TEXT & PHOTOGRAPHS BY YUMIKO TAKAYAMA

混播(こんぱ)小麦「ブレ・ドゥ・ポピュラシオン」の畑での中川泰一さん。雑草は陽の光を遮断する小麦よりも背が高いものしか取り除かない。ここに蒔かれているのは、スペルト小麦やライ麦、イタリア在来種、チベット古代種、「キタノカオリ」「ゆめちから」「ホクシン」「きたほなみ」「スペルト小麦」「ツルキチ」など。交配種も多く生まれている
全国各地のパンの作り手たちが信頼を寄せる「中川さんの小麦」とは
ずっとお会いしたかった小麦農家さんが十勝にいる。2022年、東京のベーカリー「チェスト船堀」(現在は「チェスト」に改名して清澄白川に移転)を取材で訪れたとき、小麦の生産者別(単一小麦が中心)にバゲットやカンパーニュを数種類焼いていたスタイルに驚いた。そこに自然栽培で小麦を育てている「中川農場」の名前があった。その1カ月後、能登の七尾を訪れた。薪窯でパンを焼くベーカリー「月とピエロ」で、やはり「中川農場」の小麦を使っているというハード系のパンを食べて、「チェスト船堀」のカンパーニュを食べたときと同じような、広大な大地が目の前に浮かび上がるような野趣あふれる力強さを感じたのだった。
全国からパン職人が訪れるという音更町にある「中川農場」の中川泰一さんの畑を訪ねたのは、2025年7月、収穫直前のある日のことだった。中川さんの軽トラの助手席にのって、畑を案内してもらった。スペルト小麦やエンマー小麦といった古代小麦の畑は小麦の原種だけあって、穂に粗削りなかっこよさがある。反対に北海道ならではの品種、きたほなみの小麦畑は前者に比べると背が低く、穂の雰囲気も一貫していて優等生然な面持ち。ライ麦はワイルドな雰囲気で背が圧倒的に高く、色は青みがかった緑色だ。畑をひとつひとつまわると、麦の種類によって個性がまったく違うことが歴然としているのがおもしろい。

「ブレ・ドゥ・ポピュラシオン」の畑。ひときわ背が高く、青緑色なのがライ麦。ちなみにハード系のパン業界では、最近、植物繊維が多いライ麦のパンの人気が上昇中だ
中川さんは、一度は東京で就職するも、「未来の食を考え、人のためになる仕事をしたい」と家業である農家を継ぐことを決めたそうだ。独学で有機農法を学び、試行錯誤を重ねて化学肥料や農薬を使用せず、自然の力を最大限に生かして作物を育てる自然農法にたどりついた。しかも、お金や手間をかけずに無防除、無肥料、低労働(中川さんおひとりで)を実現させているというからすごい。55ヘクタールある畑の割合は、小麦20ヘクタールと大豆10ヘクタール、緑肥(土壌改良のために収穫せずに肥料になる植物を植えた畑。ちなみに現在は植物の種をまかずに生えてきた雑草を緑肥にしている)25ヘクタール。
「はじめて畑に足を踏み入れたとき、その土の柔らかさに衝撃を受けた」と話すのは、中川さんの畑にほど近くにあるベーカリー「toi」の店主、中西宙生(ひろお)さんだ。「実家が農家でしたが、その畑の土ともまったく違うし、知り合いの有機農家の土とも似ていない。中川さん自身が独自につくっていった土だと思います」

北海道・十勝地方で、自家製粉、天然酵母で生地を作り、薪窯で焼き上げる「toi」のパン。右は中川さんの「自然栽培小麦2024」を95%ほど使用したコンプレ¥1,000、中央がスペルト小麦を100%使用した「フォルコンブロート」¥980、左がコンプレの生地にひまわりの種を加えた「ひまわりのパン」¥1,100
toi 公式インサイトはこちら
オーガニック農法で、ひとに優しい古代小麦を
十勝のオーガニック農業の先駆け的な存在というだけでない。中川さんが型破りなのは小麦の品種の開発や栽培の新たな可能性を追求している点。スペルト小麦は小麦アレルギーの人たちでもアレルギー反応が起こりにくいと聞いて、育て始めた。ユニークなのが混播(こんぱ)小麦「ブレ・ドゥ・ポピュラシオン」。混播とは1つの畑に2種類以上の植物を蒔くことをいうのだが、多品種の小麦栽培を混播で行っているのは日本では中川さんだけだろう。12年前、0.8ヘクタールの土地に、倉庫で保管していた小麦の「余り種」を3品種(「キタノカオリ」「ゆめちから」「きたほなみ」)混ぜて撒いたことがはじまりだ。

古代小麦のスペルト小麦とエンマー小麦の畑。古代小麦は小麦アレルギー反応が軽減される可能性が注目されている
畑を見せてもらって驚いた。単一の小麦の畑とは対照的に大小の小麦が混在しており、風にそよそよと揺れる姿はなんとも自由奔放で楽し気な雰囲気に満ちている。音楽に例えるならオーケストラじゃなくて、ジャムセッションみたいな感じ?
毎年、新しい品種を追加で加え、混藩することの利点を目の当たりにしたのが畑を始めて3年目。その年に大発生した穂発芽(ほはつが。収穫期前の降雨により、穂上の種子が発芽してしまうこと。品質が著しく下がる)が「ブレ・ドゥ・ポピュラシオン」の畑では被害が軽減されていた。「多様性がそういった結果を生んだんでしょうね」と中川さん。

「ブ・レ・ドゥ・ポピュラシオン」の畑の小麦。色や大きさの違う小麦が混ざっているのがわかる
噂が噂を呼び「ブレ・ドゥ・ポピュラシオン」の小麦を使ってみたいというパン職人からの問い合わせが増えていった。畑の麦をそのまま刈り取って脱穀するため、小麦の品種が混ざった状態で出荷される。通常は製粉所で単一小麦を合わせてブレンドされるが、その前段階で畑内でブレンドされているということだ。毎年、パン職人からパンを焼いたときの感想を聞いたり、送ってくれたパンを試食することで、中川さんは「パンに向く、よりよい小麦を」と、異なる小麦の品種を毎年畑に加えていったそう。小麦の専門家ではない私でも、それがかなり画期的な栽培方法だとわかる。「研究し始めたら夢中になって。まさに12年間はパン屋さんと作っていった畑ですね」と中川さん。
「人のためになるかもしれない」そんな小麦を作り続けて

小麦の脱穀場に到着するや否や、「だっこするにゃー」と猫たちが中川さんに甘えて寄ってきた(全部で3匹)。穏やかな表情の中川さん
この畑を見てきた前出の「チェスト」の店主、西野文也さんは、「最初に見たときと現在とでは畑の表情が違うんですよ。さまざまな種類の小麦や背の高いライ麦もあって、どんどん力強く複雑になっていった。中川さんは実は緻密に考えて小麦を育てているんだと思うんです。ストイックにものづくりをしている人だからこそ、できた小麦に中川さんの意思が宿っている」と話す。
しかし、毎年品種が異なる小麦のブレンドになるということは、“安定した製パン”を求めるパン職人からすると、かなり難易度が高い。それでも全国の名だたるベーカリーが求めるのはなぜなのか。「小麦に触れて感じる。そして感じるまま生地を捏ねて焼く。余計なことはしない。そうやって焼きあがったパンから、あのすさまじいエネルギー感のある畑のある風景が思い浮かんでくるのが、中川さんの小麦なんです」と話すのは、連載1回目に登場した、帯広市のベーカリー「加納製パン」の加納雄一さんだ。連載第一回目はこちらから
「雨に強い小麦ができればいいのに」祈りが通じた新種の誕生
中川さんが“かわいくてしょうがない”と話すのが、昨年から出荷し始めた、自ら種をついで生まれた新種の小麦。9年前、当時の主力小麦「キタノカオリ」の畑が収穫前の雨で全滅したときのこと。絶望感に苛まれるなか、「雨に強い小麦ができればいいのに」と祈るような気分でいたところ、緑肥の畑から見たことのない1本の麦のようなものが生えていた。その種をとって撒いたら、また異なる麦が生まれるなど突然変異を繰り返し、そこから複数の新種の小麦が生まれたのだとか! 「1本ポツンと生えているのを見たときは、祈りが通じたのかなってビックリしました。おそらく、欧州産の緑肥の種にほかの種が混入していたんだと思うんですけどね。でも突如生まれた新種ってロマンがあるし、ワクワクする。なにより、この畑のなかにいると癒されるんですよね」と中川さんは穏やかな顔で麦畑を眺める。「毎日土と接していると、精神が鍛えられていく実感があります。自然はわからないことだらけ。だからこそおもしろい」
農林水産省が定める北海道の奨励品種の単一の小麦だけを育てて出荷すれば、それに対して一定の交付金が支払われるため、収入は増える。けれどあえてその道は選ばず、「もしかしたら人のためになるかもしれない」と、自分が情熱を傾けられる方向へ猪突猛進し続ける中川さんは、農家というカテゴリーにおさまらない開拓者であり、革命家だ。中川さんの小麦を使って焼かれたパンのあの力強い味わいは、中川さん自身の熱い思いとそれに敬意を表すパン職人の魂のコラボレーションなのだと思わずにいられない。

新種の小麦の畑。穂を見ながら、「この穂は形がいいよね」と愛おしそうに話す中川さん。次の収穫時にはこの小麦で焼いたパンを食べてみたい
高山裕美子(たかやま・ゆみこ)
エディター、ライター。ファッション誌やカルチャー映画誌、インテリアや食の専門誌の編集者を経て、現在フリーランスに。国内外のローカルな食文化を探求することがライフワーク。2024年8月に、東京から北海道・十勝エリアに引っ越してきたばかり
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