BY TAKAKO KABASAWA, PHOTOGRAPHS BY KIKUKO USUYAMA
チャンスを素直に受け止め、人生の扉を開く
「渋谷で肉マンを売っていたのよ、アルバイトで。その時、あなたはスターになる!と声をかけられて、その気になっちゃったのね」。トップモデルからデザイナーへ……その華麗なるキャリアチェンジを目にすると近寄りがたいようだが、本人はいたって気さくで、淡々とモデル誕生までの秘話を語る。
声をかけた人物は、戦後初の女性作詞家であり越路吹雪のマネージャーも務めた岩谷時子さんだった。岩谷さんに勧められるまま歌のレッスンに通い、“歌手募集”という張り紙を見て五反田のキャバレーに無邪気に飛び込んだ経験も。やがて、しなやかな長身を活かして1960代からモデルの道を歩き出した。
イッセイミヤケやヨウジヤマモト、ヨーガン・レールのファッションショーでも活躍した。彼らの前衛的な感性に刺激され、ランウェイの隙間を縫っては「この素材はなんだろう、どうやって作られているんだろう」と洋服の素材や仕組みに興味の眼差しを注いでいた。その姿にデザイナーとしての才を見初めたのが、ヨーガン・レールである。「あなたは他のモデルとは違う、うちに来なさい」というヨーガン・レールの言葉を機に、林さんはモデルとしてのキャリアを離れた。
ヨーガン・レールのスタジオに通いはじめると、物作りの学びの場はフィールドにあったという。「道端をよく見なさいと言われ、石や木の葉を拾ったり、空の写真を撮ることが日々の課題に。最初は意味がわからなかったけれど、だんだんと“それぞれの美”を感じるようになったのね」。普通なら見過ごしてしまうようなものに美や面白さを見出す視点と、それを唯一無二の価値へと昇華させる感性を育む。そんな経験を積み重ねるという幸運は、誰にでも訪れることではない。
5年間のアシスタントを経て、やがて自身のブランドを設立。それがワールドの目にとまり『HIROKO HAYASHI』を立ち上げ1993年に渡伊。約30年という時間をミラノに捧げた。「時代と若さも後押しして、失敗してもいいから、とりあえずやってみたいと思ったの。挑戦したいという衝動には抗えなかった」。
毎朝、“今日一日”のテーマを自分に与える
何気ない日常からデザインソースを発見する審美眼は、イタリアでさらに開花する。「見るもの全てが新鮮。土木工事用のフェンスネットでさえ素敵に見え、そこからインスピレーションを得たバッグを発表したことも」。廃材から椅子や作品を作るアーティストの友人からも影響を受け、生活の道具に宿る機能性を自らのデザインへと反映。「HIROKO HAYASHI」のバッグのファスナーに、アイコンとして下げられた小さなスプーンもその一つ。「開閉する際に驚くほど親指にフィットするの。このピタッとする感触に出会った瞬間は思わず唸ったわね」。
ミラノでの暮らしは、日本との時差に対応しながら仕事を進めるため、スタジオを兼ねた自宅で一日の大半を過ごした。そんな日々に欠かせなかった習慣が散歩である。「目覚めると、まずは新聞を買いに家を出てエスプレッソを飲む。ただそれだけで頭の中がゼロになるの。そのうち新聞の面白い写真が目にとまり、それが着想のもとになったことも。煮詰まると、一日に何度だって散歩に出かけたわ」。
穏やかな空気をまとう林さんだが、「実は、じっとしていられない性分なのよ。家で時間を持て余すとね……何でも自分の好みに塗ってしまうの」と、極上の“ひとり遊び”を打ち明けてくれた。ミラノではピアノをペンキで白く塗り、さらにその上から珈琲で煉瓦モチーフを描いた。東京に戻ってからも、拾ってきたドングリやエッフェル塔や手の模型をマジックで黒く塗ってみたのだと笑う。
「今日はどんなテーマを自分に与えようか、そう思って毎日を過ごすことを自分に課している。特別なことに限らず、何だっていいのよ。どうせ目が覚めるんだから(笑)、充実の焦点をどこに置くかを真剣に考えなきゃ。煮詰まったら、散歩に行けばいい」。
そうは言っても、生きるということは煩わしいことも隣り合わせでは?と問うと、少し考えて「自分を助けるのも自分、ダメになるのも自分。」という答えが静かに返ってきた。
林ヒロ子(デザイナー)
18歳から20年間トップモデルとして活躍。モデル時代からモノ作りに強い関心をもち、デザイナーを志す。1984年にデザイナーとして独立し、'93年から単身ミラノにわたり、『HIROKO HAYASHI』を設立。「モノを作ることは、自分と向かい合うこと、自分を探求すること」と、情熱をもってモノ作りに取り組んでいる