BY MOMO MITSUNO
ある朝、着て行こうと思っていたキャミソールが見つからない。新しく洗濯機を買ったら、10分でOKと言うボタンがあり、毎朝それでチャチャッと洗濯ができる。家族のだれかが洗濯したのか、キャミソールは、のんびりとベランダで風に揺れていた。
取り込んで、触ってみるとまだ半乾き。そっと着て、ドライヤーをあてる。お腹や肩に温風を当てていると、娘が来て、「なにやっとるん?」と不思議そうな顔をする。
「キャミソールを乾かしているのよ」
「脱いでやりなよ。それ、シルクだから傷むよ」
門前の小僧、教えなくても素材についてわかっている、と言わんばかりに「型崩れするでしょう、別のにしたら? たくさん持っているじゃない」と言う。
たしかにキャミソールはたくさん持っている。でも、今日はこの、襟元にレースの施された黒のキャミでなくちゃダメなのだ。服を着た時、身体の感覚がくっきりする。気合がはいる、と同時に、身体の動きに応じて襟元からかすかに覗くレースが美しい。男っぽい服を着る時にも必要だから、大切に育ててきた。
娘は出かけてしまい、わたしは温風をかけ続ける。
服や下着を、いや靴だってバッグだって、ボールペンの一本であろうと自分の元へ来たものは愛おしく、育てようとしてしまう。
育てる、という言葉を最初に教えてくれたのは、籠を中心に展示しているギャラリーのオーナー、Hさんである。
「籠育て、楽しんでくださいね」
葡萄蔓の籠を買ったお客様、ひとりひとりにそんな声をかけている姿を見て、思わず訊いた。
「籠って育てるモノなんですね。でもなぜ葡萄の籠だけに声をかけるのですか?」
Hさんによれば、葡萄蔓は硬くて丈夫だが、そのぶん、ひとに馴染みにくい。それを、手間と時間と愛情をかけて自分らしい色と艶にしていくのだそうだ。かける時間は十年単位ということもある。親子3代で使い込む、という愛好者も少なくない。つまり一生モノだ。とても贅沢なおしゃれといえるが、根気もいる。
ファッション、特に肌に直接身につけるものは、育てるのに時間がかかる。本当は洗濯機に入れないで、シルク用の洗剤で押し洗いをするのが基本だ。薄くて傷つきやすい素材に負担をかけないようにして洗うことを繰り返しているうちに、思わぬところがきつかったキャミソールでも、襟ぐりが少しゆるいと感じるTシャツでも、いつしかすべての要素がその1枚の中に吸収されて溶け込んで、誰のものでもない、わたしだけの身体にぴったりと寄り添ってくる。
ファッションとは対極のように思えるが、それは「道具」ともよく似ている。
たとえば鉄のフライパンをよく洗って乾かし、油を引いてしみこませる。使う時はまた火に掛けて新しい油を少し足す。そうして使い込んでいくうちに、フライパンは鈍い光を放ち始め、調理したものはまろやかさを身につけて、明らかに買った時とは違う表情を見せ始める。味も深みを増す。
刃物もそうだ。使いこんでいくうちに手に馴染み、自分に使いやすい刃がいつのまにかできている。
服は新品が良い、という概念が、この国に強く残るのは、多分外来のものだからだろう。まだ歴史が浅いのだ。だから古びてしまった服をすぐ捨てようとする。新しい服はもちろん、古着屋さんで買った服も、まずは自分の手元に置いて育ててみたい。
育ちあがったとき、その服と自分との新しい関係が生まれているかもしれない。