BY MIKA KITAMURA, PHOTOGRAPHS BY MASANORI AKAO
石川が、東京へ出てきたのは20歳のときだ。フリーターを2年続けたが、「このままではダメだ」と原宿の日本料理店に飛び込んだ。「人と話すのが苦手だったので営業職は無理だと思って。でも仕事はキツいし、25歳までに辞めようと思っていました。だけど親方のことが大好きでね」。親方は仕事には厳しかったが、休日に子どもたちと一緒のところに呼んでくれたり、ごはんを食べさせてくれたりした。そんな親方を慕い、親方が店を移るたびに石川もついていった。
あるとき、石川は新店に先に出向き、親方が厨房に入った日からすぐに仕事ができるようにと、準備を任された。「調理場を効率よく動かす作戦を立て、初日からお客さまを迎えられるように段取りしました。そのとき生まれて初めて物事にハマったんです。勉強もスポーツも不得手で夢中になれるものがなかったけれど、店を回すのはすごく面白いって」。経済的な余裕が生まれると、勉強のため食べ歩きを重ね、料理にいっそう精進するようになった。
初めて料理長を任された埼玉の店では、自らチラシを作って駅前で配った。八重洲の割烹「岡ざき」ではオーナーに掛け合って食材の質を上げ、月商を3倍にした。この「岡ざき」に専門学校を出たての新人として入ってきたのが、今も石川が心から信頼する小泉だ。その後、ふたりは力を尽くし「神楽坂 石かわ」を立ち上げるが、店を回す“仕組み”を理解していたことが、石かわグループの成功につながっている。「よいスパイラルを生む“仕組み”を考えるのが好きなんです」と石川は言う。お客さまに喜んでいただけ、みなが生き生きと取り組める仕組みづくり。研究のための食べ歩きが全額補助されたり(リポート提出は必須)、華道を習えたり、弟子は学びの機会に恵まれている。全個室の寮完備、3年目以降は家賃補助ありと、石かわグループの福利厚生の手厚さは業界屈指である。
若手を育てることに心を砕く石川は、社員の面接を自ら行う。技術よりも人柄の“素直さ”見るという。「面接で今いる店への不満を述べる子には、『環境が人を変えるのではない。自分を変えられるのは自分だけ』と言い含めて戻します。そもそも、今いる店を辞めると、その店に迷惑がかかる。我を通せば、人としての道を狭めるよって」
若い頃の石川は、自尊感情の低さに悩み続けた。救いを求め、さまざまな本を読みあさったという。「結局、人生は今を全力で生きるだけ。過去や未来のことにくよくよしても仕方ない」。悩んだぶん、弟子たちの悩みに寄り添える。弟子が仕事をサボったとき、「好きでサボるやつはいない。あいつなりの事情があるはず」と見守ることも。「失敗は仮説がちょっとずれただけ。また仮説を立て、行動すればいい。失敗が許されない世の中にはしたくないよね」
育てた若手にいったん任せたら、石川はその店へは行かない。「現場に常にいない者は口を挟まない。何か言えば負の遺産になるだけ」。オープンして13年、先日、初めて「虎白」へ客として訪れたとか。
「楽しかったな。でも今後は遠慮します」と、石川は笑う。そんな石川の姿を見て、角谷は言う。料理長になったとき、店で起こるすべてに責任を持つ覚悟を決めました。後輩にもいろいろ挑戦しても
らいたい。失敗したら僕がフォローすればいい。おやっさんにしてもらったことを、後輩にもしてあげたいんです」
昨年4月。石かわグループはいち早くテイクアウトを始めた。「弁当を始める。明日までに試作を提出!」という指示が、石川から各店の料理長へ飛んだ。3日後には販売開始。顧客データのデジタル化や、テイクアウトや取り寄せのためのサイト創設も、スタッフ総出で一気呵成に進めた。「僕は弁当箱など備品を集める担当。最短で最高の結果を出せたかな。何事も仕組みづくりが肝です」。石川は言う。「仕事も人生も、今を積み重ねるだけ。うちには売上目標はないんです。数字ではなく、今いらしてくださっているお客さまに喜んでいただくこと。それが一番大切ですから」
今日も朝から、神楽坂の厨房には、石川の「早くしろ!」「今を燃焼しろ!」の声が響き渡る。