ネバダ州の人里離れた人っ子ひとりいない砂漠の真ん中に、前代未聞といえる奇抜な現代芸術作品を打ち立てるのに、アーティストのマイケル・ハイザーは半世紀を費やした。彼はこれから何を創るのか?

BY M. H. MILLER, PORTRAIT BY DINA LITOVSKY, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

※カタカナの人名や施設名表記は、編集部の判断により日本で広く使われている表記を使用しています。

>地の果てに生きる奇才①

彼の不機嫌さや予測不能な行動などもすべてひっくるめたうえで、人々(彼の前妻すらも)は、
彼にひたすら忠実であり続けている。
《City》の建設によって、彼は来訪者が宗教体験に近い経験をすることができる場所を人工的につくりあげた。そしてこの作品を実際に見るということは、不可思議で、まるでこの世から逸脱したような彼の教義に染められていく体験でもあるのだ

画像: ハイザー。2026年1月21日にマンハッタンの彼のアパートメントで撮影。

ハイザー。2026年1月21日にマンハッタンの彼のアパートメントで撮影。

 まるでカウボーイのような、いきあたりばったりに見えるハイザーの人生だが、彼が現在の地位を構築するまでには、実はかなり計算し尽くされた選択をしてきたことがわかる。たとえば、彼は「金にはこれっぽっちも興味はない」と言うが、実は彼はキャリア全般を通して今までずっと、強力な支援者たちに支えられてきた。たとえばロサンゼルス・カウンティ美術館の館長マイケル・ゴヴァンや、ネバダ州代表連邦上院議員を務めたハリー・リード、ニューヨーク・タイムズ紙の建築批評家のマイケル・キメルマンや、ギャラリー所有者のラリー・ガゴシアンなどがそうだ。彼らはみな、ハイザーの牧場で何か重要なことが起きており、幸運に恵まれれば、世界の人々がいつかそれを目にすることができるかもしれないと強く確信していた。ゴヴァンは過去20年間にわたって、ハイザーが《City》を完成させられるように、彼への寄付集めに尽力してきた。《City》の建築総費用は4000万ドル(約64億円)だと見積もられていた。ゴヴァンは2023年に公共放送のナショナル・パブリック・ラジオのインタビューで《City》についてこう語っている。「同じものは決してつくれない。マイクと現地で一緒に作業をしたあとに、絵画が額縁に入って飾られている美術館の世界に戻るのは難しかった。もうそういうものでは、心が完全には満たされない瞬間があった」

 ハイザーはカリフォルニア州のベイ・エリアで育ったが、常に砂漠と密接なつながりを持っていた。彼の母方の祖父はカリフォルニア州政府に雇われた地質学者だった。そして父、ロバート・ハイザーは文化人類学者兼考古学者で、古代の人々が巨大な岩石を当時どのような手法を使って運搬していたのか、などのテーマを専門に研究していた。ハイザー自身はまともに学校に通わなかった結果、高校を中退したが、一般的な義務教育を修了していないことを彼は誇っていた。私が高校の課程はどれぐらい履修したのかと聞くと彼は「質問の仕方が悪いな。『どうしてまったく学校に行かなかったのか?』と聞くべきだよ」と言った。彼は大工としてしばらく働き、美術大学のサンフランシスコ・アート・インスティチュートで授業を受けたが、自分が知りたいことは大学では教えられていないと気づいた。彼はほとんどの時間を父親に連れられてカリフォルニア州やネバダ州の発掘現場で過ごし、それはハイザーのきょうだいも同じだった。ハイザーが19歳のときに、彼らは地質学者のハウル・ウィリアムズ(専門分野は火山岩層の形成)に同行してボリビアとペルーを訪れ、ハイザーは発掘現場のスケッチをしたり写真を撮ったりした。ハイザーはこの旅が「自分の仕事の原点になった」と私に説明した。

 若い頃から彼は「アメリカン・アートの発展のために貢献するという決意を抱いていた」と、1983年にキュレーターのジュリア・ブラウンと対話した際に語っている。ハイザーがアーティストとしてのキャリアをスタートした頃は、米ソの宇宙ロケットの打ち上げ競争が激化し、「ジャンボジェット」の愛称で親しまれた旅客機のボーイング747が活躍した時代で、彼は巨大なスケールのアート作品をつくりたいという希望に燃えていた。1960年代の半ば、21歳の頃にはニューヨークに引っ越し、間もなくアート・ディーラーのヴァージニア・ドゥアンと組んで仕事をするようになった。ドゥアンの祖父は工業コングロマリットの3Mの共同創業者だ。また、ハイザーはアート・ディーラーのリチャード・ベラミーとも組んだ。このベラミーに出資していたのが、高校中退後にタクシー会社経営で富を築いたロバート・スカルだ。ハイザーはスカルのことを「ニューヨークの美術蒐集家としては、まあ3本の指に入るし、金も少しは持っていた」と説明した。ハイザー自身の収入は多くはなかった─当時はほかの皆も大して儲けてはいなかった─だがそれでも、彼はニューヨークは面白い場所だと感じていた。「あの当時、マンハッタンのダウンタウンはかなり居心地がよかった。アーティストたちはまだお互いのことを知らなかった頃だ」とハイザーは私に言った。「それから人々が大勢移り住んできて、その数がどんどん増え、まるで滝のようにどっと人が流れ込んできたんだ」。彼はニューヨークに住むということは「決まり切った都市システム」の一部になることだと次第に感じ始めた。ニューヨークは巨大な生態系であり、個人の力でコントロールすることは不可能だ。「ひとりひとりがニューヨークの発展を助けることはできるかもしれないが、それすら偶発的なものにすぎない」と彼は言った。結局のところ「絶対的な都市システムには遊びの部分や融通が利く余白がない。あらかじめ決められたものを提示されて、それを受け入れるか拒むかしかない。自分の出した結論は、拒否だった」。

 巨大なスケールの芸術作品をつくりたいという彼の衝動は、核爆弾とベトナム戦争という当時の時代背景への強い危機感によって加速したともいえる。「核以降の冷戦時代の緊迫感の中で生きているという感覚は、あらゆることに影響を与えた」と彼はブラウンに語っている。「残された時間はもう少なかった」(ハイザーは何度も軍隊に徴兵されたが、結局は脊椎疾患が原因で陸軍の入隊試験では不合格と判断された)。現代社会の進歩が加速しすぎ、人類全員が殺される可能性すら出てきたとき、文化は崖っぷちに立たされ、もっと根源的な何かに回帰しなければという揺り戻しを生む。「僕たちはテクノロジーが進化した世界と、原始的な世界の両方を同時に生きているんだ」とハイザーはブラウンに語っており、その意識を反映した作品をつくりたかったのだ。1960年代末には、彼はカリフォルニア州やネバダ州に頻繁に旅をするようになった。まるで自分の父親の足跡をたどるように。ハイザーは砂漠で一連の作品をつくったが、そのほとんどは時とともに崩れて土に還った。彼は干上がった湖の底の地面に直接絵を描いたり、窓のように見える穴をくりぬいたり、穴を掘ってその中に岩を置いたりした。ベラミーとドゥアンの助けを借りて、創作に使う重機の数をさらに増やすとともに、彼の野心は膨らんでいった。

画像: 1969年制作のハイザーのセルフポートレート。自身の両手をモチーフにしている。 MICHAEL HEIZER, “SELF PORTRAIT,” 1969 © MICHAEL HEIZER, COURTESY OF THE ARTIST AND GAGOSIAN

1969年制作のハイザーのセルフポートレート。自身の両手をモチーフにしている。

MICHAEL HEIZER, “SELF PORTRAIT,” 1969 © MICHAEL HEIZER, COURTESY OF THE ARTIST AND GAGOSIAN

 第二次世界大戦後に台頭してきた彫刻家たちのほとんどが、ハイザーから影響を受けたり、彼に世話になったりしている。リチャード・セラの鋼板をねじった形状の彫刻作品にはハイザーの影響が見られるし、当時ランドアートを手がけていた主要な芸術家たち─ウォルター・デ・マリアやロバート・スミッソン─を最初に砂漠に連れて行ったのもハイザーだ。それでも彼は現代アートの中で独自のジャンルを打ち立てていた。彼の作品は一種のプロテストアートではあったが、ある特定のトピックを直接的に描くことが多かった当時のほかのアーティストたちとは、手法を異にしていた。彼が異議を唱えたのは、現代社会の生活の日常そのものだ。たとえば、朝起きて仕事に行かなければいけないことや、他人と共存しなければいけないことすべてに、抵抗を示していた。「僕は政治的なアートはやらない」と彼は私に言った。「僕はごく単純で原始的なアートの定義を信じている。自分が洞窟に住んでいる原始人だとして、洞窟の前の石の上に座っていると想像してみる。とりたててやることは何もない。ふと手に取った石を削り、ほかの石の上にこすりつけてみる。洞窟の中に入ると、たき火の中から灰をひとつかみ手に取って、壁に水牛の絵を描いてみる」

 彼は暴力的な対比を好む。たとえば巨大な物体に対し、物質が一切ない空間。砂漠の中で岩が山と積まれた横にぽっかり空いた溝。凸と凹。「彫刻をつくる場合、普通は足し算でものごとを考える」と彼は言う。「空間を確かな形のある物体で埋めて、その物体が周囲の空間やほかの物体と関係を構築するように仕向けるわけだ。でもそれとは別のやり方だってできるんだ。それが引き算だ」。当時彼が手がけていた最も重要なプロジェクト《Double Negative(ダブル・ネガティブ)》の建設資金を提供したのはアート・ディーラーのドゥアンで、ハイザーはネバダ州でこの作品を1969年の2カ月間ほどで完成させた。少人数の作業員とエンジニアを率いて、彼はダイナマイトと建築機材を使って二つの溝を掘った。それぞれの溝の寸法は幅約9 m、深さ約15mだ。ラスベガスから約112㎞の距離にあるモアパ・ヴァレーの近くのヴァージン川を望む、モルモン・メサと呼ばれる崖の横腹に、この二つの溝を掘り込んだのだ。この作品は、砂漠を挟んで二つの巨大な開口部が向かい合っているような位置関係にある。二つの溝の間にエンパイア・ステート・ビルを横にして置くと、すっぽり入ってしまうぐらい二点の距離は離れている。ハイザーは当時25歳で、映画『欲望という名の電車』(1951年)に出演した頃のマーロン・ブランドに容貌が似ていた。《ダブル・ネガティブ》の建設が完成すると、彼とドゥアンはラスベガス大通りにあるインターナショナル・ホテルでエルヴィス・プレスリーのショーを観て祝った。

《ダブル・ネガティブ》を実際に見るために、人々はあらゆる手段を駆使した。ファッション・デザイナーのリック・オウエンスは、まず車で現地に行こうとしたがたどり着けず、ヘリコプターをチャーターして空中からできる限り近づいて鑑賞した。《ダブル・ネガティブ》の場所を示す標識は一切なく、簡単に近くまで運転できる道も存在しない。私は周辺の道を知り尽くした運転手のブレント・ホルムズに連れて行ってもらった。彼はハイザーが所有する財団で働くアーティストでもある。それでも、道中ではかなりの危険を感じた。ホルムズが運転するスバルのハッチバック車のトランスミッション部分に路上の岩石がゴツンとあたるたびに、私たちふたりは顔をしかめた。
《ダブル・ネガティブ》はある意味、1960年代のカウンターカルチャーの最後のきらめきを反映した作品で、環境保護運動が急速に台頭する時代の幕開けを予感させた。大地をダイナマイトで破壊することで、彼は、人々を刺激し、自然環境の美しさへの関心を結果的にかきたててしまったのだ。「ちょうど地球に回帰しようという動きが高まっていた頃だった」とハイザーは言う。「ヒッピー文化への回帰だ。麻薬を吸って、キャンプして、ハイキングするっていうやつだ」。彼はしばし沈黙したのちに自ら認めた。「僕はヒッピーだった」

 彼は作品づくりにおいて、リチャード・セラやカール・アンドレのようなミニマリストの現代彫刻家たちと同じように、数学的な正確さを実現することをめざし、妥協することはなかった。ハイザーはポップ・アーティストが商業広告を作品づくりに取り入れるのと同じように、砂漠を出来合いの素材のひとつとして扱っていた。たとえばアンディ・ウォーホルが1964年にドゥアンが所有するロサンゼルスのギャラリーで発表したブリロ・ボックスの彫刻のように(ハイザーは私のそんな比較を斬り捨てた。「僕の作品づくりには、出来合いのものなんてひとつもない」と彼は言った。「岩ひとつ扱うのにかかる作業だって、とんでもなく膨大なんだぞ」)。

 ハイザーが制作するような作品を手がけたアーティストは、彼以前にはほとんどいなかった。ハイザー自身は、現代美術の分野では、建築家兼彫刻家のトニー・スミスが鉄材で制作した巨大な抽象作品から影響を受けたと語ってはいるが。ハイザーが作品を完成させたあと、作品をいかに保存しているかという点も一般的にはほとんど理解されていない。ハイザーは《ダブル・ネガティブ》は自然に晒されて風化し、年々「劣化」しつつあると言った。ロサンゼルス現代美術館、通称MOCAは、1985年にドゥアンから《ダブル・ネガティブ》を購入してそれ以来所蔵しているが、「彼らは何の手も施していない」とハイザーは言った。彼はエンジニアを雇って「建築が完成したばかりの頃の状態に戻したい」と言い、溝の内側に詰まった余分な瓦礫を取り除いて「溝の内側が、あたかも鋭角なクリスタルの結晶で覆われているかのように見える構造」を取り戻したいのだと語った。(MOCAにメールを送ると、同館から返事がきて次のように書かれていた。「1985年に当館がこの作品を購入したとき、我々はこの作品がこの先自然に風化することは必至だと理解していた。最近、この作品の制作者と彼の財団から保存方法について当館に連絡があった。今後も我々は彼らと話し合いを継続していく」)「作品を保存するのはそんなに難しい工程じゃない」とハイザーはなおも続けた。同時に彼はこう感じてもいた。「自分にはほかにやることがある。すべてを自分でやることはできない」。彼はこの作品の制作にこぎ着けるのに数多くの障害を乗り越えてきた。「でもこの作品が、ほかの誰かに保存活動をしてもらえるほどの尊敬を集めることができないのであれば、結局、そういうことなんだろう。無視されるなら、朽ち果てていくのが運命だ」

 彼が自己憐憫に浸るのはそれほど珍しいことではないが、同時に彼は《ダブル・ネガティブ》が自分のキャリアの転換点だったことも理解している。あの作品を境に、彼はほかのアーティストたちとはまったく違う次元で活動することになった。彼のライバルはストーンヘンジやブルックリン橋になったのだ。《ダブル・ネガティブ》が完成すると間もなく、彼はガーデン・ヴァレーの広範囲の土地を購入し始めた。

 車窓から見るラスベガスの景色が、いきなり荒涼とした砂漠の風景に変わった。州間高速道路15号線を北上し、国道93号線を走り、世界最大規模の廃棄物処理場であるエーペックス・リージョナル・ランドフィルを通りすぎると、その先の約160㎞の道中はほとんど何も見るべきものはなく、やがて人口約800人のアラモの町に着く。そこにはハイザーが1998年に設立したトリプル・オート財団がある。この財団には投資家のパトリック・ラナンが資金を支援し、後年にはホテル経営者で億万長者のエレイン・ウィンも支援者に加わった。この財団が《City》を所有して管理するとともに、外からの訪問客を文明世界からかけ離れたあの場所へ連れて行き、再び迎えに行くという面倒な役目も日々こなしている。アラモの町のトリプル・オート財団のオフィスのすぐ隣にはクリスチャン・バイブル・フェローシップ教会がある。《City》を訪れる参加者は全員、誓約書に署名をする必要がある。「虫や蜘蛛や蛇にかまれたり、牛や馬やその他の野生動物に襲われる危険性があり……街や医療へのアクセスからは隔絶されている」ため、ケガを負ったり、最悪の場合は死もあり得ることを事前に承諾する必要がある。財団は、ハイザーの3人目の妻で、彼のスタジオで何十年も働いていたメアリー・シャナハンと、キュレーターで2029年にオープン予定のラスベガス美術館の館長を務めるヘザー・ハーモンが共同で運営している。この財団で私は71歳の運転手、エド・ヒグビーと出会った。彼も牧場主で、人生のほとんどをネバダ州で過ごしてきたという。彼の運転でアラモから48㎞ほど走る道中で、唯一見つけた目印が、道の分岐点に立てられた「エクストラテレストリアル・ハイウェイ」(註:地球外生命体高速道路の意。州道375号線で未確認飛行物体の目撃情報が多かったため、UFO愛好者たちの聖地と呼ばれている)と書かれた標識だった。その場所から、ハイザーの牧場があるガーデン・ヴァレーに続く長い砂利道が延びている。彼の「寝坊牧場」には現在28頭の牛と4頭の山羊、さらに4 匹の猫に加えて、ヒグビーの弁によれば「とことん甘やかされた5匹の犬」がいる。この牧場は太陽光パネルによる自家発電で稼働しており、入り口には門の形をした巨大なガントリークレーンがあり、そこから大きな岩石が垂直にぶら下がっていた。さらに従業員たちが寝泊まりできる、日干し煉瓦づくりの小屋もあった。ハイザー自身が住んでいる家は小さくて質素で、彼が鉄道レールの下に敷かれていた枕木を再利用してつくった家具が、いたるところに置かれていた。ハイザーはオフィスの中に「ジーン・オートリーの行動訓」のコピーを貼っていた(註:ジーン・オートリーはカウボーイ姿で歌った俳優・歌手として有名)。それは牧場での生活規範を示したもので、「カウボーイは相手を決して不当に搾取してはならない─たとえ相手が敵であろうと」や「カウボーイは決して信頼を裏切ってはならない」といった言葉が並んでいた。

 牧場の入り口の門から《City》のゲートまでの距離は約108mある。当初、ハイザーはまず東端の部分から建設を始め、コンクリートと泥を使って台形柱の建築物をつくり、《Complex One(コンプレックス・ワン)》と名づけた。それは、かつてハイザーの父親がグアテマラやルクソールで発掘していたであろう遺跡のような形をしている。ハイザーはこの作品を「驚くほど原始的だ」と称し、爆風から身を守る盾や遮蔽物になぞらえて、「地震が起きても」耐えられるようにデザインしたと語る。この《コンプレックス・ワン》から約1.6㎞離れた西端には、別の主要な建築物《45°, 90°, 180°》が存在する。《City》全体を見渡すと、土や泥が盛られた丘部分と溝部分が交互に配置され、それぞれの空間がコンクリートの曲線で縁取られている。その曲線の存在によって、ハイザーが意図した幾何学的なデザインがより際立つと同時に、《City》全体がまるで複数の曲線で描かれた線画のようにも見える。彼は平らだった砂漠をなだらかで丸みのある丘陵地に変えた。《45°, 90°, 180°》はまるでパズルのような複雑な形をした巨大な構造で、長さは約73m、幅が約22m、高さは最高で約8 mもある。ハイザーいわく、参考にしたのは、メキシコのマヤ文明時代の遺跡、チチェン・イッツアにある球戯場だそうだ。《City》の中を実際に歩いてみると、大昔に滅びた古代文化の片鱗にしばしば出合う。そして、その神秘が完全に解き明かされないまま漂っている感じがする。実際にここを訪れてみてはっきりわかったが、彼には芸術面での後継者はおらず、この種のとてつもなく野心的な作品を手がけ、やり遂げようとする者は彼のほかに誰もいない。こんな作品を建設してしまうほどクレイジーなアーティストに、私たちが生きているうちに巡り合える可能性は一度あるかないかだ。
《City》体験でまず最初に気づくのはその静けさだ。どこまでも完璧な静寂に包まれており、土の上に響く自分の靴音を聞いていると、ふと、自分の後ろを誰かがつけてきているのではと感じるほどだ。実際には誰もいないのだが。空中に浮かんでいる太陽の位置が変わるにつれて、影が動く音まで聞こえるような気がするほど静かだ。だが、一番驚かされたのは《City》に注ぎ込まれた人々の善意の量だった。人里から完全に隔絶されたこんな地の果てには、多くの見知らぬ人々の助けなしにはたどり着くことすらできなかった。たとえば運転手たちや、牧場の従業員たち、さらにトリプル・オート財団の職員たちなどがそうだ。その意味では、ハイザーは決して人づき合いに精を出すタイプではないにもかかわらず、確かなコミュニティを形成してきたといえる。彼の不機嫌さや予測不能な行動などもすべてひっくるめたうえで、人々(彼の前妻すらも)は、彼にひたすら忠実であり続けている。《City》の建設によって、彼は来訪者が宗教体験に近い経験をすることができる場所を人工的につくりあげた。そしてこの作品を実際に見るということは、不可思議で、まるでこの世から逸脱したような彼の教義に染められていく体験でもあるのだ。彼は偉大なアメリカの記念碑を建てたことになる。それはある特定の場所や人物(ハイザー自身すらも含まれる)を称賛するための記念碑ではなく、《City》のようなものがこの世に存在しうるというアイデアそのものを讃えるための記念碑だ─つまりそれは、一生懸命に働けば、厳しい自然環境やどんな人的・物的困難に遭遇しようとも、夢は実現しうるのだという概念でもある。

 ニューヨークの彼のアパートメントで、私は彼に、《City》がついに完成してほっとしたかと尋ねた。すると彼は「あれはまだ完成してはいない」とすかさず反論して私を驚かせた。「まだ続行中だ。毎日やらなければいけないことや、解決しなければいけない問題があるんだ」。彼はネバダ州にいられないことでそわそわしているようだったが、現地にはこの先何度も行くことはできないだろうという現実を受け入れつつあった(「自分が現地と往復するのは、これが恐らく最後になるかもしれない」と彼はあるときつぶやいた)。今、彼は遠隔操作で作品を監督しなければならなくなったのだ。《City》内の境界線の曲線部分の何カ所かは未完成で、土や泥が盛られた部分はメンテナンスが必須で、キッチンとトイレと浄化槽を完備した管理用の小さな建物を建設する計画もある。「人がとりあえず生存できるような過疎地の駐在所だ」と彼はその建物のことを説明した。彼の牧場のマネジャーを務めるシェーン・マクベイは、元は金融機関のHSBCのアナリストだったが、ハイザーに出会って生き方を変えた。マクベイは《City》の来場客が帰るたびに、彼らが残した足跡をわざわざ掃いて消し去るほど徹底的に管理していた。
「そんなことしなくていいってシェーンに言ったんだ」とハイザーは言った。「そんなに完璧に管理する必要があるのかと。現実感があることが大事なんだから」

 ハイザーが言う「細部の仕上げ」や「微調整」は今後何年もの間続くのだろうし、もしかしたら永遠に終わらないのかもしれない。たとえ約4023㎞の距離を隔てていようと、彼は自分自身の大部分をあの砂漠に置いてきたようだ。本当の意味で彼がすべてを手放すことは、生きている限り、不可能なのかもしれない。「あれが自分のホームだ」とハイザーは言った。「自分が生きている場所は、あそこなんだ」

▼あわせて読みたい

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.