BY ALICE GREGORY, PHOTOGRAPHS BY PIETER HUGO, STYLED BY MELANIE WARD, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO
パリのセーヌ河右岸から150メートルほどの場所にルイ・ヴィトンの本社がある。コーニス(壁の帯状の装飾)を設けた18世紀の建築物で、上階からはノートルダム大聖堂が鮮明に見える。ここで今年2月に、「ルイ・ヴィトン」ウィメンズ アーティスティック・ディレクター、ニコラ・ジェスキエールに会った。彼にどうしても見てほしいと言われて窓の外を見ると、大聖堂の尖塔と鐘楼がどんよりした冬空のなかで光り輝いていた。軽く頭を振って肩をすくめたジェスキエールは、口にはしないものの、自分の幸運に感じ入っているようだった。突出した美しさを誇る“文化遺産”を眼前にしながら、まさかそれを見ないなんて無粋だと言いたげにも見えた。
ノートルダム大聖堂の大火災は、それから2カ月後、4月15日に起きた。ジェスキエールのチームは普段は夜遅くまで仕事をしているが、18時半頃に火事が起きたとき、すでに全員帰宅していた。「アトリエには誰も残っていなかったんだ」と彼は当時を振り返る。「奇妙なものさ。あの日は僕が『さあ早めに切り上げよう、今日やるべき仕事は終わったから』と言って。そんなことめったにないんだけど」。彼が普段暮らすマレ地区のアパルトマンが改修中のため、仮住まいにしていたホテル「ブリストル」に着くと、すでにノートルダムは炎に包まれていた。最上階のスイートルームからはもくもくと立ち上る煙が見えた。LVMH会長兼CEOで、ジェスキエールにとってボスであるベルナール・アルノーが、ノートルダム再建に向けて2億ユーロの寄付を決断したのは、それから数時間後のことだった。
その後、数週間にわたって、政治家、活動家、美術史家、都市設計家、慈善家たちが、856年の歴史を誇るノートルダムを具体的にどう再建すべきか論議を交わした。まさに国家的関心事になり、火災前の姿に戻すべきだという人もいれば、もともと数世紀がかりで各時代の要素を寄せ集めた建造物なので、いっそ現代風に再建すべきだと考える人もいた。なかには焼け落ちた木材は動かさずにそのまま置いておこうと訴える小さな活動団体もあった。建築における「メメント・モリ(註:いつか滅びることを忘れるなというラテン語の警句)」というわけだろう。5月下旬にジェスキエールに再会したとき、彼はこんなふうに言っていた。「時代を映し出した、興味深い論争だったよ。忠実に復元すべきだと主張する人と、進化させるべきだという人がいて」。「僕自身はとにかく超近代的なノートルダムを夢見ている」とつぶやくと、彼は少しバツが悪そうに微笑んだ。「パリにもっとモダンな建造物があればって思っているから。時代の先端を突っ走るような建築家にデザインしてもらいたいね」
たわいのない、その場限りの話に聞こえるかもしれないが実はそうでない。この会話にはフューチャリスティックなデザインで有名な、ジェスキエールらしい視点が感じられる。「コレクションは時代錯誤的な服から創り始めることが多い」という彼が、ルイ・ヴィトンに着任したのは2013年。165年の歴史を誇る一流ラゲージブランドに来る前は、「バレンシアガ」に在籍していた。ルイ・ヴィトンと同様に高名なこのフランスのメゾンで、彼は1997~2012年までの15年間、アーティスティック・ディレクターを務めていた。ジェスキエールはフランスらしい豪奢さとクラフツマンシップを尊重しつつ、同時にそれらをアップデートするという課題をいつもさらりとやってのける。「いま当たり前とかクラシックと思われているものも、過去には目新しい存在だったから」。彼がよく言うフレーズだ。
ジェスキエールは気の利いた比喩を使う。ところどころにたとえ話を取り入れた説明は論旨明快で、知的で説得力がある。一般的にデザイナーにはこの向きがあるが、彼のたとえ話は聞く人を納得させる。ほかのデザイナーとは違って、業界用語(“カラーストーリー”“テイストレベル”など)を使ったり、ムードボード(註:デザインの方向性を示す写真などのコラージュ)を言葉に置き換えてイメージだけを語ったりはしない。ジェスキエールが伝えたいのは、彼の考え方なのだ。
現在48歳の彼はデザイナーとしてのキャリアを、マーベル(註:映画製作スタジオも所有する米国のコミック出版社)の話になぞらえる。マーベルは、大型作品の製作経験に乏しい、独立した若い映画監督を起用して、映画史上初の超大作シリーズを創出していることで有名だ。また、こうした若手映画監督の活躍がハリウッドで主流になりつつもある。「もし僕が監督か俳優だったら、“最初はインディーズ系の小規模な作品を手がけていた。それが注目を浴びて、サンダンス映画祭に招かれ、配給会社を見つけて、ついに大ヒット作を生んだ”って感じになるかな」。彼は自身のたどってきた軌跡をこんなふうに表現するのが得意だ。
世界屈指のラグジュアリーブランド、ルイ・ヴィトンといえば、そのロゴマークが思い浮かぶ。3種のフラワーとLVを組み合わせたモチーフが、ダークチョコレート色のキャンバスに無数にちりばめられている。ナイキのスウッシュ(註:翼形のロゴマーク)や、アップル社のかじったリンゴと同様、この世でこれを知らない人などいないだろう(最も多くコピーされるロゴでもある)。こうしたロゴは実際の裕福さを示すだけでなく、富裕の“イメージ”をひけらかすシンボルにもなっている。首や前腕にロゴやパターン柄のタトゥを入れて、自身を“ブランド化”してしまう人も少なくない。「ルイ・ヴィトンはものすごく認知度が高いぶん、これ見よがしな雰囲気も与える。だからファンやマニアがいる半面、疎ましく思う人もいるよね。コピー品が出回っているからなんとなくチープだと感じる人もいるはず」。ジェスキエールはルイ・ヴィトンのような世界的ブランドを“ビッグゲーム”と呼ぶ。
ビッグゲームのデザイナーとして彼が抜擢されたのは、バレンシアガでの功績が認められたからだ。女性の装いを根底から変え、現代モード史に大きな足跡を残したこのメゾンに、ジェスキエールが新風を送り込んだのである。バレンシアガは、1917年にスペイン人のクチュリエ、クリストバル・バレンシアガによって設立された。50年代には黄金時代を迎え、オードリー・ヘプバーン、グロリア・ギネス、エヴァ・ガードナーなどを顧客にしていたが、その後低迷。メゾンがどうにか存続できたのは、香水のライセンス事業を継続していたからだった。
24歳のフリーランスデザイナーだったジェスキエールがバレンシアガに加わったのは1995年。当時のバレンシアガは華やかな歴史以外は何もない白紙状態だった。ジェスキエールはこのメゾンを率いた15年の間に、新生バレンシアガの名作をいくつも生んだ。
パンチングとピンクの牡丹のモチーフの、ラガーマンのような肩ラインが鮮やかなミニドレス。サファイア色のブークレーツィードのコートは、とがらせた肩がモダンなコクーンシルエット。バイカージャケットにスリムなカーゴパンツ、スクールボーイ風ブレザー。肩パッド入りのメタリックトップと、ウエストや両脇のドレープがきいたミニスカート(大富豪の愛憎ドラマ『ダイナスティ』や往年の大女優ジョーン・クロフォードを彷彿させる)。ベルスリーブとラッフルカラーが宮廷服のような、クリーム色のオーガンザとレースのイブニングジャケット。18世紀の屛風のようなシノワズリ柄を手描きした、ラテックスのドレスは目を見張る優雅さにあふれ、今でも一見で彼の服だとわかる。ジェスキエールが少年時代にたしなんだフェンシングや乗馬のユニフォームを想起させるエレメント。ビビッドな原色とアースカラーの“違和感が魅力的な”配色、モンドリアン風カラーブロック。
だが何よりジェスキエールらしいエッセンスといえば、異なる要素の大胆なミキシングだ。18世紀のスタイルも、40年代や80年代のデザインも、クラシックなクチュール風フォルムも、フューチャリスティックなハイテク素材も、彼は混ぜこぜにする(ひとつの服にこれらすべての要素が混在することもある)。これぞ誰もが知る“ジェスキエール流”で、ルイ・ヴィトンにいる今もその根本は変わっていない。彼はこうして女性たちのたたずまいそのものを変えた。ジェスキエールが生み出すのはランウェイの服ではなく、日常のための服だ。「ショーで披露するために服を作っているけど、決してショー専用じゃない」と彼は説明する。ショーで映えるデザインに惹かれることはあっても、小細工でごまかした服や、ルールどおりの服は作らないようにしていると言う。服自体に意味を与えたい彼にとって、ショーとは単にモデルが着た服を見せる場であり、補助的な意味しかもたない。
こんなふうに彼はバレンシアガのファッションを再生し、ビジネス面でも立て直しをはかった。確かに、衰退したブランドを蘇らせたデザイナーは彼以前にも存在した(1983年にカール・ラガーフェルドは低迷期にあったシャネルのアーティスティック・ディレクターに、1990年にトム・フォードは業績不振だったグッチのデザイナーに就任している)。だが瀕死のメゾンをトップステージに押し戻しただけでなく、ブランドの土台にある精神を守り抜いた姿勢は模範と呼ぶにふさわしい。新生バレンシアガに、ブランドネーム、つまりブランド創設者の思想と、牽引役である彼のビジョンの両方を反映させた腕さばきも見事である。
低迷したメゾンの再生に、必ずしも有名なアーティスティック・ディレクターが必要でないことを、ジェスキエールは証明してみせた。この成功を受けて、セリーヌではフィービー・ファイロが、グッチではアレッサンドロ・ミケーレが、ロエベではジョナサン・アンダーソンが同じ役目を任された。ジェスキエールの新生バレンシアガが今も威光を放っているのは(多くの意味で2000年代のファッションは彼が築いたといえるだろう)、彼のもとで育ったデザイナーが他メゾンのクリエイティブ・ディレクターとして活躍しているからだ。彼らのスタイルに、ボスだったジェスキエールの影響が映し出されているのだ。
ジェスキエールがバレンシアガのヘッドデザイナーになった年、チームには4人しかいなかったが、そこを去るとき、デザインスタジオは60人に、スタッフは総勢400人に膨れ上がっていた。そのなかのひとりが今年39歳になるナターシャ・ラムゼイ=レヴィだ。彼女はジェスキエールの右腕として10年以上の経験を積み、現在はクロエのクリエイティブ・ディレクターを務めている。空中ブランコの団員が着そうな流麗なラインのドレス、乗馬に着想を得たジュエリーやフットウェア、アーシーカラーなどに、ジェスキエールの美学が染み込んでいる。
ほかには37歳のジュリアン・ドッセーナがいる。彼はジェスキエールがルイ・ヴィトンへ移籍したあとバレンシアガを去り、パコ・ラバンヌのクリエイティブ・ディレクターに就任した。「ライフチェンジャー」と称えるジェスキエールに感化されて、自らのデザインの方向性が変わったという。絶妙な落ち感のあるドレープ、フラワー柄のカクテルドレス、ロックスター風のスキニーパンツと退廃的なムード、80年代風のラインストーンイヤリングなど、ドッセーナのコレクションには今もジェスキエールの残香が感じられる。
ドッセーナの言葉を借りれば、ルイ・ヴィトンでのジェスキエールは「彼独自のテイストをメインストリーム化している」とのこと。「ジェスキエールにとっては、いかにも彼らしいデザインをすることが重要なんだ。ひと目見て彼の服だとわかること、それを手に入れたいと思わせることが大事なのさ」とドッセーナ。バレンシアガで生み出した斬新なシグネチャーを、ジェスキエールはルイ・ヴィトンにも持ち込んだ。2019-’20年秋冬コレクションの、ウエストに黒のレースをあしらったフローラルブラウス、ブラックレザーのトリミングがきいたダブルフェイスウールのコクーンコートがその例だ。“普段着られる服”であることはバレンシアガ時代と変わっていないが、素材が変化した。ルイ・ヴィトンの服には厚手のカシミヤ、イタリア製手刺しゅうのシルクブロケード(豪華な多色糸の絹織物)、華やかなレースなどが用いられている。上質で高価な世界一流のマテリアルこそが、ルイ・ヴィトンにおける彼のビジョンを裏打ちしているのだ。
「もちろん今でも創作への興味は尽きないし、情熱をもって仕事に取り組んでいるよ」。ジェスキエールが切り出す。「ただ率直に言うと、バレンシアガのアーティスティック・ディレクターになったとき、僕はまだ25歳だったから、もっとクールに楽しんでいたんだ。でも今は、世界最大の規模と売上高を誇るこのブランドの何をどう語るかってことに関心がある。ルイ・ヴィトンがこれほど成功しているのは、仕事の工業化、生産拠点といった生産方式に拠る部分が大きいと思う。効率的な生産システムを追求していかないと、生き残っていけないんだ」
2018-’19年秋冬コレクションの数日前に、ルイ・ヴィトンの本社にほど近いレストラン「ル・ヴォルテール」で、ジェスキエールに会った。格調高いこの店のシートはベルベットで覆われ、壁にはミラーがはめ込まれている。しばらくするとラディッシュとバターがサーブされた。この店で私たちは優に一時間以上話をしたが、途中で彼が会話をさえぎったことがあった。メニューの説明をし始めたのだ。さすがフランス人らしく、彼は食べ物に詳しい。あらゆる料理について、真剣に、楽しげに、ときに深刻にアドバイスをくれた。「僕は普段、前菜にビーツとアボカドのサラダを選ぶんだ。でもグレープフルーツとアボカドっていう組み合わせもある。カニのサラダもおいしいよ。これはメインにしてもいいかもね。マッシュルームサラダはこの店おすすめの前菜。ホタテ貝のカルパッチョもあるけど、トリュフがのっているんだ。ここのステーキは最高なんだけど、僕は今日ステーキの気分じゃないな」
ジェスキエールは、パリから車で3時間ほど南西に下った場所にあるルーダンという地で育った。古城が立ち並ぶロワール渓谷地方にあるルーダンを、彼は「大きな村」と呼び、彼の両親は「小都市」と呼んでいたらしい。田舎の大自然に囲まれ、のびのびと自由で、今思えばものすごく恵まれた少年時代を過ごしたと言う。父親はゴルフ場の経営者、母親は専業主婦で、兄がひとりいる。小さい頃からドレスの絵を描いたり、シャンデリアのクリスタルを使ったアクセサリーを作ったりして遊んでいたそうだ。
そんな彼は14歳のとき、当時人気の絶頂にあったアニエスベーのもとでインターンシップを経験する(その2年前の1983年、アニエスベーはNYソーホーのプリンス通りにアメリカ初の店舗を構えた)。1988年、17歳になった彼はファッションスクールには通わず、パリに引っ越すことを決意する。6区のアパルトマンを間借りしたが、パリにファッション業界の知り合いなどひとりもいなかった。「あの頃のことを思うと不思議だよ。無為に時を過ごしながら、ぼーっと考えていたんだ。『僕は負け犬だ。友達はいないし、土曜の夜にひとりぼっちでパリの街を自転車で走り回ったりして』って」
1990年から1992年にかけてはジャン=ポール・ゴルチエのアシスタントを務めた。続いてパリのニットブランド「ポール」、イタリアンブランド「カラガン」でデザイナーとしてのキャリアを積んでいく。その後バレンシアガに入り、最初は日本向けのライセンス事業で、プレタポルテのほかユニフォームや喪服のデザインを任された。だが入社2年後の1997年、当時クリエイティブ・ディレクターだったベルギー人デザイナー、ジョセフ・ティミスターが退任し、ジェスキエールはヘッドに任命される。LVMHのベルナール・アルノーから話がしたいという連絡を受けたのは2013年秋のことだ(バレンシアガを傘下に置くケリングと、LVMHは最大のライバルである)。アルノーとジェスキエールはなごやかな空気の中、ハンドバッグというテーマについて余すことなく語り合った。
ルイ・ヴィトンは1854年、フランスの木箱製造職人(註:荷造り職人も兼ねていた)が設立したブランドだ。創業者のルイ・ヴィトンは、観光旅行が流行し始めるとビジネスを拡大して、トランクの製造も始めた。ヨーロッパの王族からも注目を浴び、フランスのある皇后は「もっとも優美な服を美しく収納するために」ルイ・ヴィトンに荷造りを依頼していたという。
それから150年以上の時を経たが、“パッキングーー荷造り”は今もあらゆる意味でルイ・ヴィトンの核となるコンセプトである。一方のジェスキエールはバレンシアガで、スタッズやタッセルで飾ったヴィンテージ風の「ラリアット」バッグを生んだ(長年愛されているこのバッグはその後「シティ」や「モーターサイクル」という名前に変わった)。2000年代のアイコンであるこのバッグをデザインした彼は、ルイ・ヴィトンのルーツにある“ラグジュアリーな実用性”に共鳴した。また、まずはひらめきから、次第に情熱を伴って、職人からビジネスマンになったという創業者ルイ・ヴィトンの才覚あふれる物語にも心を揺さぶられた。
アルノーと会ったあと、ジェスキエールは帰宅してすぐ何冊もの雑誌を取りだした。ルイ・ヴィトンの製品が載っているページを切り取り、コラージュを作って「普通の女性たちは実際にどんなものを使うんだろう」と考えた。「夜はスタイリッシュなクラッチを持って出かけるはず。じゃあコンパクトだけど、チープに見えないバッグってどんなものか」。数日後、ルイ・ヴィトンのトランクを“1,000ページの厚みのペーパーバックサイズ”に縮小したバッグを、紙で試作してアルノーに見せに行った。魅力を凝縮したようなトランクをひと目見たアルノーは「店頭にたくさん並べたらすごく映えそうだね」と前向きな言葉を返してくれた。「僕にはビジネスマンとしての知識はないし、なりたいと思ったこともないね」と彼は言いきる。
「バッグの試作品を見たアルノーはすぐに販売促進の観点で話をしてくれた。僕らの共同作業はそこから始まったんだ。僕のクリエイティブなアイデアを、彼が認めてくれたうえで」。そのときジェスキエールは気づいたそうだ。「目の前にいるのは、単に偉大なビジネスマンなだけでなく、デザイナーのアイデアを考慮したうえで、どう発展すべきかを想像できる人なんだって。正直なところ、これはバレンシアガ時代の自分に足りなかったエレメントだね。あの頃の僕は、アルノーが描くようなビジョンが欲しかったし、彼のように展望を見据えることのできる人と一緒に働けたら、と思っていたから」
それから1カ月後、2013年11月にジェスキエールはマーク・ジェイコブスの後任としてルイ・ヴィトンのウィメンズ アーティスティック・ディレクターに着任した。紙の模型は、改良を重ねて製品化され、5,200ドルで販売されている。ジェスキエールが「プティット・マル」と名づけたこのバッグは、彼がルイ・ヴィトンでこの6年間に生んだ、多くの定番モデルのひとつだ。バッグのみならずウェアにおいても、彼はメゾンのレガシーを重んじつつ、自らのシグネチャーを進化させている。その新しいビジュアルランゲージを象徴するのが、カラーブロックが小気味いい厚手のクルーネックのニットやIラインのドレス、モノグラムのスポーティなトレンチ、ジーンズ、トラックスーツ。彼の基本アイテムであるナローパンツや、ブークレーツィードのミニスカートスーツ。40年代風で、過激な80年代風でもあるスワールスカート(渦巻き状のスカート)、大胆な柄と柄のかけ合わせが特徴のカクテルドレスは、まさに彼のシグネチャーの進化版と呼べるだろう。
「デザイナーというのは、さまざまな時空を旅できる」。昨年の春、ルイ・ヴィトンとの契約を更新した彼が切り出した。「それでもやっぱり僕らは、“今”という時間に身を置くべきなんだ。ちょっと謎めいた話に聞こえるだろうけど」。デザイナーという仕事の奇妙な奥義は、予算や経費という「実際の問題」と向き合いながら、「空想力と軽やかさと気概で、制約をはねのけ、まっさらな創造性を取り戻す」気力をもつこと。その力は臨機応変に出し入れするか、常に備えておくべきなのだと彼は言う。
MODELS: SARA GRACE WALLERSTEDT(THE SOCIETY). HAIR BY JIMMY PAUL FOR SUSAN PRICE NYC. MAKEUP BY DIANE KENDAL(JULIAN WATSON AGENCY). SET DESIGN BY ANDREA STANLEY(STREETERS). CASTING BY NICOLA KAST(WEBBER REPRESENTS)