ミュージシャンや小説家が自らの出発点となった作品について語るーーもしも今、手を加えるとしたら、何を変えるだろうか。全4回特集の最終回は、彫刻家のマヤ・リン、ミュージシャンのトレイシー・チャップマン、ジュエルが想いを語る。

INTERVIEWS BY LOVIA GYARKYE AND NICOLE ACHEAMPONG, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA

マヤ・リン 64歳、彫刻家
ワシントンD.C.のベトナム戦争戦没者慰霊碑(1982年)を語る

全長150mのベトナム戦争戦没者慰霊碑の実物大模型:1981年。

COURTESY OF MAYA LIN;

「ベトナム戦争戦没者慰霊碑」を、私が設計したシンプルで装飾のない姿のままにすることに対しては、多くの反発を受けました。私はフランスとイギリスによってつくられた第一次世界大戦の慰霊碑に感銘を受けていたのです。戦争が人の命という高い代償を支払わせたことを、リアルに鋭くつきつけていました。

 当時の私(1980年、イェール大学3年の20歳)が現場(慰霊碑が建った場所)で考えたのは、大地を切り落として開くという案でした。地面に壁を差し込むという発想ではなくて、ぱっくりと開いた大地の表面が、磨かれたジオード(註:堆積岩などに生じる、自然結晶でできた空間のこと)のように見えているという構造なのです。あらゆることを考慮に入れました。たとえば慰霊碑前の歩道は地続きではなく、あえて壁から少し離して敷きました。慰霊碑の足もとに接する形で歩道を敷いたら、慰霊碑はジオードではなく、歩道の縁石になってしまう。だから壁と歩道とのあいだに芝生を植えたのです。ところが予想以上に多くの人が訪れ、芝生が踏まれてダメになったので、数年後に政府当局のお抱え建築家たちが私に知らせることなく対処してしまいました(花崗岩の歩道の左右に石畳を敷いた)。あれは考え直すべきだと思います。醜悪ですから。調和していません。見るたびにやりきれない気持ちになります。

画像: イェール大学の卒業式で、母ジュリア・チャン・リン、父ヘンリー・ファン・リンと。シカゴのオバマ大統領センターで44作目となる作品が来年完成予定 COURTESY OF MAYA LIN

イェール大学の卒業式で、母ジュリア・チャン・リン、父ヘンリー・ファン・リンと。シカゴのオバマ大統領センターで44作目となる作品が来年完成予定

COURTESY OF MAYA LIN

トレイシー・チャップマン 60歳、ミュージシャン
『トレイシー・チャップマン』(1988年)を語る

COURTESY OF ELEKTRA RECORDS

 音楽のミューズのために─あるいは、なんであれ、インスピレーションの源として私に音楽をつくらせる存在に向けて、リスペクトを込めて歌を書き始めた最初の頃は、編集はいっさい入れないことにしていた。最初に浮かんできた歌のままにするべきだと思っていたから。あのアルバムの収録曲の中でも「トーキン・バウト・ア・レヴォリューション」は、16歳のときに、そういう気持ちで書いた曲なんだ。一気に書き上げた歌はいくつかあるけれど、この曲もそうで、力を込めて主張する作品になった。

 22歳で書いた「ファスト・カー」のほうはあまり時間はかからなかったけれど、曲づくりの姿勢が前とは違っていて、こちらは主張というよりも、心を打ち明ける曲だね。ひとりの人間について、その人生で起きる変化について語っている。このときは編集を入れたり、歌詞を変えたりした。具体的に説明するのは気恥ずかしいけれど、歌詞の途中の「See, my old man’s got a problem(私の父にはちょっと問題があって)」っていうところ、あれも最初は別の歌詞だったんだ。

 ある意味で、曲をつくるのは問いかけることであり、その問いに答えていくことでもある。「この人はどんな人なのか、どうしてこんなことをしているのか、どんなストーリーになるのか」というふうに。若い頃は、曲が思い浮かんだ時点で、そういう問いの答えがすべて入っているはずだと思っていたんだ。今は、最初に浮かんだことを全部そのまま反映しなきゃいけない、という考え方はしなくなったけれど。

画像: 1987年、ロサンゼルスのスタジオで、プロデューサーのデヴィッド・ケルシェンバウムと。デビューアルバムは35周年を記念して今年夏に再発予定 LESTER COHEN/GETTY IMAGES

1987年、ロサンゼルスのスタジオで、プロデューサーのデヴィッド・ケルシェンバウムと。デビューアルバムは35周年を記念して今年夏に再発予定

LESTER COHEN/GETTY IMAGES

ジュエル 49歳、ミュージシャン
『ピース・オブ・ユー』(1995年)を語る

IMAGES; COURTESY OF CRAFT RECORDINGS AND JEWEL

『ピース・オブ・ユー』をつくったときに重要だったのは、自分の心をいつわらない正直なアルバムにすることだった。小説家のチャールズ・ブコウスキーやアナイス・ニンが好きなんだけど、それはきれいごとだけじゃなく、自分自身をさらけ出して書いているから。あのアルバムをつくったときの私も、そのままの自分を出そうと思った。だから等身大のアルバムになったと思う。バンドと一緒に収録するのも初めてでよくわかっていなかったし、私の声をもっときれいに響かせたり、もっと上品なものに仕立ててくれるようなプロデューサーを選んだりもしなかった。ありのままの自分(16歳から19歳)のスナップ写真みたいにしたかったから─経験不足で、心がとんがっていて、生きる意味を探してもがいている私のままの。

 当時の私は強い不安症で、パニック発作や広場恐怖症もあったけど、曲を書くことが一種の薬になって、夜も眠れていたの。プロになろうと思って書いたりはしなかった。曲づくりの技法なんて何もなくて、ただ私の心が穏やかになること、私にとってしっくりくること、私が思っていること、書きたいことが大事だった。読書が趣味だったから、フラナリー・オコナーとか、(ジョン・)スタインベックとか、(アントン・)チェーホフとかを下敷きにして歌詞を書くことが多かった。短編を音楽にのせるという感じで。

 あのときの私は、自分の音楽を最高の芸術作品にしたいなんて思っていなかった─私自身の人生を、私にとって最高の作品にしたかっただけ。もちろん音楽とは誠実に向き合っている。でもそれ以上に、自分に対する約束を守ることについて、いつでも誠実でいたい。

画像: 1994年、ニール・ヤングのプライベートスタジオで。5 月にアーカンソー州のクリスタルブリッジズ・アメリカン・アート美術館で、ジュエルの没入型展覧会が開催予定 COURTESY OF THE JEWEL KILCHER ARCHIVE AND BERSHAW ARCHIVAL MANAGEMENT

1994年、ニール・ヤングのプライベートスタジオで。5 月にアーカンソー州のクリスタルブリッジズ・アメリカン・アート美術館で、ジュエルの没入型展覧会が開催予定

COURTESY OF THE JEWEL KILCHER ARCHIVE AND BERSHAW ARCHIVAL MANAGEMENT

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