行きすぎた資本主義経済の「その先」はどこにあるのか? マインドフルネスの由来でもある「禅」の思想が、いま世界で注目される理由とは

BY RYOKO SASA, ILLUSTRATIONS BY STINA PERSSON

画像: うしろめたさを感じながらも便利な生活をやめられない私たちに、僧侶たちは最小限のものさえあれば生きていけることを示してくれる ©2017STINA PERRSON-CWCTOKYO.COM

うしろめたさを感じながらも便利な生活をやめられない私たちに、僧侶たちは最小限のものさえあれば生きていけることを示してくれる
©2017STINA PERRSON-CWCTOKYO.COM

 現在、アメリカからやってきた「マインドフルネス」という、心身を整える方法が流行している。これはもともと禅に由来したものなのだが、禅がZENと翻訳されて世界に紹介され、逆輸入されているにもかかわらず、日本人の私は禅についてよく知らない。しかし、これは大方の人々に共通することではないだろうか。曹洞宗の大本山、永平寺で3年、今もベルリンで修行を続ける雲水の星覚(せいがく)さんは、「禅の生活は、宇宙の理にかなっています」と語る。

 インドのブッダガヤで釈迦が悟りを開いたのは紀元前5世紀頃のことだ。禅宗は、十弟子のひとり摩訶迦葉(まかかしょう)が以心伝心で釈迦から引き継いだのが始まりとされる。さらに禅は中国に伝えられ、長い年月をかけて日本に渡ってきた。禅が日本で花開いたのは鎌倉時代。栄西が臨済禅を、道元が曹洞禅を日本にもたらして以来、独特の発展を遂げ、仏教の枠を越えて文化、芸術、ビジネスに影響を与えた。1960年代になると、禅はZENとしてアメリカで知られるようになり、ヒッピー文化などのカウンターカルチャーと結びつき、ミニマルなライフスタイルや、アートの総称ともなった。

 日本の高度経済成長期には、人々が科学技術の進歩を信じ、物質的な豊かさを追い求めたため仏教への関心は相対的に薄れ、さらにオウム真理教の一連の事件による宗教アレルギーのためか、長い間、禅は限られた人のものとなっていた。しかし現在、仏教の禅を起源にもちながら宗教性をそぎ落とした瞑想の技法、「マインドフルネス(今ここにあることに気づくことで心を整える瞑想の手法)」をGoogleやAppleが福利厚生で採り入れるなど、医療やビジネスにおける瞑想ブームが起きたことをきっかけに、再び日本でも禅が注目されるようになった。禅の流行は、世界的な潮流のひとつなのである。禅的な思想がこの時代に息を吹き返したのは、偶然ではないように思える。行きすぎた資本主義による極端な貧富の差、ネットから24時間休みなくあふれ出す情報にさらされることによる精神的疲弊、二酸化炭素排出による気候変動への危機感など、「もっと豊かに」「もっと多くを」という欲望が行きすぎてしまった社会において、世界中が、資本主義経済に希望を見いだせなくなり、「その先」を模索している。その解決方法のひとつとして、欲を手放し、必要最小限のスペースさえあれば生きていけることを示す禅に、物質社会からの幸福な退却方法を求める人々がいるのは、なるほど゙自然の流れであるようにも見える。

 最近、日本の仏教界でも既存の枠を超えて、さまざまな活動をする僧侶が増えている。雲水の星覚さんもそのひとりだ。シンガポールで生まれ鳥取県で育った彼は、大学で政治学を専攻したが、就職活動をいっさいすることなく、卒業してすぐ永平寺に修行に入った。特に仏教に縁のある家庭で育ったわけではないという。身体のことについて考えるのがもともと好きで、最初は役者を目指していた。しかし、身体表現である演劇を学んでいくうちに、禅が教える身体の在り方に興味をもち、永平寺に入った。下山した今はドイツに住み、ベルリン市民に禅を伝えている。彼の修行した永平寺といえば、よく名の知られた戒律の厳しい禅寺である。しかし、その厳しい修行も楽しくてしかたがなかったという。

「禅は、私たちの身体が自然の一部であることに気づくための作法です。禅の生活をしていれば、われわれの身体は余計なものを手放して、限りなく自然本来の姿に近づいていく。それが楽しくないはずはありません。苦行のように思われますが、坐禅は『安楽の法門』といって、実は最も楽な姿勢なんですよ」

 もともと禅の修行は身体技法であることから、体験なしにその本質はわからない。道元の説く禅は、「只管打坐(ただ坐る)」。坐禅をしたことのない人間にとっては、言葉で自転車の乗り方を教えられてもわからないのと同様、その本質に近づくことは難しい。坐禅が安楽の法門とはにわかには信じがたいが、外国人にも丁寧に禅の指導をしている星覚さんが、永平寺のお膝元、福井県永平寺町にある清涼山天龍寺で「初心指導」をしてくれるという。二泊三日の「禅の旅」に、私も参加することにした。

 早朝3時。夜明け前の静まり返った空気の中、宿坊から中庭を通って僧堂と呼ばれる坐禅堂に行き、坐禅を組む。坐に向かいまず一礼。時計回りで後ろを向くと、もう一度一礼をする。坐り方は足を蓮華に組み、腿の上に両足をのせる結跏趺坐(けっかふざ)か、片足をのせる半跏趺坐。体をゆすって耳と肩、鼻と丹田をまっすぐにそろえ、最も楽に身体を支えられる軸を探りあてる。いくら無理に力を入れて姿勢を正しても、そのままでいられる時間はせいぜい20分だろう。背骨だけで体を支え、どこにも力を入れずに坐っていられる姿勢を見つけない限り、身体は悲鳴を上げる。急に肩がこったり、何年も痛んだことのなかった傷が痛みだしたりと、思いもよらないところが反応し、身体が懸命にバランスをとろうと力んでいるのがわかる。長い間生きてきたなかで、無意識についてしまった身体のゆがみ、姿勢の癖を坐禅は教えてくれる。

「自分で支えようと思わなくても、身体が私を支えてくれる姿勢があるんですよ。それを教えてくれるのは重力です。地球も私たちの親であり師なのです。力を費やさずとも支えられていると感じるとき、私の命もまた、同じように生かされているのだとありがたさを覚えます」

 姿勢の癖は生きるために必要があって身につけたものだ。書類の入った重い鞄を下げてきた肩、スキーで傷ついた膝をかばうために傾いた上半身。平凡な人生を送っていても、日々の履歴が身体のあちらこちらに残っていることに気づく。この癖は、心についた癖ともつながっているはずだ。

 天龍寺副住職の博法さんはこう語る。

「怒りっぽい自分や、頑固な自分が坐禅によって直るかと言われれば直りません。禅はどこも目指さず、理想をつくらない。あるがままに坐るのが坐禅です」

 しかし、自分の無意識な癖に気づくことで、今まで頑張っていた心と身体がふっと緩む。これが、心の癖を直す第一歩になるのは間違いない。雑念も、浮かんだままにしておけばいいという。

「雑念はいつでも浮かんでくるものです。それにとらわれているときは必ず姿勢も崩れています。身体をまっすぐに戻して、心のとらわれを感じていれば、そのうち消えていきます」

 明かりを落とした暗い部屋で、壁に向かって坐っていると、頭の中に浮かんでは消えていた思考が静かになってきて、身体を通る呼吸の音だけが聴こえてくる。脈打ち、呼吸する身体を意識して観察していると、幼い頃に理科の実験で観察したプランクトンを思い出す。シャーレの中では意思を持たぬ小さな生物が、ただパクパクと脈打っていた。自分の命もあれと同じだ。必死で生きていると思っていたが、何のことはない。自然がわれわれを生かしてきたのだ。必死になって生きようが、何もせずにここに坐っていようが、私はこうやって生きている。私たちは自然の作った創造物のひとつだ。

私という存在は、里山を濡らしている雨の一粒、時折、舞い落ちる雪片のひとひらと同じ。つかのま地上に現れ、やがて消えていく。懸命に「生きている」という状態から、ただ「生かされている」という状態にモードが切り替わると、十分力を抜いていると思っていた身体からさらに力が抜けて、鎧のようにこわばっていた肩の力が抜け、すとんと下がる。同時に、胸のあたりで詰まっていた息の通りがよくなって、心身の緊張がほどけ楽になった。やがてまわりとの境界線があいまいになり、
息のあたる鼻のあたりだけが自分の存在を確認できるすべとなる。そのとき、私は無数の生命と呼吸で呼び合う生物のひとつとなった。禅は、思考ではなく感覚で、命そのものに触れる技法なのである。

 一緒に坐る星覚さんの姿は、いっさいの重力から解放されたかのようなある種の軽さを伴っている。たとえるなら水辺で憩う一羽の鳥だ。この坐禅会の参加者の一人が彼のたたずまいを見てこう言った。

「存在自体が透き通っているようですね」

 夜がようやく明けてくる頃、食事の時間になる。食事も坐禅の一部と位置づけられており、僧堂の畳の縁「牀縁(じょうえん)」に食器を置いて、坐禅の身心で食に応じる。

禅では、ひとりひとりに「応量器」と呼ばれる漆塗りの食器一式が割りあてられる。袱紗(ふくさ)と呼ばれる布に包まれた応量器は弁当の包みに似ている。袱紗を広げると、塗りの器が重ねられて入っているのだが、それを順番に並べていく作法は非常に美しく、無言の演劇でも見ているようだ。浄人と呼ばれる給仕の者が回ってきて、いっさい言葉を発することなく、椀に粥を入れていく。朝はそれに沢庵(たくあん)、梅干しとごま塩がついている。

 支度が整うと、みなで「五観の偈(げ)」を唱える。

 一つには功の多少を計り彼の来処(らいしょ)を量る(目の前の命が、どこからどのようにして運ばれてきたかを考える)

 二つには己が徳行の全欠(ぜんけつ)と忖(はか)って供(く)に応ず(今までの行いを振り返り、目の前の食事をいただくのにふさわしいかを想う)

 三つには心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗とす(貪り、怒り道理をわきまえぬ心を抑え、迷いを離れて食をいただくことを心得る)

 四つには正(まさ)に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり(食を単なる欲の対象ではなく、健康な身体を維持する薬と思って適量をいただく)

 五つには成道(じょうどう)の為の故に今此(こ)の食(じき)を受く(人間としてまことの道を成し遂げるために今目の前にある食をいただく)

 器を持つときは、主に親指、人さし指、中指の3本を使う。このことによって、繊細に食器を扱うことができるのだ。食事の時間は、話をせず、味わうことのみに集中する。すると、五感が研ぎ澄まされ、食材本来のほのかな滋味が体に染み入るのがわかる。道元禅師は、素材そのものの味「淡味」があると記した。これは心が静まっていなければわからない味なのかもしれない。スパイスもソースも加えることなく、ただ素材のやさしい味を感じつくすのである。禅の食事では皮やへたなどの野菜くずもだしとして使い、食品はあますところなく使われロスがない。近年、皮の部分に栄養が多くあることが証明されており、環境だけでなく健康にもいい調理法であることがわかってきている。

 禅僧は、食事の前に自分の器の中から飯を数粒取り分ける。これは小鳥や小動物のごちそうとなるのだ。質素な食事の中からも別の存在に命を分け与えることで、欲を手放す練習をし、ほかの命とつながりあっていることを確かめるものなのだろう。後片づけもいたって合理的である。食事がすむと、沢庵や刷(竹のへら)で、器についた汁をぬぐい、最後に注がれた白湯で器を洗って、のどを潤す。あとは食器を重ねて袱紗で包めば、残飯も出ず、水を汚すこともない。究極のエコシステムである。それが環境問題などなかった千数百年前から実践されてきたことに、今さらながら驚く。

 日常において、これほど丁寧に食と向き合う時間がつくれているだろうか。スーパーやコンビニに行けば明かりが煌々と灯り、食べ物はあふれるほど並んでいる。すっかりその光景に慣れてしまってはいるが、みなどこかで、「ずっとこのままの生活は続かない」と不安に思っているのではないだろうか。心のどこかで後ろめたさを感じながらも、便利な生活をやめられない私たちに、僧侶たちはその生き方で、最小限のものさえあれば生きていけることを示してくれる。理屈ではなく、あらゆる作法の中で、おのずとわかるようにプログラムされているのだ。

星覚さんは言う。

「ここでは、人々が環境問題で悩むはるか以前から、自然と調和した、きわめて合理的でシンプルなシステムの中で暮らしてきました。もっとも、禅というものは何かのためにやるものではありません。誰かに見せたり、結果を求めたりするのでもありません。ただそうせずにいられないからそうしているのです」

 しかし、俗世に生きる私は疑問を抱く。この禅の生き方が具体的にどんな役に立つというのだろう。この社会で暮らしている人は、働き、競争し、ローンを返し、実際に生活を成り立たせなければならない。

 星覚さんは、私の疑問に対してこのように述べる。

「禅は処世術ではありません。ただ、悩んでいる人に、その土俵から降りる方法があることを示すことならできるかもしれません。視点を変えれば違った景色が見えます」

 私たちの苦しみとは何だろう。売り上げを今以上に伸ばすこと、もっと消費すること、もっと所有することだろうか。あるいは魅力的になって異性の気持ちをつかむことかもしれない。頑張れば一時的には成果が上がるかもしれない。だが一方で、強力な競争相手が出現すれば、今以上に努力することを求められる。全力で走ってきたのに、それ以上の力を振り絞らなければならない。

 いつも「もっと」「もっと」と急き立てられ、心の底で、「いつまで頑張れば報われるのだろう」と思っているのではないか。誰が始めたのか、なぜそのルールなのかわからないまま、私たちは目に見えぬ何かと闘い続けている。一方で、人々は気づき始めている。この生きづらい社会の裏側に巨悪があるわけではないのだ。私たちは巨大な踏み車の中で、ただグルグルと走り続けているネズミのようなもので、誰かがスピードを上げるともっと速く走らなければならないし、この踏み車から落ちてしまうと生きていけないと信じ込んでしまっている。

画像: 食事の時間は、話をせず、味わうことのみに集中する。すると、五感が研ぎ澄まされ、食材本来のほのかな滋味が体に染み入るのがわかる。道元禅師は、素材そのものの味「淡味」があると記した。これは心が静まっていなければわからない味なのかもしれない ©2017STINA PERRSON-CWCTOKYO.COM

食事の時間は、話をせず、味わうことのみに集中する。すると、五感が研ぎ澄まされ、食材本来のほのかな滋味が体に染み入るのがわかる。道元禅師は、素材そのものの味「淡味」があると記した。これは心が静まっていなければわからない味なのかもしれない
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 果たしてそれは真実だろうか?
そう問いかけるのが禅である。社会は生産性のないものを「愚」と呼ぶが、仏教ではそれを「聖」と呼ぶさかさまの世界だ。 今、「マインドフルネス」の技法は、集中力を養い、生産性を高める手法として企業に注目されている。しかし、どれだけの人が気づいているだろう。本来、禅は過度な競争主義や、資本主義に対する「ワイルドカード」なのだ。果てしない競争社会から「降りる」ための革命の技法なのである。

 星覚さんはこう語る。

「ドイツに渡ったばかりの頃は、果たして生活していけるのだろうかと不安に思ったこともありました。それでも5年以上たって、僕はこうして生きている。それが事実です。 ときどき、ベルリンの広場で托鉢(たくはつ)をしているのですが、坐っていると子どもたちが、パンや果物を持ってきてくれて、『ダンケ(ありがとう)』と声をかけてくれます。言葉はなくとも、どこかで通じるところがあるのでしょう。よく誤解されますが、托鉢は僧侶のためにするものではなく、布施をすることが自分自身のためになるからしているのです。何の見返りも求めず、ただ与えることは執着を減らします。すると思いもよらないかたちで縁がつながり、それが人々を支えます。思いがけず誰かに与えられることもあるでしょう。それをただ受け取る。そのことによって人々はつながっていきます。それが僕らの本来住んでいる世界です。むさぼらない。へつらわない。お金はなくてもいいし、あっても構わない。そこに執着をつくりません。人間は生まれるも死ぬも裸一貫。一枚の服、ひとつの器を持っていることだけで自然界では特別なことです。そこから考えれば、私たちはすでに十分すぎるほど所有しているのではないでしょうか」

 ベルリンでは、普段使わない日用品から、家や食料品まで声をかけあって融通しあうシェアリングエコノミーの考え方が浸透し、ベンツやBMWも最新の技術を使ってカーシェアリングを導入しているという。世界中が今、行きすぎた資本主義経済のその先を模索している。

「ものをわけあって大切に使う、贅沢なものは持たない、持ち寄って食卓を囲む、客人を泊める。少し前まで特別な光景ではなかったはずで す。退くには勇気がいります。しかし最小限のもので満足できる方法を知っていれば、無理なくそれができる。昔の智慧を学ぶ新しい懐かし さはむしろ楽しいものです。生まれたばかりの頃は誰もがそういった世界を経験しているからでしょう」

 Appleの設立者のひとり、故スティーブ・ジョブズも禅に傾倒していた。ジョブズはこんな言葉を遺している。――方向を間違えたり、やりすぎたりしないようにするには、最も重大な機能を除いて、本当は重要でないすべてに『ノー』を言う必要がある――

 歴史に「もし」はないが、もしジョブズが生きていたら、いずれ彼はコンピュータも手放していたかもしれない。

 道元はこう記している。

「須(すべか)らく回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし」 

 禅はこの先の未来を指し示すことができるだろうか。「退歩」することもまたひとつの進歩なのだと認められるほど、果たして社会は成熟することができるのだろうか。それを考える前に、破滅に向かっていると知りながら、手放すことのできない自分の欲望を見つめるレッスンをしなければならないのかもしれない。

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