BY KANAE HASEGAWA
静岡県、沼津港からほど近く、海浜を臨み、クロマツ林に囲まれた3000坪の景勝地に沼津倶楽部は建つ。その歴史は約110年前の大正時代、ミツワ石鹸の二代目三輪善兵衛が、この土地の景観にほれ込み、別荘を建てたことに遡る。数奇者として茶道をたしなんだ善兵衛は、千人茶会を夢見て、1913年、居住空間だけでなく、いくつもの茶室が雁行配置された数奇屋造りの茶亭「松岩亭」を建てた。そこでは、茶会をはじめとした文芸を通して時の名士たちのつながりが生まれてきたという。その後、2008年、同じ敷地に茶亭の離れとして、宿泊棟を加えたゲストハウス「千本松・沼津俱楽部」が誕生し、三輪善兵衛の頃と同じようにオピニオンリーダーたちが交友を深める場として愛されてきた。
それから15年、沼津倶楽部が育んできた文化を継承し、その魅力をより多くの人につなぎたいとの現代の知識人たちの想いから、改修を加えて誰もが訪れることのできる新たな沼津俱楽部としてこの6月にリニューアルを遂げた。
新しくなった沼津俱楽部は1913年建造の国の登録有形文化財の茶亭と、宿泊棟、そしてレセプション棟からなる。茅葺きの長屋門を抜けるとクロマツ林の間から、レセプション棟が現れる。印象的なのは地層が形成されたような壁だ。これは富士川の砂と土を交互に流し込んで成型した「版築」と呼ばれる伝統工法である。
もとの沼津俱楽部の設計は那須の二期俱楽部を手がけた建築家、渡辺明によるもの。110年前の茶亭に用いられた和風建築の伝統をふまえつつ、現代の感性を随所に盛り込んだ空間になっている。たとえば、二階にわたって設けられた8つの客室はいずれも水盤を臨むように間取りが組まれており、引き戸のエントランスをはじめとして、どこか京都の町家建築を思わせる。一階はすべての客室のエントランスが水盤に面し、エントランスの引き戸が全面ガラス張りのため、他の客室の前を通る際、意図しなくても部屋の様子が窺えてしまう。そこは、大人の目配りが必要だけれど、昔の町家のご近所さんのような親密さもあるかもしれない。
沼津俱楽部の設計者の渡辺明がこの場所の文化を継承する上で、敬意を払った110年前の茶亭は、江戸幕府の大工棟梁の柏木家十代目・柏木祐三郎が建てたとされている。第二次世界大戦中には陸軍省に接収され、戦後も沼津の政治の拠点となるなど、日本の近現代史とのつながりも深い建築だ。
沼津倶楽部では、レストラン棟としてモダンチャイニーズを提供する。エピソードの多い沼津倶楽部だけれど、楽しみたいのは、会員制ゲストハウスであった2008年から毎朝、朝食をこしらえてきた77歳の風間ひさ子さんとの会話。生まれも育ちも沼津という風間さんは沼津俱楽部から10分ほどの住まいから早朝に通い、再訪するゲストには異なる朝食を出すように毎日の献立メモを欠かさなかったという。沼津の今昔を誰よりも知っている風間さん。朗らかで、「人が嬉しそうに食べる姿が何より元気の源」ともてなし好きなのは、大手都市銀行の女性営業職第一号の時代から変わらない。その風間さんが作る朝食は、お粥を中心にした中華。タイ産のジャスミン米をゆるく炊き上げ、それから裏ごしすることで米粒が全く残らないポタージュスープのような口当たり。お粥のほかおかずに肉焼売、お供はザーサイ、ピクルス、台湾製豆腐の和え物、さらにちまきもあってボリュームたっぷり。
沼津俱楽部では、太宰治や井上靖といった文豪たちにも親しまれた沼津の地を散策するのもいいけれど、客室にこもって過ごしたくなる要素もたくさんある。客室内の書棚には大岡信著作集や中川一政全集などライブラリーも充実。ミニバーのクラフトビールやシャンパンも込みのステイなので、いつでも眠れるベッドのそばでグラスを傾けるのも宿ならではの愉悦。ミニバーのビバレッジに関して注目したいのが、みかんジュースといった地の物だけでなく、シャンパンはバージンボトルではなく、すべてリサイクルガラスに瓶詰し、空輸便が常識のシャンパン運送にあって、環境への配慮から船便輸送に徹するシャンパーニュメゾン「テルモン」など、ソーシャルインパクトに配慮したセレクションになっていること。ラグジュアリートラベルのこれからは、こうした良識ある消費に配慮することになるだろう。
沼津俱楽部
住所:静岡県沼津市千本郷林1907-8
TEL. 055-954-6611
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