ファッションに計り知れない影響を及ぼしたマルタン・マルジェラ。彼のそばにはひとりの女性の存在があった。これは彼女の物語である

BY SUSANNAH FRANKEL, TRANSLATED BY FUJIKO OKAMOTO

画像: マルジェラの服を着てニューヨークのブティック 「シャリヴァリ」に集まった人々(1994年) PHOTOGRAPH BY ANDERS EDSTROM

マルジェラの服を着てニューヨークのブティック 「シャリヴァリ」に集まった人々(1994年)
PHOTOGRAPH BY ANDERS EDSTROM

 マルジェラは1997年から2003年にかけて、メイレンスの計らいによりエルメスのクリエイティブ・ディレクターを務めた。エルメスでのマルジェラの業績は誇り高いメゾンの保守的な手法を根底から覆したとは言い難く、時代を超えた美しさのある、控えめでラグジュアリーな服を提案するにとどまった。だが、メイレンスはエルメスとの契約にはメリットがあったと考えていた。「少なくとも、わが社(メゾン マルタン マルジェラ)は元が取れたんだもの」

 今、ある種のノスタルジアもあって、当時のメゾン― 実際にはマルジェラ本人― は多くの人々から一目おかれる存在、尊敬の的だったとまで言われている。だが、実際はそういうわけでもなかった。 メイレンスが採用する人はファッション業界での経験がない人が多かった。従来のファッション業界の 採用者は「非常に感情的」だと思っていたからだ。 メイレンスに採用され、1993年から2008年までマルジェラの広報チームを率いたパトリック・スカロンはこう言っている。

「今では誰もがマルジェラのよい面ばかりを見ているが、当時はエルメスでのマルタンの作品を嫌っていたことを忘れている。『どうして あれほど才能のあるデザイナーが金もうけに走って、 あんなにつまらない作品を作るのか』と。マルジェラのコレクションも反感を買われることが多々あった。マルジェラらしくいるには代償が伴うことを理解する必要がある。われわれは宣伝をいっさいしなかった。マルタンもファッション・エディターの機嫌をとるためにランチを一緒にするようなことはなかった。

 マルジェラ本社はパリ18区のとてもよい場所にあったが、訪問者には不便で、気楽に来られるような場所ではなかった。だから、コレクションに座席がなかったことで、翌朝に嫌がらせの電話がかかってきたときは信じられなかった」。 電話番号を探し出すのは簡単ではなかったはずだ。「有限会社ヌフ」(ヌフは数字の9 。メイレンスとマルジェラのラッキーナンバー)は上場企業だが、メゾン マルタン マルジェラは上場していなかったからだ。「ジェニー、厄介事も腹の立つこともあるさ。努力も必要さ。すべて、楽しもうよ」とマルジェラは言ったという。

 メイレンスとマルジェラの出会いは1983年。メイレンスはベルギーのテキスタイル業界が毎年主催する「ゴールデン・スピンドル・アワード」の審査員を務めていた。そこに出場していたのがマルジェラだった。当時はベルギーの人々の間にファッションに対する認識が芽生え始めたばかりだった。マルジェラの1年後にアントワープ王立芸術アカデミーを卒業して、のちに「アントワープの6人」と呼ばれるダーク・ヴァン・セーヌが優勝した。マルジェラを推したメイレンスは微笑みながら当時を振り返る。「私にはマルジェラが一番だった。ほかの審査員と激しくやり合ったの。外科医の手術着にインスパイアされた作品だった。オーバーサイズのスカートに重たいローヒールのマスキュリンな美しい靴。すごくインパクトがあったわ」

 その後まもなくして、メイレンスはこの才能あふれる新進デザイナーにある提案を持ちかけた。メイレンスが経営するブティック「クレア」で1週間だけマルジェラの服を売るというものだった。その年の初めにブリュッセルの中心部サンカトリーヌ広場にオープンした革新的なブティックだった。そのあたりではファッションよりフィッシュマーケットがよく知られていた。「サンカトリーヌ地区が今のようにデザイナーブランドが集まるファッションエリアとして、ブリュッセルで最も注目される場所になったのは間違いなくジェニーのおかげだ。ジェニーの銅像を建ててもいいくらいだ」とマルジェラもメイレンスの功績を認めている。

画像: ニュートラルなレイヤードスタイル(1996-’97年秋冬コレクション) © MARINA FAUST

ニュートラルなレイヤードスタイル(1996-’97年秋冬コレクション)
© MARINA FAUST

 メイレンスの「クレア」では、注目のデザイナーたちの作品を扱っていた。その中にはフランス・アンドレヴィ、新進気鋭のフランス人デザイナー、クロード・モンタナ、少し前にパリのファッションシーンに登場して衝撃を与えたヨウジ・ヤマモトがいた。「クレア」は当時流行していた“ジョリーマダム”(カジュアルなクチュールスタイル)の美しさに変わるファッションを見つけられる場所だった。「私が昔から嫌いなのはセクシーに見せたがる女性よ」とメイレンスは言う。「私がセクシーだと感じる女性もいるし、そうじゃない女性もいる。胸や脚を見せればセクシーってわけじゃないのよ」

 マルジェラは、メイレンスのブティックがデザイナーブランドではなく色で分類して服を展示していることに感動したという。マルジェラは当時の「クレア」の様子をこう語っている。「すごく小さなブティックだったけど、フィッティングルームはちょうどよい広さだった。彼女がお客にアドバイスする様子は、単なるブティックの経営者というよりスタイリストかパーソナルショッパー(買い物相談係)のようだった。当時メイレンスはアーティストのゴーリク・リンデマンスとともにファッションデザイナーの展示会を主催していた。ジェニーは才能ある人材をスカウトする役割を果たしていて、彼女のまわりにはアーティストや非常にクリエイティブな人々が集まってきた。僕の作品に興味をもってくれたのもジェニーだ。それから僕たちは頻繁に会うようになった」

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.