ファッションに計り知れない影響を及ぼしたマルタン・マルジェラ。彼のそばにはひとりの女性の存在があった。これは彼女の物語である

BY SUSANNAH FRANKEL, TRANSLATED BY FUJIKO OKAMOTO

 1984年、メイレンスはベルギー初のコム デ ギャルソンのブティックをオープンすることにした。メイレンスは初めて東京に行って川久保玲に会ったときのことを振り返る。「私は上から下までメゾン マル ジェラでキメて行ったのよ。もちろん、靴もね。川久保は何も言わずに私を見ていた。とうとう私がこう切り出したの。『私の服、どうかしら?』。川久保は『その靴、すごく気に入ったわ』と言って、一足注文してくれたの。自分の部屋に戻ってから真夜中だったけどマルタンに電話したの。『マルタン、レイ・カワクボに靴を一足売ったわよ』。もちろん、マルタンは大喜びよ」

 メイレンスの提案に同意した川久保は、メイレンスの将来を見据えた考え方に今も一目おいている。 川久保は「ジェニーはインパクトのある新しい服を作るというポリシーをもった意志の強い女性」とメイレンスを高く評価する。多くを語らない謎に包まれたもう一人のファッション界のカリスマからの最大の讃辞だ。ラフ・シモンズもメイレンスを「自力で成功を収めた強烈な個性をもった女性」と讃美する。シモンズはジル・サンダーのクリエイティブ・ディレクターを務めていたときに、メイレンスと知り合った。2005年から2011年には夏の間、イタリアのプーリアにあるメイレンスの海辺の別荘を借りるようになった。メイレンスがシモンズに別荘を譲るまで、ふたりは数日間を一緒に過ごすこともあった。

画像: 非対称的なスタイル(1997-’98年秋冬プレタポルテコレクション) FIRSTVIEW

非対称的なスタイル(1997-’98年秋冬プレタポルテコレクション)
FIRSTVIEW

 マルジェラはメイレンスにかつて経験したことのないような親近感を覚えるようになった。1988年、ジャン= ポール・ゴルチエのもとでデザインチームを率いていたマルタンは職を辞して、メイレンスとともに自身のブランドを立ち上げた。マルジェラは言う。「ふたりともメゾンをスタートさせる準備はできていると思った。こうして僕らのメゾン、『メゾン マルタン マルジェラ』が誕生した」。マルジェラによれば、一年かけてアイデアをあれこれ出し合いながら議論を重ねたという。メイレンスが計画を立て、マルジェラがコレクションのスタイルを考えた。「いつも話し合っていたわ。アイデアはブレインストーミングから生まれたのよ」とメイレンス。「最初はマルタンと私だけだったの」

 メイレンスはマルジェラが拠点にしているパリで平日を過ごし、メゾンの立ち上げに奔走した。資金集めからフィッティングのアドバイスまで、何から何までこなした。「女性は、これや、あれは好きじゃないかもね」というメイレンスの意見にマルジェラは真剣に耳を傾けたという。少し前に夫と離婚していたメイレンスは週末にはベルギーに戻って、マルジェラとの新しい事業をサポートするために自分の仕事も続け、ソフィーとフランクという子ども二人の世話をした。「お金がなかったから、パリへ行くまでのガソリン代が心配だったわ」

「これが普通だと思っていた」と話すのはメイレンスの娘ソフィーだ。「母は家にいないことのほうが多かったけれど、家族のために頑張っていたのよ。手を握っていてくれたわけではないけれど、週末には戻ってきて、手作りの料理で冷蔵庫をいっぱいにしてくれた。 当時はポスト・イットが発売された頃で、母のお気に入りだった。『シャワーを浴びたら、バスタブを洗うこと』みたいに、あれをああしろ、これをこうしろと家じゅうに母の指示が貼りつけられていた。ソフィーはその後、母とともにメゾン マルジェラで働くことに なる。ソフィーはメイレンスとマルジェラの関係をこう説明する。「メゾンを立ち上げる前から、母とマルタンはいつも一緒だった。まるでふたつの魂が情熱に突き動かされて、互いに相手を見つけ出したみたいだったわ」

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