書評家・石井千湖によるブックレビュー。今回は2024年10月にノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの3作品をご紹介。初めてでも何度目かでも、ハン・ガンの世界に触れる至福の時は何度あってもよいもの。湖のように静かに、深く、広く、本を愛する思いを共有したい

BY CHIKO ISHII

『別れを告げない』

 韓国人として、またアジアの女性として初めて、2024年のノーベル文学賞を受賞したハン・ガン。スウェーデン・アカデミーは授賞の理由を説明したコメントの中で、彼女の作品を「過去のトラウマと向き合い、人間の命のもろさを浮き彫りにした、激しく詩的な散文」と評していた。今年3月に日本語版が刊行された『別れを告げない』でも、過去のトラウマに向き合っている。
 語り手のキョンハはソウルに住む作家だ。ある都市で起こった虐殺に関する本を出してから、悪夢を見るようになった。どことも知れない野原に雪が降り、山に植えられた何千本もの黒い丸木のところへ海が押し寄せてくるという夢だ。キョンハと、友人でドキュメンタリー映像作家のインソンは、黒い木の夢をもとにした短編映画を作ろうと約束するが、実現しないまま4年の月日が流れる。その間にキョンハは家族と仕事を失ってしまう。いっぽう、母を看取ったあと故郷の済州島で暮らしていたインソンは、木工作業中に誤って指を切断し、ソウルの病院に運び込まれる。インソンの家に取り残された鳥を助けるため、キョンハは済州島に向かうが……。

画像: 『別れを告げない』 ハン・ガン 著、斎藤真理子 訳、緒方修一 装丁、豊島弘尚 装画 ¥2,750/白水社 COURTESY OF HAKUSUISHA

『別れを告げない』 ハン・ガン 著、斎藤真理子 訳、緒方修一 装丁、豊島弘尚 装画
¥2,750/白水社

COURTESY OF HAKUSUISHA

 韓国のハワイとも呼ばれる済州島に雪が降り積もることを、私はこの小説を読んで初めて知った。「済州島四・三事件」の犠牲者が推定25000人から30000人ということも。朝鮮半島が南北に分裂した1948年、南だけの単独選挙に反対する済州島民が4月3日に武装蜂起した。その闘争の鎮圧の過程で多くの島民が国家公権力によって虐殺された。朝鮮半島現代史上最大のトラウマというべき事件だ。キョンハが吹雪の中、遭難しそうになりながらインソンの家を目指しているとき、インソンの母が語った四・三事件の記憶がよみがえる。母の村の人が皆殺しにされた日も雪が降っていた。
 白い鳥たちの群れのような雪、子供の頬の上で溶けない雪、アスファルトに落ちてためらうみたいに消えていく雪。本書にはさまざまな雪が描かれているが〈永遠と同じくらいゆっくりと雪片が宙から落ちてくるとき、重要なことと重要ではないことが突然、くっきりと区別される。ある種の事実は、恐ろしいほど明白になる。例えば苦痛。〉というくだりが印象深い。

 雪景色が美しいのは、すべてを白で覆うからだ。どんなに汚れたものでも、まっさらに見せてくれるイメージがある。ところが、キョンハにとっての雪は、何も隠してくれないし、リセットもしてくれない。重要なことと重要ではないことを区別して、自分の苦痛を明白にする雪なのだ。キョンハは雪に導かれ、夢ともうつつともつかない不思議な世界に迷い込む。そして、遠く離れた場所にいるはずのインソンと語り合う。
 雪に音を吸い取られた静寂そのものの空間で、ふたりは四・三事件にまつわる資料を読み、死者の声を聴く。焼き払われる村、残酷な方法で殺される人々、凄惨な遺体の様子がありありと思い浮かぶ。生き延びた人も後遺症やトラウマに苦しんだという事実。胸がふさがる。
 ただ昔こんな悲劇がありました、だけでは終わらない。たとえば、インソンが指の縫合手術をしたあと、切れた神経が死なないように、三分に一度、傷に針を刺して痛みを感じる処置を受けるところ。キョンハは〈大丈夫そう?〉と訊くが、インソンは〈続けてみないとね、とりあえず〉と言う。恐ろしい痛みがあっても回復の見込みがあるなら続けてみるインソンは、キョンハが諦めても黙々と黒い木の夢の映画をつくる準備を続けていた。その粘り強さはインソンの母にもあったもので、過去と現在をつなぎ、死に引き寄せられていたキョンハを思いがけない場所へ連れていく。
 ラストシーンに舞い落ちる雪はとりわけ忘れがたい。虐殺は今も起こっていて、無力さに打ちひしがれることもあるが、それでも考え続け、悼み続ける。〈別れを告げない〉人たちの芯にあるものを映した雪だ。

『少年が来る』

『別れを告げない』のキョンハは、2014年に虐殺に関する本を出してから悪夢を見るようになった。その2014年、ハン・ガンは光州事件を題材にした『少年が来る』を上梓している。光州事件とは、1980年5月18日、軍事政権下の光州で、民主化を求める学生や市民が武力制圧され、160人以上(正確な人数は不明)が死亡したというという事件だ。ハン・ガンは光州で生まれ、9歳のときソウルに引っ越したが、事件は彼女が光州を離れて約4カ月後に起こった。
 市民の遺体が一時的に安置された施設で『少年が来る』の幕は開く。トンホという15歳の少年が、はぐれてしまった友達を捜している。トンホは友達と一緒に行った広場で軍人に銃撃されたときのことを回想する。殺された人、生き残った人、遺族。さまざまな視点で、事件当時のこと、その後の出来事が語られていく。作家が自分をまるごと明け渡して、登場人物の声の容れ物になったような書き方だと思う。

画像: 『少年が来る』 ハン・ガン 著、井手 俊作 訳、文平銀座+鈴木千佳子 装丁 ¥2,750/クオン COURTESY OF CUON

『少年が来る』 ハン・ガン 著、井手 俊作 訳、文平銀座+鈴木千佳子 装丁
¥2,750/クオン

COURTESY OF CUON

 トンホと遺体の身元確認作業をしていた女子高校生ウンスクのその後を描いた三章「七つのビンタ」に雪の降る場面がある。小さな出版社で働くウンスクが担当する戯曲集に当局の検閲が入る話だ。戯曲集は大半が黒く塗りつぶされて出版できなくなってしまう。ウンスクが光州事件のことを思い出しつつ、会社に居残っていると、窓の外に白いものが舞い始める。〈雪は挽きたての米粉のように軽くて柔らかそうに見えた。しかしそれが美しいことはもはやあり得ないと彼女は思った〉というくだり。たまたま生き残った罪悪感と、理不尽な暴力が続いていることに対する絶望が伝わってくる。けれども、検閲された戯曲は当局が妨害できない形で上演されるのだ。
 ハン・ガン自身を彷彿とさせる作家が語り手になるエピローグ「雪に覆われたランプ」は『別れを告げない』のラストシーンと響き合う。ぜひあわせて読んでほしい。

『すべての、白いものたちの』

 ハン・ガンの小説で雪が出てくるといえば、『すべての、白いものたちの』もはずせない。ポーランドの翻訳家に誘われてワルシャワにしばらく滞在した経験をもとに書かれた作品だ。
 

画像: 『すべての、白いものたちの』 ハン・ガン 著、斎藤 真理子 訳、Douglas Seok 写真、佐々木 暁 装幀 河出書房新社/¥2,200 COURTESY OF KAWADESHOBOSHINSHA

『すべての、白いものたちの』 ハン・ガン 著、斎藤 真理子 訳、Douglas Seok 写真、佐々木 暁 装幀
河出書房新社/¥2,200 

COURTESY OF KAWADESHOBOSHINSHA

「私」「彼女」「すべての、白いものたちの」の三部構成になっていて、白いものにまつわる散文詩のような言葉が並ぶ。なぜ白いものについて書いているのかというと、ワルシャワが白い街だからだ。1944年、ヨーロッパの都市で唯一、ナチに抵抗して蜂起したワルシャワは、爆撃によって95%の建物が破壊された。石造りのがれきが白いために、空撮すると都市が雪景色の中にあるように見えたというところが鮮烈だ。
 〈私〉はワルシャワに似たある人のことを考える。ある人とは、生まれて2時間しか生きられなかった〈私〉の姉だ。名前に雪の字が入った〈彼女〉。〈私〉は白い街の中に〈彼女〉をよみがえらせる。時空を超えた再生の祈り。手にとりやすい文庫版もいいが、白の多彩さを装幀で表現したハードカバー版もいい。とても静かで美しい本だ。枕元に置いて、少しずつ、繰り返し読みたい。

画像: 石井千湖 新著「『積ん読』の本」(主婦の友社)が注目を集めている書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経て、書評家、インタビュアーとして活躍中。新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿をはじめ、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。ほか著作に『文豪たちの友情』(新潮文庫)、週刊誌の連載をまとめた『名著のツボ 賢人たちが推す! 最強ブックガイド』(文藝春秋)がある。

石井千湖
新著「『積ん読』の本」(主婦の友社)が注目を集めている書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経て、書評家、インタビュアーとして活躍中。新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿をはじめ、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。ほか著作に『文豪たちの友情』(新潮文庫)、週刊誌の連載をまとめた『名著のツボ 賢人たちが推す! 最強ブックガイド』(文藝春秋)がある。

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