代の変化、終わりのない営みの中で、ただ継続することに意味を感じられなかったからです。それに、広く発信しすぎることで村を壊したくないという気持ちもありました」(田中)
「〈白州〉は、都市生活に疑問を感じて、このまま生きていていいのだろうかと焦りを感じている人に響いたと思います。この場所のあり方に共感して毎年訪れる人たちを選んでいる、フィルターのようなものがあったのかもしれません」(名和)
〈白州〉は、現在の地方再生型芸術祭の起源ともいえる「祭り」を実現し、図らずも20年以上にわたって開催された。たとえば、2000年に始まった『越後妻有 大地の芸術祭』の10年以上も前に〈白州〉は、「芸能と工作・大地との生存」「農村から都市を逆照射する」「土地の貸借」といったテーマや課題にすでに取り組んでいた。だが、その営みは毎年ゼロから現場でつくり上げたものであった。フォーマットやマニュアルを定着させず、いわゆる事業化とは真逆の「けものみち」を選んだのである。
今回の展覧会では、写真や映像などの稀少なアーカイブ展示のほか、野外美術工作物「風の又三郎」に参画した美術家たちのトリビュート作品の展示などが企画されている。さらに、関係者の証言とプロジェクトの記録をまとめた出版物、田中へのインタビュー映像、シンポジウムなど、充実したアーカイブの構築を通して、〈白州〉が戦後日本の芸術文化に与えた影響や、現代における意味と今後の可能性を照射しようと試みる。
なかでも注目したいのは、『白州・夏・フェスティバル』に招かれ、現地で制作した大規模な作品を村人から借用した農地に自身の手で設置した美術家たち──剣持和夫、高山登、遠藤利克、故・榎倉康二、故・原口典之─の当時のドローイングを含む作品が、ゲストキュレーター名和晃平および名和が選んだ同世代の藤崎了一、藤元明の作品とともに展示される空間だ。世代を超え、物質や環境と格闘してきた骨太の作品が拮抗する展示に期待が高まる。
いま芸術祭はどうあるべきか。本展はその問いに明確な解答を提示するには至らないかもしれない。だが、この20年余に乱立した国際芸術祭がフォーマット化され、さらにエネルギーや環境の切実な問題に直面する現在こそ、〈白州〉が追求した「農村から都市を逆照射する」その角度を粛々と検証するべき時だ。時代に先駆けて、均質化し消耗する都市文化の枠組みを突破し、危機感を表明してきた田中泯と賢人たちの反骨の姿勢を受け継ぐ者は、いったい誰なのだろう?
『試展ー白州模写「アートキャンプ白州」とは何だったのか』
会期:〜2023年1月15日
会場:市原湖畔美術館
住所:千葉県市原市不入75-1
開館時間:[平日]10:00~17:00、[土曜・祝前日]9:30~19:00、[日曜・祝日]9:30~18:00
(最終入館は閉館時間の30分前まで)
休館日:月曜(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日〜1月3日)
料金:一般 ¥1,000、大学・高校生・65 歳以上 ¥800
電話:0436(98)1525
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