なぜ、モード界の中心はパリなのか。ムッシュ ディオールが世に生み出し、創り上げたものとは――? 作家の原田マハが、パリで開催中の『クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ』展を訪れ、長年の問いへの答えを見いだす

BY MAHA HARADA

 冒頭、不意打ちをくらってしまった。最初のパートに展示してあったのは服の陳列ではなく、なんとサルヴァドール・ダリやパブロ・ピカソのアート作品だったのだ。それは、ディオールが27歳のときに友人と始めた画廊の再現だった。ディオールがもともとギャラリストだったとは。しかも先鋭的なシュルレアリスムの作品を取り扱っていたとは。なるほど、だからなの――と目から鱗が落ちる思いがした。ディオールのデザインが、ともすれば消費されるだけの「流行」を追いかけるのではなく、普遍的なオーラをまとったように見えるのは、アートが根底にあったからなのだ。

画像: ムッシュ ディオールの画商時代の彗眼と友人関係がしのばれる展示 PHOTOGRAPH BY ADRIEN DIRAND

ムッシュ ディオールの画商時代の彗眼と友人関係がしのばれる展示
PHOTOGRAPH BY ADRIEN DIRAND

 クリスチャン・ディオールは、1905年、フランスの北西部、ノルマンディー地方の町グランヴィルで、実業家の父のもと、裕福な家庭に生まれる。印象派の画家たちが美しい風景を求めて訪ねたノルマンディーは、花と緑に恵まれた風光明媚な土地である。ディオールの成長の過程にノルマンディーの豊かな自然があったことは幸いだった。名作パルファムの数々や草花をモティーフにしたピースにその影響がなかったとは決して言えないからだ。その後、一家はパリの中心部に居を構え、ディオールのパリ・ライフが幕を開ける。

 父の命により当初はパリ政治学院で学ぶも、幼少の頃から、美しく新しいもの――つまりアートやモードに興味を培っていたディオールは画廊を立ち上げる。おそらくディオールは、当時最先端の芸術にかかわる仕事を独自にやってみたかったのだろう。若者らしい向こう見ずさがそうさせた─とはもはやいえない年齢ではあったが、まだまだ失敗は許された。彼には裕福な父の支援があったのだ。しかし、折しもパリは混迷の時代に突入しつつあった。世界大恐慌のあおりで父の会社は倒産し、画廊は閉鎖に追い込まれる。

 いかなる時代になろうとも、どこまでも美を追求しようとの意欲に燃えていたディオールは、デザイン画を手がけてみようと思い立つ。スイスのクチュリエ、ロベール・ピゲのもとにデザイン画を持ち込み、採用となる。これがディオールのデザイナーとしての記念すべき一歩となった。彼はピゲのもとでモードの基礎を学んだが、すでにヨーロッパには軍靴の足音が響き渡っていた。第二次世界大戦が勃発し、ディオールは徴兵されてピゲのもとを去る。その後、ナチス・ドイツに占領されていたパリへ帰ってくると、ルシアン・ルロンのメゾンのデザイナーとなり、占領下の苦渋の時代を生き延びて戦後を迎える。世界を熱狂させる世紀のデザイナー、クリスチャン・ディオールの誕生は、このあとまもなくのことだ。

「パリを解放するくらいならば破壊せよ」とのヒトラーの命令に、パリ攻防の司令官だったコルティッツ大将が「破壊するにはパリは美し過ぎる」と拒否した─とのエピソードでわかるように、ヨーロッパ中を巻き込んで燃え上がった戦火の中で、パリは奇跡的に生き延びた。ディオールは、そのパリと命運を共にしたのである。彼は、いまこそ自らのクリエイションを花開かせるときだと悟っていた。彼の才能─創造力と商才─そしてただならぬ情熱に商機をみた実業家、マルセル・ブサックがパトロンとなって、1946年、ついにクチュール・メゾン<クリスチャン ディオール>が設立された。そのときディオールは41歳。時代に翻弄されて芽吹かずに終わったかもしれない運命から逃れた、遅咲きの花。が、苦難の時代につぼみを閉じて耐え抜いたからこそ、香しい大輪の花を咲かせたのだ。

画像: 1949年秋冬 クリスチャン・ディオールによる「Junon」ドレス。オートクチュール、"Milieu du siècle"ライン COURTESY OF LES ARTS DÉCORATIFS / NICHOLAS ALAN COPE

1949年秋冬 クリスチャン・ディオールによる「Junon」ドレス。オートクチュール、"Milieu du siècle"ライン
COURTESY OF LES ARTS DÉCORATIFS / NICHOLAS ALAN COPE

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