時間と温度を操ることで、ワインさえ超える酒。わずか5席、スモール&ラグジュアリーな熟成酒専門店が描く、日本酒回天の戦略

BY MARI HASHIMOTO, PHOTOGRAPHS BY YUKO CHIBA

 1997年醸造、というそのボトルから盃に注がれた液体は、26年の歳月を感じさせない、ごく淡い、緑がかった黄色を呈している。〈やや白い花の香り、優しく漂う野に咲く百合の香りにマッシュルームのような香りが混ざる。(中略)甘み、旨味、酸味、渋みがバランスよく、飲み込んだあとの余韻も長く、2 口目、3 口目を誘う〉

 一部抜粋してみたテイスティングコメントは、質の高い白ワインを思わせるが、その正体は秋田の名蔵・天寿酒造が醸造した「天寿 純米吟醸平成9年」。日本酒の熟成酒を専門として、今年6月にオープンした〈熟と燗〉バーマスター、上野伸弘さんが執筆したコメントだ。ただしこの日カウンターに立っていたのは、熟と燗代表取締役会長の御立尚資さんである。

画像: 御立さん自らカウンターに立つ日も。盃、グラスなど、酒の個性に合わせて複数の酒器を使い分け、燗用の鉄瓶などはすべてアンティークの茶道具

御立さん自らカウンターに立つ日も。盃、グラスなど、酒の個性に合わせて複数の酒器を使い分け、燗用の鉄瓶などはすべてアンティークの茶道具

 御立さんといえば、現在は京都大学経営管理大学院で教鞭を執っているが、そもそもは日本航空を経てボストンコンサルティンググループ(BCG)に加わり、同社の日本代表(2005~2015年)、BCGグローバル経営会議メンバー(2006~2013年)まで務めた、経営戦略のプロフェッショナルとして知られる。当然店の性格や活動内容も、リタイア後の趣味という範疇にはとうてい収まらない、アグレッシブな個性を備えている。

「日本酒の国内市場は長期的な低落傾向にあり、コロナ禍を経ていっそうシュリンクしています。その状況を変えるためにどうすればいいのか。10年ほど前から公的な仕事としても、付加価値のある日本酒を造るには、という議論に参加してきましたが、そこで常に可能性として挙げられていたのが、蔵元で適切な温度を保ちながら長期貯蔵した熟成酒でした。一方で熟成酒専門のバーを経営していた上野と知り合い、リスクをとって販売する人間と、熟成酒の文化を体験できる場とが揃わないと、熟成酒が定着、普及しないだろうと繰り返し話し合っていました。そうするうちに、他人にやれと言うのではなく、自分がやるしかない……というか、やったほうが面白いだろうと法人を立ち上げ、上野も自分の店を畳んで合流してくれたのです」

画像: 熟成酒特有の透明感ある色味を引き立てる白磁の盃は内田智裕、神代タモの盃台は川合優の作

熟成酒特有の透明感ある色味を引き立てる白磁の盃は内田智裕、神代タモの盃台は川合優の作

画像: (左)天寿酒造「天寿 純米吟醸平成9 年」。過去のヴィンテージの中から上野さんが選んだ特別な一本 (右)増田德兵衞商店「月の桂 1992/2012 with熟と燗」。甕で長期熟成させた2種の酒をアッサンブラージュした。いずれも〈熟と燗〉オリジナル

(左)天寿酒造「天寿 純米吟醸平成9 年」。過去のヴィンテージの中から上野さんが選んだ特別な一本
(右)増田德兵衞商店「月の桂 1992/2012 with熟と燗」。甕で長期熟成させた2種の酒をアッサンブラージュした。いずれも〈熟と燗〉オリジナル

 江戸時代には保存・熟成させた酒が珍しくなかったのは文献などからも明らかだが、明治以降、製造した酒の量に応じて課税(造石税)されるようになったことから廃れてしまった。そのため古酒・熟成酒について、現在のところ公的なレギュレーションは定められておらず、1990年4 月から適用されている国税庁の「清酒の製法品質表示基準」では、1 年以上貯蔵した清酒について、1 年未満の端数を切り捨てた貯蔵年数をラベルに表示することが認められている程度だ。〈熟と燗〉では、売れ残りを保存しただけの質の悪い古酒ではなく、明確な方針のもとに熟成酒を「設計」する百数十の蔵を全国からピックアップ。ほぼすべてを試飲したうえで、信頼に足る酒蔵・製品に絞って、実店舗、バー、ECサイトでの紹介を始めている。

画像: 現在の取り扱い品種は決して多くはない。質を最優先に、責任が持てる蔵の製品だけを取り扱う

現在の取り扱い品種は決して多くはない。質を最優先に、責任が持てる蔵の製品だけを取り扱う

画像: 壁面には「日本画」以前を追求する品川亮の絵画作品を

壁面には「日本画」以前を追求する品川亮の絵画作品を

「熟成酒の特徴として挙げられるのは、アミノ酸やコハク酸などに由来する複雑なうまみ、豊かな香り、まろやかさなどです。これを食中酒として料理に合わせたとき、ワイン同様のマリアージュが楽しめるだけでなく、ワインではカバーしきれないスパイシーな料理にまで寄り添える。さらに熟成酒の場合は冷酒からお燗まで、温度帯を変えることで、より複雑な調整が可能になります。これもワインにはないアドバンテージ。おかげでもともと熟成酒のファンだった方たちはもちろん、これまでワインを楽しんでこられた方たちが、国内だけでなく海外からも強い関心を寄せ、購入してくださっています」

 熟成酒のおいしさが普及し始めたら、次はワインにおけるプリムール(樽で熟成中のワインを一部先行販売するボルドー独自のシステム)同様、顧客に品質が保証された熟成中の酒を販売、蔵には確実にキャッシュが入り、顧客は高品質な熟成酒を割安で買って資産化する、という仕組みを検討する必要が出てくる。

画像: 地下にはサロン、ウォークインのセラーも。

地下にはサロン、ウォークインのセラーも。

 また国税庁など公的な機関が定める品質保証制度のほかに、マーケット側、すなわち売り手・飲み手側からの評価の仕組みも成熟させていかなければならない。現在〈熟と燗〉のECサイトで公開しているテイスティングコメントは、醸造の技術や化学に通じたうえで、それを自身の官能につなげて評価できる少人数のテイスターチームーいずれも実名を明らかにしており、なかには元国税局主任鑑定官も加わっているーが執筆している。いずれは星の数を競ったり、飲み手がそれぞれの主観に従って採点したり、という定量的な評価も含め、多様な評価の軸ができてくるだろうが、まずは飲み手に安心して買ってもらえるよう、責任ある評価を確立したい。その基準も、これまでの日本酒の価値観をはみ出すような味、香りを包摂する多様性を認めていきたい。そうやって環境を整えていった先に、熟成酒づくりに挑戦する蔵の増加が見えてくる。

 蔵から飲食・販売店、消費者まで、日本酒に関わるすべてのプレイヤーを巻き込む大きな「戦略」が、わずか5 席のバーから動き出している。

画像: 御立尚資(みたち・たかし) 熟と燗代表取締役会長、京都大学経営管理大学院特別教授。1957年生まれ。京都大学文学部卒業。ハーバード大学にて経営学修士を取得。日本航空、BCGを経て楽天グループほかの社外取締役、大原美術館理事などを務める。

御立尚資(みたち・たかし)
熟と燗代表取締役会長、京都大学経営管理大学院特別教授。1957年生まれ。京都大学文学部卒業。ハーバード大学にて経営学修士を取得。日本航空、BCGを経て楽天グループほかの社外取締役、大原美術館理事などを務める。

熟と燗
住所:東京都千代田区三番町7-16 1F/B1F
TEL.080-8015-5274
営業時間:14時〜20時 
定休日:火・水曜
https://sakematured.com/

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