BY JULIA HALPERIN, PHOTOGRAPHS BY MELODY MELAMED, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

彫刻家のマーク・ディ・スヴェロ。カリフォルニア州ペタルマにある彼のスタジオで2025年7 月10日に撮影。
西洋美術史を振り返れば、ほとんどの場面で、障害者は同情や嘲りや称賛の対象として描かれてきた。負傷した兵隊を讃え、盲目の予見者を神秘的に描く一方で、障害者や物乞いや宮廷道化師たちを奇形として描き、おぞましいイメージを押しつけてきた。「ポジティブ、あるいはネガティブ、そのどちらのイメージで描くにしても、さまざまな倫理観が作品に深く刷り込まれていた」と語るのは、ロサンゼルス・カウンティ美術館のキュレーター、リア・レンベックだ。同美術館は、19世紀から現在に至るまでの「美術と障害」をテーマにした展覧会を2028年に開催する予定で、彼女はその責任者のひとりだ(ロサンゼルス五輪・パラリンピックとちょうど同時期に行われるこの展覧会は、スポーツで称賛されるチャンピオンたちの体型こそ、そうでない人の身体より価値があるのだという固定観念に挑戦する意図で企画された)。
障害のあるアーティストたちの作品が本格的に美術界に参入してくると、彼らの障害の部分は文脈から消されてしまうことが多かった─たとえ、ある特定の身体機能の欠如が彼らのアートの方向を決定づける重要な要素だったとしても、だ。たとえば印象派の画家、クロード・モネは、白内障によって視界がぼやけていくにつれ、パレット上に暗い色を増やし、キャンバスにより多くの量の絵の具を塗るようになった。チャールズ・ホワイトも同様だ。黒人のアメリカ人たちを題材にし、内側から光り輝くようなタッチで描いたドローイングや版画によって20世紀で最も影響力のあるアーティストのひとりとなった彼が、もし結核に罹患していなければ、数々の傑作はこの世に存在しなかったかもしれない。肺が虚弱だった彼は、有害な気体を発する塗料を拒み、鉛筆を制作の道具として選んだ。英国人画家のデイヴィッド・ホックニーは鮮やかな色彩の肖像画と風景画で知られているが、聴力を失ったことで「空間をよりはっきり見る」能力が増したと語っていた。
だが、美術史家たちがそんな障害をほとんど指摘しなかった理由のひとつは、多くのアーティストたち自身が障害者のレッテルを貼られることを避けてきたからでもある。そんなアーティストたちは、身体的、または精神的な機能不全は自分たちの創造性を後押しするものではなく、むしろ阻害するものだと認識していた。「美術史上、障害はいつの時代も、あらゆる場所に存在してきたはずなのに」と語るのは、ディスアビリティ(障害者の)アート・アクティビズムを専門に研究する美術史家、アマンダ・カシアだ。「しかし、美術史というアカデミアの世界は、そのことを一度もきちんと認識することがなかった」
現在92歳の彫刻家のマーク・ディ・スヴェロは、1960年に建築現場で働いていたときに、貨物用エレベーターの事故に遭い、背骨と左足を骨折し、危うく死にかけた。当時、彼は初の個展の準備中だった。1 年もの長い入院期間を経たのち、彼は退院したい一心で、主治医たちに車椅子仕様のスタジオがあるから大丈夫だと噓をついた。実際は、脚用装具を着用して杖をつき、ロウアー・マンハッタンの建物の3 階にあるスタジオに通った。
それでも、彼は事故によって「作品制作の手法をこれまでと変える」ことを余儀なくされたと語る。事故以前のディ・スヴェロは廃材の梁や鉄の鎖などを使って自動車ほどの大きさの彫刻を作っていた。巨大な素材を不安定なバランスで配置する彼の手法は、抽象表現主義(註:ジャクソン・ポロックなどが代表的)の画家たちの筆使いを、三次元の空間で蘇らせた感じだ。今では彼は建設用のクレーンの操縦方法を独学でマスターし、クレーンが自分の絵筆代わりになってきたと語る。「クレーンを使えば、人間が物を持ち上げる力の限界を超えることができる」と彼は説明する。彼は軍隊の匍 匐前進の姿勢で地面を這いながら車椅子からクレーンの操縦席に移動する。そして、鉄筋の梁や鉄製の蒸気ローラーやその他の工業用の物体を組み合わせて、数階建ての建物と同じ高さの、カラフルで美しい彫刻を作り上げるのだ。事故をきっかけに、彼のキャリアを決定づける大きなブレークスルーが起きたわけだが、ディ・スヴェロは、自分の彫刻は、障害について何かを表現しているわけではないという。彼にとっては、彼と同年代の人々が感じるのと同様に、障害は運悪く遭遇した出来事であり、我慢して乗り越えるべきものだったのだ。「自由に動けなくなって、愛することはうまくなったよ」とディ・スヴェロは言う。彼の左足は火傷による合併症で2017年に切断された。「思うように動けない身体になってみて、多くの人と同じように、社会に頼ることを強いられた……。身体の動きに制限がある状態になって初めて、自分が何を失ったのかがはっきりわかった」
その一方で、ADA施行以降に成長した世代のアーティストたちは、障害を足かせと見るよりも、内なるパワーだと認識する傾向が強い。彼らが子どもから大人に成長した時期が、ちょうど「ディスアビリティ・ジャスティス」の運動が起きた時代と重なる。それは1970年代から80年代にかけて起きた障害者の人権運動をさらに広範囲に拡張した動きだ。障害のある有色人種のアクティビストたちが、2005年に「ディスアビリティ・ジャスティス」というコンセプトを新たに提唱したのだ。パティ・バーン、ミア・ミンガス、そしてステイシー・ミルバーンの3人のリーダーたちは、エイブリズム、すなわち、健常者中心主義の社会のしくみと闘うことは「あらゆる差別や抑圧が交差する状態」に立ち向かうことだと考えていた。つまり、障害者差別は単体で存在するのではなく、人種差別、性差別、そして同性愛者差別と切っても切り離せない関係にあり、そのすべてと闘う必要があるのだと認識していたのだ。ディスアビリティ・ジャスティス運動のリーダーたちは、人間の価値というものは「資本主義社会のカルチャーが期待するような一定レベルの生産性」の範囲内だけに限定されるべきではないと訴えた。
「誰もが、自分に起こりうる最悪の出来事は、身体が麻痺してしまうか、病気になることだと考えているだろう。でも、実際、米国では……最悪なのは、あなたの身体が肉体労働によって搾取されるのに適さない状態になった途端、あなたの存在を抹殺するべく設計されたシステムの中で生き抜いていかなければいけないということだ」と語るのは、アーティストのエミリー・バーカーだ。2019年にバーカーが制作した《7865枚の紙によって切り刻まれて殺される》という作品は、2012年から2015年までの間に自身が受け取った医療費の請求書のコピーを積み上げたものだ。高さは寝室の照明スタンドと同じくらいある。さらに同じ2019年に発表したインスタレーション作品《キッチン》では、L 字型をした調理台と収納棚を、まるで幽霊を連想させるような透明なプラスチックを使って制作した(プラスチック素材を選択したのは、軽量で、バーカーが自力で運べるからだ)。調理台は台座の上に載せて展示し、収納棚は天井から吊るした。車椅子使用者たちは、ほとんどのキッチンと、この距離感で対峙しながら毎日生活しているということを表現した。収納棚には手がまったく届かないし、調理台の上で包丁を使って野菜を刻めば、うっかり指まで切ってしまいそうな高さだ。バーカーが「日常生活で味わっている制約」と呼ぶ状況に実際に直面してみると、混乱して自分が幼児になったように感じ、苛立ちを覚える。
私たちが6 月にとあるコーヒーショップで会ったとき、バーカーはブルックリンのベッドフォード= スタイベサント地区に滞在していた。バーカーは、車椅子で街の中を行き来する経験がどんなものか少しでも理解してもらおうと、歩行が可能な人間には少なくとも一定の距離をともに移動してほしいと希望する。ふたりで一緒に数ブロックの距離を移動している途中で、バーカーは私に、電動車椅子の「歩行」モードのスピードに合わせて歩くのは大変ではないかと尋ねた(実際、私には少し速すぎた)。バーカーは、この「歩行」モードの設定は─ほとんどの機械がそうであるように─身長183㎝で、障害のない男性を基準にしているのではないかと指摘した。
ディスアビリティ・ジャスティスを求める運動が「従来どおりの生産性がなければ意味のある人生は送れない」という考え方に異議を唱えたように、バーカーとその仲間たちは映像やインスタレーション、パフォーマンスという、アート市場では容易に商品化されないメディアを選んで作品を制作することが多い。1990年代初頭に、ジョセフ・グリゲリーは《ソフィ・カルに宛てた絵葉書》を掲載してくれる出版媒体を探すのに苦労していた─カル本人がスイスのアート季刊誌『パーケット』の編集部に口添えしてくれるまでは。

クリスティーン・サン・キムによる《Shit Hearing People Say to Me(健聴者から私が浴びせられるサイテーな言葉)》(2019年)。上から時計回りに:「音楽を感じることはできるの?(両手を床にペタッとつけながら)」「うちの赤ちゃんも手話ができるんだよ! 試しに何か言ってみてよ!」「アメリカ手話って表現がドラマチックで、すごく感情が込められているよね。あなたたち、まるで舞台の上で演技してるみたい」「耳が聞こえない人にしては、君ってものすごく可愛いね」「あなたはろう者にしては賢いな」「うちの近所の家の犬も耳が聞こえないんだ。あなたたち今度ぜひ一度会うべきだよ!」「私の名前、手話で言える?」「"ファック"とか"セックス"とか"ビッチ"って手話でどう表現するの?」「あなたにすごく勇気をもらった。耳が聞こえないなんてかわいそう」「聴神経を直接刺激する人工内耳を体内に埋め込むべきだよ。絶対に人生が劇的に変わるから」「目が見えない身体か、耳が聞こえない身体か。どちらか一つを選ばなければいけないとしたら、私なら盲目のほうがいいな」「あなたの手話通訳者ってものすごく才能あるよね」「神様にお祈りしなよ。きっと聞こえるようにしてくれるから」「どうして手話は1 種類じゃなくて何種類もあるわけ? バカみたいなシステムだよね」
CHRISTINE SUN KIM, “SHIT HEARING PEOPLE SAY TO ME,” 2019, CHARCOAL AND OIL PASTEL ON PAPER, COURTESY OF THE ARTIST AND FRANÇOIS GHEBALY,LOS ANGELES, NEW YORK. PHOTO: PETER HARRIS STUDIO
アート界にはびこる健常者中心主義を、業界自体が認識するまでには、かなり時間がかかった。それでも今、美術館やギャラリーは以前と比べて、障害のあるアーティストたちの作品ともう少し本格的に関わろうとしている。今年2 月にはホイットニー美術館が、ベルリンを拠点とする44歳のアメリカ人アーティスト、クリスティーン・サン・キムの回顧展を館内の複数階のフロアを使って開催した。キムは生まれつき聴覚障害があり、手話を使うろう者で、音声が「ソーシャル・カレンシー」(註:人間関係や社会において個人が得る信頼や影響力)としてどのように機能しているのかを作品にしている。たとえば、音符がすべてこぼれ落ちてしまった楽譜のように見えるドローイング作品や、とんでもない場所に音符が飛んでいってしまった五線紙を描いた壁画など、ユーモラスな作品が彼女の持ち味だ。
キムはホイットニー美術館の教育部署で2007年から2014年まで職員として勤務していた。その間に彼女は、教育関係者として働くろう者や、アメリカ手話の通訳者らがガイドとして客を引率する月2 回の館内ツアーを企画し、実現させた。また、最近ではアートと障害の関係を掘り下げた展覧会『Sick Time, Sleepy Time, Crip Time(病気のとき、眠いとき、クリップなとき)』(註:クリップとは障害のある人々が独自のペースを尊重すること)が2016年から2020年まで全米のさまざまな会場で繰り返し開催されてきた。さらに2021年には『Crip Time』と題された展覧会がフランクフルト現代美術館で開催され、40人以上の現代アーティストたちの作品が展示された。また、1960年代から現在までの障害に関わる題材を探究する『For Dear Life』という展覧会が2024年にサンディエゴ現代美術館で行われた。そこでは、カルの作品《The Blind(盲目であること)》がグリゲリーの作品と並んで展示された。

振付師のジェロン・ハーマン。マンハッタンのムーブメント・リサーチのリハーサル会場で2025年7 月2 日に撮影
美術館という施設に平等にアクセスする権利を最も辛抱強く訴え続けたのは、障害のあるアーティストたち自身だった。彼らの情熱の原動力は、同じく障害のある仲間たちに自分たちの作品を観てもらいたいという強い思いだ。2019年にはキャロリン・ラザードやジェロン・ハーマンやその他の仲間たちが「どこでも君と一緒にいたい」という名の集団を立ち上げ、障害者による障害者のためのパフォーマンスや懇親会を企画し実行した。ハーマンいわく、このグループは常にさまざまな形でのアクセスを模索しているのだという─アメリカ手話による通訳や、イメージを伝達する方法や、スロープの設置など――単なるネットワーキングに終わらない具体的な解決方法を求めて。たとえばハーマンが2023年に披露したパフォーマンス《LAX》では、自分の身体の動きと音声の両方で、緊張や不安(「彼は緩急のあるステップを小刻みに踏む」)と弛緩(「彼は湿地帯の草原で平安を見つけた」)を交互に表現した。その瞬間、アクセスそのものが生きた素材となり、芸術を表現するメディアに変容するのだ。
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