小説という形を取りながら、ある時代のアメリカの世の中や、そこで生活する人々の思想・生き方を切り取り、深く描く作家として、本国でも日本でも高く評価されているジェニファー・イーガン。読書家として知られる元大統領オバマ氏の夏の読書リストにも選ばれた作品を含め、彼女の新作から話題作まで、名翻訳で読める3冊をご紹介

BY CHIKO ISHII

“SNSの先”がある近未来が舞台
『キャンディハウス』

『キャンディハウス』(谷崎由依訳)は、『ならずものがやってくる』でピュリッツァー賞と全米批評家協会賞を同時受賞したジェニファー・イーガンの長編小説だ。原著が刊行されたのは2022年。新型コロナの感染拡大が少し落ち着いて、リモートワークが当たり前になり、Netflixなどの配信サービスが急成長した時期だ。アメリカは民主党政権だった。
 本書は全体が4部に分かれていて、各章の主人公は異なる。通して読むといくつかの家族のサーガが浮かび上がる、という凝った構成になっている。

 最初の登場人物は、ビックス・ボウトン。“マンダラ”という会社の創業者で、テック業界のアイコン的存在だ。40代に入って新しいアイデアが出てこなくなり、危機感をおぼえたビックスは、ある学術的な集まりに参加する。そこで動物学者の話にインスピレーションを得て開発されたのが“オウン・ユア・アンコンシャス”というサービスだ。そのサービスを使えば、自分の意識を外在化し、記憶を再訪することができる。どんな小さな出来事も忘れることはない。やがて自らの記憶を匿名でクラウドにアップロードする代わりに、たくさんの人の意識の集合体にアクセスできる“コレクティヴ・コンシャスネス”という機能も生まれる。しかし、データ化に抵抗する人々があらわれて……。
 この30年くらいの変化をふりかえってみれば、あながちありえないとも言いきれない近未来の話だ。イーガンは学生時代、スティーブ・ジョブズと交際していたことで知られている。訳者あとがきによれば、本書にはジョブズと語ったヴィジョンも反映されているらしい。

画像: 『キャンディハウス』 ジェニファー・イーガン 著、谷崎由依 訳、中山晃子 装画、早川書房デザイン室 装幀 ¥3,850/早川書房

『キャンディハウス』 ジェニファー・イーガン 著、谷崎由依 訳、中山晃子 装画、早川書房デザイン室 装幀 

¥3,850/早川書房

 冒頭の学術的な会合で印象的だったのが、美術史学者の〈人間の存在を定量化する目的が、彼らの行動から利益を得ることならば、それは人間の尊厳を奪うことだとわたしは思ってる。ジョージ・オーウェル的だとすらね〉というセリフだ。その後、動物学者が〈でも科学は定量化で成り立っているわ〉と返す。定量化のおかげで人間は自分や世界の謎を解いたり発見したりできるのだけれども、新しい一歩を踏み出すたびに、一線を越えてしまうことへの懸念が議論されるという。生殖医療や生成AIにまつわる議論が思い浮かんだ。

 ビックスはすでに一線を踏み越えたことがある人だ。マンダラを起業してまもないころ、人類学者ミランダ・クラインの『親近感のパターン研究』という本に出合い、その理論に含まれる〝好みにまつわるゲノム式〟をソーシャルメディアに応用して成功を収めたのだ。ミランダは自分の研究を悪用されたと思っている。ビックスに再び一線を越えさせたものは何か? ミランダの理論はなぜ売られたのか? 美術史学者の息子たち、ビックスの旧友、ミランダの娘たちなど、さまざまな人物の視点で本書はその答えを明らかにしていく。
 たとえば、リンカーンという青年を語り手にした「韻律構造」という章。リンカーンはカウンター(計算者)だ。カウントに偏執する特質ゆえに幼少期は扱いにくいと思われていたが、コレクティヴ・コンシャスネスが定着した世界ではデータをもとに人間の行動を予測する専門職として活躍している。リンカーンは同じカウンターであるMに片思いをしている。その恋のゆくえを、Mのそばかすの数から彼女について考えている時間まで、あらゆるものを計測しながら語るくだりがチャーミングだ。

“キャンディハウス”という言葉が最初に出てくるのは、ミランダの娘たち、ラナとメローラを主人公にした「お母さんの謎」。姉妹の父は、有名な音楽プロデューサーのルー・クラインだ。1999年、音源ファイル共有サービスのナップスターがブームになったとき、ルーはいずれ自分のやってきた仕事は完全に消滅するだろうと予言する。予言をなぞるように音楽産業は急落し、ルーは病み衰えていく。姉妹は“共有(シェア)”を終わらせようと足掻き、〈お菓子の家(キャンディハウス)を信用しちゃいけない! 無料で得ていると思っているものに対価を払わされるのは時間の問題だ。どうして誰もわからないの?〉と警告する。 
 オウン・ユア・アンコンシャスもまた、お菓子の家のような技術だ。記憶というキャンディを用いてこれまでと異なる世界に人々を誘い込み、価値観を激変させてしまう。本書はそんなテクノロジーが出現した時代に、小説がどんな役割を果たせるのかを問いかける。  
 次に紹介する『ならずものがやってくる』と密接につながった作品でもあるので、ぜひあわせて手にとってほしい。

ピュリッツァー賞ほか受賞作
『ならずものがやってくる』

 イーガンの代表作で世界的なベストセラーでもある『ならずものがやってくる』(谷崎由依訳)は、1章から6章の「A」、7章から13章までの「B」に分かれている。各章が独立した短編になっていて、全体を通して読むとゆるやかにリンクしている。アナログレコードのアルバムを彷彿とさせる構成だ。盗癖がある若い女性、性的能力に衰えを感じている音楽プロデューサー、独裁者の専属コンサルタントなど、主人公は章ごとに変わる。

画像: 『ならずものがやってくる』 ジェニファー・イーガン 著、谷崎由依 訳、セキネシンイチ制作室 カバーデザイン ¥1,320/早川書房

『ならずものがやってくる』 ジェニファー・イーガン 著、谷崎由依 訳、セキネシンイチ制作室 カバーデザイン
¥1,320/早川書房

 タイトルの“ならずもの”は、7章「AからBへ」に出てくる。すっかり世間に忘れられたロック・スター、ボスコのセリフだ。ボスコは新しいアルバムを準備中で、広報係を務めるステファニーに片っ端からインタビューを受けたいと言う。そして、こう続ける。
〈人生を満たしているろくでもないもの、クソッタレな屈辱をすべて記録に残す。それがリアリティってもんだろ? 二十年も経ったら、人間見栄えだって悪くなる。胃腸を半分も切り取られたんじゃあ尚更だ。時間ってやつは、ならずものだ。この言いまわしは当たってるだろ?〉。
 本書はいろんな形で時間という“ならずもの”を描いている。最も風変わりなのは、12章「偉大なロックン・ロールにおける間(ポーズ)」だ。12歳の少女アリソンが家族のことをパワーポイント(!)のプレゼンテーション形式で語る。アリソンの兄は長めのポーズがあるロックの曲が大好きで間の部分だけを聴くのだが、父は息子のこだわりを理解できない。すれ違う親子の愛が悲しくも微笑ましく、間の音楽に耳を傾けたくなる話だ。

ひとりの女性の静かに燃える人生
『マンハッタン・ビーチ』

『ならずものがやってくる』の登場人物のひとりが〈おれと、アメリカは似ているんだ〉と言う。ある事件がもとで挫折したジャーナリストだ。イーガンは繁栄に翳りが見えてきた9.11同時多発テロ後のアメリカと、かつては情熱的だったのに時の流れとともに失望に蝕まれる人を重ね合わせているのだ。

『マンハッタン・ビーチ』(中谷友紀子訳)では、超大国アメリカの基礎が築かれた時代に光をあてている。1934年のニューヨークで物語の幕は開く。11歳のアナ・ケリガンは、父のエディに連れられて、マンハッタン・ビーチ近くの屋敷を訪問する。屋敷の主はデクスター・スタイルズというイタリア系ギャングの大物だった。アイルランド系の移民で、大恐慌によってすべてを失ったエディは、裏金の運び屋をして生計を立てていた。アナが13歳のときにエディは失踪。1942年、ブルックリン海軍工廠の工員になった19歳のアナは、ナイトクラブでデクスターと再会する。
 働いて母を支え、重い障害のある妹を愛し、女性にとってはハードな潜水士という道を選ぶ。芯が強いだけではなく、秘密も持っているアナが魅力的だ。

画像: 『マンハッタン・ビーチ』 ジェニファー・イーガン 著、中谷友紀子 訳、田中久子 装幀、黒田潔 装画  ¥3,850/早川書房

『マンハッタン・ビーチ』 ジェニファー・イーガン 著、中谷友紀子 訳、田中久子 装幀、黒田潔 装画

¥3,850/早川書房

 イーガンの小説の魅力は、過去現在未来を行き来しながら、個人と家族と社会を多面的に描いているところだ。2024年以降のアメリカは、政権交代が起きて混沌としている。生成AIもあっという間に普及してしまった。常に時代と人間に向き合っているイーガンが、これからどんな作品を書くのか。新作を待ちたい。

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画像: 石井千湖 書評家、ライター。 新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿のほか、オンラインメディアでは『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。『TJAPAN』本誌では村田沙耶香氏へのインタビューや、ファッション企画に合わせた小説・随筆などの選書を手掛けるなど、多方面で活躍中。

石井千湖
書評家、ライター。
新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿のほか、オンラインメディアでは『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。『TJAPAN』本誌では村田沙耶香氏へのインタビューや、ファッション企画に合わせた小説・随筆などの選書を手掛けるなど、多方面で活躍中。

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