BY GIA KOURLAS, PHOTOGRAPHS BY YUDI ELA FOR THE NEW YORK TIMES, TRANSLATED BY NAOKI MATSUYAMA
フェニックスでスクール・オブ・アメリカン・バレエの2度目のオーディションを受けた時には、母親は出生証明書を渡してくれず、オーディション会場まで車で送ってくれることもなかったと言う。「それがニューヨークに来ようと思ったきっかけでした。とりあえずどこかへ行ってしまいたかったんです。そして、ニューヨークに来てからはもっと大変になりました。14歳の若さで、いったいどうしたら国の反対側からそんな人に対処すればいいのでしょうか」
学生として自身が振り付けた作品にゴードンを起用したラヴェットは、徐々に彼の人生や育ちをより深く知ることになる。そして、「彼がなぜあれほど静かで、どこか遠くにいる感じがしたのか。そして、より深いレベルで彼がどんな人なのか」を理解できるようになったと言う。
彼の支えとなったのは、拠り所という意味でも、感情のはけ口という意味でも、踊りだった。「スクール・オブ・アメリカン・バレエ時代を振り返ってみると、自分では意識していないところでいつもすごくストレスを感じていたんだな、ということが今だったらわかります。『あなた達は僕のことも、今までの人生のことも何も知らない。これまで長い間自分で自分の面倒を見てきたんだし、僕はひとりで大丈夫だ』と、反抗していたんだと思います」
ゴードンが22歳の時に母親が亡くなった。その後、彼は思いがけなく解放感を得たと言う。「もちろん辛いことです。でも、もう苦しいとは感じません」
それでも、ゴードンは自身がソリストやプリンシパルとして踊る姿を母親に見てもらえなかったことを残念に思っている。母親が彼の初めての舞台について話してくれたことを思い出す。3歳のときのことで、スパンコールのついた青いサスペンダーをつけてタップダンスを披露した。「水玉模様のドレスを着た女の子ばかりのなかで、僕ひとりが男の子だったんです。幕が上がっても、3歳の子供たちですからもちろんちゃんと踊らないんですが、僕は踊りきって、ステージから降りてきて母に『(舞台で踊るの)大好き!』と言ったそうです」。
フェニックス・ダンス・アカデミーの後、バレエ・アリゾナで学び、そこでスクール・オブ・アメリカン・バレエの存在を知った。そして13歳の時、友人たちと一緒にオーディションを受けた。しかし、一度目は受からなかった。「僕は年齢の割には体が本当に小さくて、たぶん骨格の成長がふたまわりぐらい遅れていたと思います。実際、内分泌科の医師に診てもらったほどです。でもただ遅咲きだっただけでした」。
ゴードンは、翌年のオーディションに受かった。体はまだ小さかったが、成長期に差し掛かっている頃だった。スクール・オブ・アメリカン・バレエの教師たちのことはとても気に入ったが、それでも彼はもがいていた。家庭は未だに混乱に陥っていた。そして、学校からは見捨てられているように感じたと言う。
「とても悩んでいました。ニューヨーク・シティ・バレエで踊りたいと思っていたのですが、だんだん不安になってきました。『どこで踊りたいの?』と何回も聞かれたので」と、彼は話す。
在学中には、パリ・オペラ座バレエ団のオーディションを受け、代役としての契約を得た。彼の人生にとって重要な時期に、自信を与えてくれたのは、シティ・バレエの元プリンシパルであり、元教師のダーシー・キスラーだった。(キスラーは、夫のピーター・マーティンスが職権乱用や身体的な不正行為の告発を受け、同バレエ団の総芸術監督の職を退いた後、バレエ団を去った。マーティンスは、疑惑を否定している)
ゴードンに「心配しないで大丈夫。あなたは、何がしたいの?」と声をかけたのは、キスラーだった。「『もちろんここで踊りたいです』と答えました。すると彼女は、『じゃあここで踊ればいいわ』と言ってくれたんです。やっと、もやが晴れたような瞬間でした」。
2011年に実習生となり、翌年にはコール・ド・バレエに加わった。2017年にソリストに昇格し、そして2018年にはプリンシパルに。彼を抜擢したスタッフォードは、「自然な浮力とでも言うんでしょうか。彼には、淀みのない、力強いテクニックがあるんです。彼のターンには、目を見晴らせるものがありますよ。それに、ただリハーサルや、運がよければ本番でも成功する、というのではありません。舞台に上がるたびに確実に披露してくれる、彼はまさに本物なんです」と話す。