BY YOSHIO SUZUKI, EDITED BY JUN ISHIDA
「石岡瑛子」、あるいは「EIKO」の名を聞くと少しだけ空気が引き締まる。怖れだけではない。彼女への憧憬がある。もう会えない無念もある。
石岡の仕事を総覧する展覧会『石岡瑛子血が、汗が、涙がデザインできるか』が東京都現代美術館で2021年2月14日まで開催中だ。
憧憬。歴史に残る表現者たちと、次々とコラボレーションをした。レニ・リーフェンシュタール、フランシス・フォード・コッポラ、マイルス・デイヴィス、アーヴィング・ペン、ビョーク、ターセム・シン……。その成果として、グラミー賞、アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。
無念。大きな仕事をいくつも成し遂げ、活動領域を広げ、さらなる期待を背負いながらも、この世界から足早に去っていってしまった。
コピーライターの小池一子は石岡と同年代で、若い頃からの友人であり、仕事仲間でもあった。
「1965年に日本宣伝美術会のグランプリを獲った作品を見て、どうしても会いたくなって会いに行ったんです。砂目スクリーンを使った作品でした。どんな人がこういうものを作るんだろうって。藝大の友達に紹介してもらって。すぐに意気投合して、よく会うようになりました。遅くまで仕事している彼女の銀座の仕事場に寄って話したり」
ふたりで組んだ仕事にはどんなものが?
「人権を尊重し、反戦を謳う《POWER NOW》っていうポスターを作りました。横須賀功光(のりあき)さんの写真で。そのあと、当時パルコの重役だった増田通二さんに広告の相談をされて、石岡さんを紹介しました。増田さんは石岡さんをすぐ理解してくれました」
池袋のパルコの仕事をし、渋谷のパルコを作る際には、広告表現はすべて石岡に託された。『石岡瑛子風姿花伝』(求龍堂/1983年)にはこうある。
「フリーランスになったら広告を離れようとしていた私の気持ちを再びその現場に引きもどし、燃焼せざるをえない破目に陥れたのもパルコである」
石岡と小池はともに旅もした。スケジュールを合わせてスイスで落ち合ったことも。
「私はロンドンから、彼女はニューヨークなんかを回ってきて。長旅でした。彼女は4カ月以上ずっと回ってたんじゃないかな。1967年のことですね」
このときの旅について、石岡も著作『私デザイン』(講談社/2005年)に書いている。
「1967年の暮れ、6カ月のアメリカ・ヨーロッパ旅行を終えてロンドンから東京に…」
この帰国後まもなく、石岡は日米の合弁で設立されたばかりのCBS・ソニー(当時)から仕事の依頼を受けた。迷いなく引き受けた。この縁がのちに、グラミー賞を受賞したマイルス・デイヴィス『TUTU』のジャケット・デザインの仕事につながる。
石岡はニューヨークを拠点にし、小池は美術館の仕事をしたり、大学教授となる。「彼女が舞台美術と衣装デザインを手がけた『M.バタフライ』をブロードウェイでやるといえば、私も時間をとって出かけ、オペラの衣装を担当した『ニーベルングの指輪』のときは一週間アムステルダムに滞在して、ほとんど毎日会って、いろいろな話をしました」
マイルス・デイヴィス『TUTU』のジャケット。それが目に焼きついて離れないと語るのはデザイナーの佐藤 卓だ。
「2003年に名古屋でグラフィックデザイン会議があり、シンポジウムを企画しました。すでに数々の立派な仕事を成し遂げていた石岡さんをその会議がお呼びしたんですね。一方、私はシンセサイザーの発明者、ロバート・モーグ博士をお招きして、博士と私の仲間2人との4人で登壇したのですが、そのとき、ふと客席に目を落としたら最前列に石岡さんが座っていました。あ、石岡さんだと思った瞬間、話が聞こえなくなりました。シンポジウムが終わって観客にもまれ、石岡さんを見失って、お声がけもできなかったこと、今でも後悔しています」
石岡さんの存在とは?
「巨匠たちと仕事をし、積極的に彼らの中にどんどん入り込んでいくような動物的なイメージをもたれるけれども、実際はそうではなくて、すごく植物的なのではないかと思います。石岡さんのセクシーともいえるあの存在に魅力を感じて、一緒に仕事がしたくて人が集まる。圧倒的な才能は、まわりが放っておかないんです」
佐藤は、「21_21DESIGNSIGHT」の館長も務めている。「4年くらい前、石岡さんの妹の怜子(りょうこ)さんが、瑛子さんの仕事をまとめたいと考えられ、相談を受けました。私が瑛子さんについて詳しいとか、親交があったということではなくて、デザインに関するさまざまな展覧会を開催している経験者なので」