伝説の芸術家との10年におよぶ日々を綴ったフランソワーズ・ジローの本『ピカソとの日々』は、1964年に出版された当時、問題作となった。それから半世紀以上が経ったいま、ふたたび発売されることになった

BY THESSALY LA FORCE, TRANSLATED BY KANAE HASEGAWA

 芸術家、フランソワーズ・ジローがパブロ・ピカソと初めて出会ったのは1943年。彼女が21歳のときだ。ある夜、2人はたまたまパリで同じレストランに居合わせた。ピカソは当時の恋人、ドラ・マールと友人たち、一方のジローは彼女の友人たちと食事をしに来ていた。食事を終えたピカソはジローたちのテーブルにやってきて、チェリーの入ったボールを差し出すと、グラン=ゾーギュスタン通りにあるアトリエを見にこないかとジローを誘った。すでに世界的に有名な芸術家となっていたピカソだが、もはや1920年代から30年代にマン・レイのカメラがとらえた“ハンサムな獣”のようにはジローの目には映らなかった。それでも、ジローは61歳のピカソに心奪われた。

 これは広く知られた話だ。というのも、1964年にジローが米国のジャーナリスト、カールトン・レイクとの共著で出版した回想録『ピカソとの日々(原題:『Life With Picasso』)』でつぶさに語られているからだ。

画像: (写真左)このほど再販されたフランソワーズ・ジローの回顧録『ピカソとの日々』 (写真右)フランソワーズ・ジロー。2018年6月、彼女のスタジオにて撮影 PHOTOGRAPH BY JODY ROGAC FOR THE NEW YORK TIMES

(写真左)このほど再販されたフランソワーズ・ジローの回顧録『ピカソとの日々』
(写真右)フランソワーズ・ジロー。2018年6月、彼女のスタジオにて撮影
PHOTOGRAPH BY JODY ROGAC FOR THE NEW YORK TIMES

 この回想録が今年6月、『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス・クラシックス』(註:1963年創刊の米国雑誌『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』の出版部門)から再版された。本の中でジローはピカソとの10年におよぶ恋愛関係について綴っている。彼女自身、当時からいっぱしの画家であり、名を上げたいという野心を持っていた。ピカソはそんな彼女を、家族を捨てて自分と暮らそうと口説き落とした。ほどなくしてジローはピカソの弟子となり、助手、パートナーとなる。そして、2人の間に生まれた子ども、クロードとパロマの母親になった。

 しかし、回想録はジロー自身の画家や母親としての成長よりも、ピカソに焦点を置いている。ジローは南仏ヴァロリスの地でピカソが陶器の創作を探求する姿を目の当たりにし、同時に彼の先駆的な彫刻、リトグラフ、そしてアサンブラージュ(註:既成の日用品を一枚のキャンバスに貼り付ける美術表現)が立ち現れる瞬間の目撃者となった。

 その一方、彼女はピカソの作品のテーマにもなった。ジローの肖像画《花の女》(1946年)は、彼女がピカソとともにアンリ・マティスの家を訪れたのち、ピカソが描いたという有名な絵だ。好戦的なピカソの性格を知るマティスは、自分がジローのポートレイトを描くとしたら髪を緑色にするだろうと提案した。それに刺激を受けたのか、《花の女》でジローの髪は葉っぱのように、胴体は茎のように伸び、そこから抽象化された手足と胸が突き出たように描かれている。

 1950年代初めになるとそんな2人の関係に暗雲が立ち込めるようになる。ジローは回想録の中で次のように記している。
「ほかの誰による愛よりも、私はパブロのことを愛していたと思います。しかし、その後の彼の私に対する叱責といったら――私が彼のことを一度も信用しなかったと責め立てたのです。彼の言い分は正しかったかもしれません。そうだったとしても、当時の私は疑いを持たざるを得ない状況にありました。というのも、同じ役をめぐってゆるぎない目標を持つ3人の女優たちと同じ舞台に立たされていたのですから。そして、その後、ほかの3人はみなプロンプターボックス(註:芝居で役者が台詞を忘れたときのために、舞台の下で控えるプロンプターの入るボックス席)へと落ちていったのです」

 3人とはピカソの前妻、オルガ・コクローヴァとピカソの長年にわたる愛人、ドラ・マールとマリー=テレーズ・ウォルターのことだ。そんな彼女たちの中で唯一、自らピカソとの別れを選んだのがジローだった。

画像: (写真左)フランソワーズ・ジロー 《My Grandmother Anne Renoult》(1943) (写真右)フランソワーズ・ジロー 《Paloma Asleep in Her Crib》(1950) COURTESY OF THE ARTIST

(写真左)フランソワーズ・ジロー 《My Grandmother Anne Renoult》(1943)
(写真右)フランソワーズ・ジロー 《Paloma Asleep in Her Crib》(1950)
COURTESY OF THE ARTIST

 ジローの本はベストセラーとなったがピカソの取り巻きからは猛烈な攻撃を受けた。とりわけ、のちに『ピカソ』を著したジョン・リチャードソンは、1965年に『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌の中で“トロンプ・ルイユ(註:フランス語で目を欺く)”と、同書をこき下ろしている。そのレビューというのは「『ピカソとの日々』では、ピカソの仕事の進め方についてはもちろんのこと、家族や親しい女性たち、友人や芸術仲間、画商らとの複雑な人間関係について、さらに性生活までもが赤裸々に暴露されている。これを読むと、なぜ『コンフィデンシャル』誌(註:1952年創刊のスキャンダルを扱うゴシップ雑誌)ではなく、『アトランティック・マンスリー』誌(注:1857年創刊の米国の歴史ある文芸誌。創刊にあたり、R.W.エマソン、ナタニエル・ホーソンといった著名な作家が関わった)に連載されてきたのか不思議でならない」という内容のものだった。

 確かに回想録の中では、ピカソによる画家仲間についての遠慮会釈のない感想が明かされている。たとえばマルク・シャガールについては「なにか知らないが雄鶏やロバ、ヴァイオリン弾きが空を飛んでいる絵といったものや、民話の絵のたぐいには感心しないが、絵を描く腕は本物だ。絵の具を飛ばしているだけじゃない」といった内容が記されている。また、ジローとピカソとのみだらな性生活の描写は、当時は今よりもはるかに大きな衝撃を世間に与えた。本が出版されるとピカソは、ジローとの間の2人の子どもとの縁も切ったほどだ。

 子どものひとり、クロード・ピカソは「幾度となく父に会おうとしました」と、1996年に『ニューヨーク・タイムズ』紙のマイケル・キメルマンの取材に答えている。「父は家に閉じこもってしまい、電話をかけても自らは出ません。僕とパロマは別々に父に会うために毎年、数回、あるいはもっとかもしれませんが、父の家を訪ねました。考えてみてください。南仏で暮らしておらず、運転免許を持っていない年の僕たちが、南仏の人里離れたところにある父の家を訪ねることは、簡単ではありませんでした」

 それから何十年も経ったが、それでもなお、この回想録は今読んでも驚くほど新鮮だ。ピカソは素晴らしい人間であると同時に、ジローに対して支配的で――彼女の欲求や望みには無頓着な所有欲の強い人間として描かれている。ピカソがかつてジローに語ったのは、“女性は2種類しかいない”ということ。女神か、ドアマットか、そのどちらかのタイプしかいないと。

 だからといってジローによる本はピカソの芸術をけなすものではない。しかし、独自の方法で、ときに驚くほど自分本位で、極めて親しい相手にさえも非情なまでに冷酷になりうるピカソという人物像を浮かび上がらせている。天才ピカソの伝説は、本書に克明に記された彼の人としての未熟さやエゴと天秤にかけられるのだ。のちにジローと親交を結んだリチャードソンは、自身が亡くなる直前、じつのところ、ピカソがジローに与えた影響よりも、ピカソがジローから受けた影響の方が大きかったことを明かしている。

画像: フランソワーズ・ジロー 《Polarities》(2009) COURTESY OF THE ARTIST

フランソワーズ・ジロー 《Polarities》(2009)
COURTESY OF THE ARTIST

 ある日の朝、97歳のジローと彼女の娘、オウレリア・エンゲルに会いにマンハッタンのアッパー・ウェスト・サイドにあるジローの自宅を訪ねた(ジローはピカソと別れたのち、二度結婚している。はじめはエンゲルの父親となるリュック・シモン、その後、ジョナス・ソークと)。今でも彼女が絵を描くその家で、回想録について、そしてジロー自身の創作活動について話を聞いた。9月まで米国ニューオーリンズにあるマックグライダー ギャラリーでモノタイプ(版画の一種)の個展を開いていたジロー。平面の支持体に図画を描き、紙を押し当てて転写する技法のモノタイプの作品は、空想的で美しい。色彩豊かで、色を何層にも重ねることで浮遊感を生み出しているが、意図的な感じはしない。神話を題材にしたものもあれば、完全な抽象画のモノタイプもある。当然のことだが、ジローは、ピカソとの生活より、自身の創作について話す方が乗り気のようだ。

 以下に続くのは、われわれの会話を抜粋して編集したものである。

テッサリア・ラフォース(以下、T):1964年、最初に本を出版したとき、当初どのような反応がありましたか?

フランソワーズ・ジロー(以下、F):そうですね、覚えていません。あまりに遠い昔のことなので。

T:何十年も経った今、改めてこの本を振り返って感じることはありますか?

F:何もありません。私は、過去ではなく、今を生きる人間です。未来に関してはどうかわかりませんが。一日一日、その日に起きること、次の日のことが大切なので、過去を気にしていません。「あの日、あんなことが起きたわね」といったことは一切、気に留めていません。

T:そうですね。

F:それに、絵画というのは――たとえば数学に取り組んでいるならば数字を気にするかもしれませんが、絵の場合、そうではありません。絵では色と色の組み合わせがどんな関係を生むのか、形と形がどんな関係を生むのか。そのような関係性を追求するのが絵です。それ以外の何ものでもありません。

T:絵画のなかに物語性はないと考えますか? それともおっしゃるように絵画は色彩、形態からなるものなのでしょうか?

F:絵は絵です。

T:私は画家ではないので、それではわかりません。

F:そうですよね、これは重要なことなのです。多くの人が絵に物語性を求めます。物語はあってもいいのですが、不可欠ではないということです。

T:絵は毎日お描きになるのですか?

F:たいていスケッチをしているか、外を眺めているか。はっきりと決めていません。

T:毎日、どのように過ごしているのですか?

F:今の私にとって絵を描くことは呼吸をするように自然なことです。ふだん呼吸をしますよね。呼吸を停止することはありません。とても簡単なことです。絵を描くことは、神秘的な領域に触発されて始まるのではない。これは私に限ったことではなく、どんな画家でも毎日していること。手を使って自分の感情を表現できる人、それが画家です。そのようにして毎日、暮らしています。

T:なるほど。

F:詩人が詩を書くことと同じでしょう。

T:そうですね。

F:歴史書を書くというよりは、詩に近い。

T:一枚の絵を完成するにはどのくらいかかるのですか?

F:一日で完成するものもあれば、一か月あるいは一年かかるものもあります。

T:ものによるのですか?

F:そのとおりです。ひとつひとつが独立した作品ですから。今夜仕上げることができるかもしれないですし、6か月経っても完成しないかもしれません。作品づくりには関係ありません。かかった時間は重要ではないということです。

T:絵が完成したというのはどのようにして判断するのですか?

F:誰の目にも一目瞭然です。私の目にも。

T:回想録『ピカソとの日々』がこのほど再版されました。あなたが『ピカソ』の著者、ジョン・リチャードソンと友人になったという話についてお聞きしてもいいでしょうか? 原書が出版された時、彼が最初、本を酷評したことは有名です。

F:そのとおりです。当時、彼は私と会ったこともなければ、私のことを知りもしませんでした。聞いた話から私のことを判断したんです。その後、会う機会ができて、とても親しくなりました。何と言えばいいでしょう。出版当時、多くの人は私を目の敵にすれば、ピカソの肩を持つことになると思っていたので、本のことをこき下ろしたのです。ところが、そうしたところでピカソの機嫌が変わる様子は見られなかったので、みんなそうした考えを捨てたのです。

T:それは興味深い話です。私は本をとても気に入っています。文体も語り口調も見事だと思います。

F:加えて、私は間違ったことを何も語っていないのですから。事実しか語っていません。誰よりも私がピカソのことを理解している人間であることを、みんなわかっていました。そして、この本が、他のピカソについての本よりうまくできていることも。ただ、出る杭は打たれるものです。

T:そうですね。

F:だから叩かれたのです。

T:本に書かれているのはピカソのことが圧倒的に多く、あなたの存在がほとんど感じられません。

F:それは私は、目の前で行われている出来事を覗き込む目になっているから。“目”のことを言っているのではなく、私の目が見ているものを捉えたからです。

T:そのようにピカソにフォーカスする手法を選んだのは、理解できます。しかし、私としてはあなたの人生についても読みたかった、と。

F:そのような本もできたでしょうが、その場合、本のタイトルは違ったでしょう。そういった類の文章はいくらでも書くことができます。詩をずっと書いてきましたし、他の人についての本も書きました。ピカソについて書くのだから、ピカソについて語らなくてはいけません。

T:執筆の最中、読んだ人からどんな反響が来るかと思うと怖くなりませんでしたか?

F:怖いと思ったことなど一度もありません。私らしくないことです。怖かったら書きませんし、実際に怖くなかったですね。なぜ怖がる必要があるのでしょうか? 何に対して?

T:私にもわかりませんが、怖がる人もいます。

F:恐怖心そのものが怖いということですね。

T:そうです。

F:でも、それは愚かなこと。私のことをどのように言ってもらってもかまいませんが、私は愚かではありません。

T:誰もあなたのことをそうは言わないでしょう。本のなかで、あなたとピカソが絵について、ジョルジュ・ブラック、アンリ・マティス、マルク・シャガールといった画家仲間について語り合ったひとときの描写は、とりわけすばらしかったです。

F:そうね。ずっとともに暮らしていたから――どのくらい一緒にいたでしょう――10年は一緒だったはずです。なので、ピカソとは、することなすことだけでなく、一緒に話したことなど、さまざまなことを通してお互いを理解し合いました。長い関係です。このように理解し合うことはとても大切。

画像: フランソワーズ・ジロー 《Horse Abstraction》(1945) COURTESY OF THE ARTIST

フランソワーズ・ジロー 《Horse Abstraction》(1945)
COURTESY OF THE ARTIST

T:そうした日々の中であなた自身の絵はどのように変化したのでしょう?

F:そうですね。誰でもそうだと思いますが、どんな画家でも作品は自身の人生経験とともに変化するものです。自ずとそうなります。人生を経験していくということ。今日は太陽が少し見えますね。そこで、太陽について考えてもいい。逆の見方をして、雨について考えてもいい。雨がないのですから。どちらとも言えません。予定したものとまったく関係ないことについて描くこともあります。初めから計画を立てないこともあります。閃きね、閃きで動くことは大切だと思います。

T:あらゆる意味において、ピカソはすばらしい人間であるとともに、とても自己中心的な人のようですね。あなたはどうお考えでしょう、芸術家であるためには――。

F:まず、本に対する批判的な声はピカソの“取り巻き”から上がったものです。彼らはもっといい本だと期待していたので、はじめ批判をしたのです。

T:なるほど。

F:当然でしょう。ピカソについて彼らが到底知りえないことも、私はすべて知っていたのですから、鼻持ちならない存在だったのでしょう。批判に対して戦うことになることは前もってわかっていました。すべての人に受け入れられる本ではないだろうって。

T:そうですね。

F:そういうこともあります。自分のことを好意的に捉えてくれるときもあれば、そうでないときもあります。だからといって、いちいち他人の否定的な意見、好意的な意見に振り回される必要はありません。そうでしょう? 重要なのはふたつだけ。自身、そして真実に対して忠実であるということ。周りの人たちが正しいと思っていることだからといって、それを信じるべきだとは思いません。そうした人たちが頭の中ですでに正しいと思いこんでいるのであれば、私が言うことは何もないでしょう?

T:ええ。

F:そうじゃないんですよ。何度でも言いますが、彼らは思っているだけで、真実を知らないんです。

T:あなたの行動に対してとても勇気があるという人もいます。天才、偉大な芸術家になるためには――ピカソのような身勝手な態度をとる必要があるのでしょうか――あなたはどう思いますか?

F:そうですね。彼は自分勝手でした。ほかの人の10倍もね。自分が他の人より100倍才能があると思っていたから、他の人の100倍エゴイストでした。

T:自己中心的でないと才能ある芸術家にはなれないのでしょうか?

F:なれません。ところで“自己中心的”という表現は間違っています。芸術家は自我が強くなければならないので、自己中心的であるのは普通のことです。

T:そうなんですね。

F:アートは芸術家の自己表現であるべきで、自己と社会一般との関係を表現するものであるべきです。したがって、芸術家は他人の疑問に対して解決を出すことはできません。芸術家は自身にとっての真実とは何かを追求するだけです。

画像: フランソワーズ・ジロー 《The Constructor》(1944) COURTESY OF THE ARTIST

フランソワーズ・ジロー 《The Constructor》(1944)
COURTESY OF THE ARTIST

T:そうすることは男性よりも女性の芸術家にとって難しいことだと思いますか?

F:芸術家であるために、性の違いが関係するとは思えません。女か男かでなぜ違うのですか? 男の人が目を向けないことにも、私たち女性であれば注視する可能性があります。注視することで、あることについての真実により迫る可能性が生まれます。なぜなら女性は、そのことについて何度も考え、何が真の解決なのかを考えてきたから。

T:しかし、男性はそれを許されている……

F:なぜ誰かの許可を求める必要があるのですか? 第一に、“許される”という前提はありません。

T:わかりました。

F:許されて何かをする、ということは、やりなさいと言われたことしか実行しないことになります。そこには創造性が少しもありません。あることに対して自分の考えを表現するのが画家であり、小説家です。そこに男女の違いによる差は生まれません。それができないのであれば、家に閉じこもっていた方がいいですね。

T:この本で、私が好きな章がほかにもあります。あなたがピカソのもとを去る決意をする最後の章です。

F:あなたは、私が最後の章の内容を覚えていると思いますか? いいえ。最初の章の内容すら覚えていません。自分のしたことを振り返るのに時間をかけていませんから。私はそのときのことを書くんです。書いているときは、可能なかぎり事実に忠実に書こうとします。そうして書き終えたら、それでおしまい。読み返す必要はどこにあるのかしら?

T:それには賛同しますが、本には、ピカソと決別しようとするあなたに対する彼の言葉が詳述されています。それは、「本当のところ、君は僕に多くを負っている。この先、今以上の暮らしなどありえないよ」というものです。これに対して今、何か語ることはありますか? 彼と別れてからも充実した人生を送られているようですが。

F:何も言うことはありません。わかっていました。人生は一度しかありません。その人生をどう演じるかは自分で決めなくてはいけません。よいものであっても悪いものであっても。それが現実なのですから。

T:本の中でアンドレ・ジッド(註:ノーベル文学賞受賞のフランスの小説家)はあなたのことを自責の念が多い人間かもしれないが、後悔するタイプでは決してないと評しています。それは当たっていると思いますか?

F:後悔する必要はどこにあるのでしょう? 後悔は、何かをしなかったことに対してするものです。私がピカソのもとを去ったのは、あらゆる努力をし、手を尽くしたからです。その結果、去ることにしました。安定した暮らしのためだけにピカソと暮らしていたわけではありません。

T:まったくその通りです。私は、この本のその部分が気に入っているのです。

F:人生において後悔しないことはとても大切だと思います。“後悔”は、行動を起こしておけばよかったと心残りに感じることを意味します。あれこれやった結果、こうでしたという方がはるかにいい。それが生きるということの意味です。その結果に対しては、なんとかして向き合おうとするだけ。

T:私よりはるかに長く生きてきたあなたがおっしゃるのだから、そうなんでしょうね。 

F:人生で最も大切なのは自分自身に素直になることです。さらに余裕があれば、ほかの人に対しても素直になればいい。

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