日本にル・コルビュジエの作品はたったひとつしかない。だが、日本のモダニズム建築の多くは、ル・コルビュジエから始まったと言っても過言ではない。そこには、ル・コルビュジエの思想と日本人のアイデンティティとを融合させようとした建築家たちの苦闘の歴史が刻まれている

BY NIKIL SAVAL, PHOTOGRAPHS BY ANTHONY COTSIFAS, TRANSLATED BY FUJIKO OKAMOTO

画像: ほかの写真をみる ル・コルビュジエが設計した、東アジアで唯一の建築作品。いたって控えめな外観の〈国立西洋美術館〉(1959年竣工・東京)

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ル・コルビュジエが設計した、東アジアで唯一の建築作品。いたって控えめな外観の〈国立西洋美術館〉(1959年竣工・東京)

 その建物は決して壮大な建築として声高に存在を主張しているわけではない。東京の最北端、江戸の面影を残す上野に、比較的小さなコンクリートの箱が細い柱に支えられて建っている。公園の中でひときわ目立つ灰色の大きな広場は、入場者を厳粛な気持ちにさせる。建物に近づくにつれ、正面に広がるフラットな空間から一転、小石をぎっしりと埋め込んだコンクリートパネルの外壁へと視線が導かれる。中心からはずれた位置に突き出るように設置された階段には、“芸術の殿堂”へと昇っていくという象徴的な意味が込められている。この建物こそ、1959年に竣工した〈国立西洋美術館〉である。そしてじつに信じがたいことだが、これはル・コルビュジエの名で知られる建築家シャルル=エドゥアール・ジャンヌレが設計した、東アジアで唯一の建築物でもある。

 この建物の無機質な見た目の内側には、独特の人間味ある個性がさりげなく隠されている。たとえば2階の展示室へ上がる通路は、コルビュジエ建築の特徴的なスロープだ。〈国立西洋美術館〉は20世紀初頭に活躍した実業家、松方幸次郎が19世紀後期のフランス絵画を中心に収集したコレクションを収蔵するために建設された。設計を手伝った3人の日本人建築家─坂倉準三、吉阪隆正、そしてなかんずく前川國男は、のちに台頭する日本モダニズム建築の巨匠として崇拝される存在となった。パリのル・コルビュジエのもとで学んだ3人は、早くからル・コルビュジエの理論を提唱していた。日本においてはこの3人が建築界をリードする役割を担い、そしてそれぞれの弟子たちが、ほかの建築様式に対するモダニズムの優位性を確固たるものにしていったのである。

 ここで紹介するのは、今まであまり知られてこなかった物語だ。ケネス・フランプトンの『Le Corbusier: Architect of the Twentieth Century(ル・コルビュジエ:20世紀の建築家)』やチャールズ・ジェンクスの著作『Le Corbusier and the Continual Revolution in Architecture(ル・コルビュジエと建築の継続的な革命)』、ニコラス・フォックス・ウェーバーによる信頼性の高い伝記など、ル・コルビュジエの生涯や作品に関する書籍に目を通してみても、ありふれた説明がほんの少しあるだけで、国立西洋美術館やル・コルビュジエと日本の関係に関する記述はいっさい見あたらない(一方、ジョナサン・レイノルズの先駆的論文「前川國男と日本のモダニスト美学の台頭」には、建築物としての〈国立西洋美術館〉に関する詳細な記述がある)。

このようにル・コルビュジエと日本の関係が語られていないことこそ、ル・コルビュジエの影響力の大きさを隠蔽(いんぺい)するものであり、(遠回しにではあるが)日本のモダニズム建築家、もっと言えば日本の建築界に、ル・コルビュジエのプロジェクトに対する不安がくすぶっていたことの証しだと言える。

 前川やそのほかのモダニズム建築家がまだ何の作品も発表していない頃から、建築界にはこうした不安がすでに見てとれた。1929年、月刊建築誌『国際建築』は2号連続でル・コルビュジエの作品に関する特集記事を組んでいる。5月号にはル・コルビュジエに関する記事が15本も掲載され、6月号では英語圏の評論家やル・コルビュジエ自身の著作の邦訳など11本の記事が紹介された。

ル・コルビュジエは当時、新進気鋭のモダニストとして建築理論(1929年時点では未邦訳)を発表して注目を集めていた。また、パリのアトリエを拠点にして発表した建築作品は、比較的規模は小さいものの世間をかなり当惑させるものだった。ほかのモダニズムの建築家同様、ル・コルビュジエは建築技法をいくつかの主要な要素にまで単純化しようとしていた。ル・コルビュジエが建築にもたらしたその革新的な変革は、彼の設計した建築物にはっきりと表れている。

なかでも、パリ郊外の〈サヴォア邸〉(1928〜1931年建設)では、ル・コルビュジエの提唱する「近代建築の5原則」が完璧な形で具現化されている。中央の空間を建物の荷重を支える構造から解放した(その結果、構造のための壁を考えることなく自由に部屋を配置できる)「自由な平面」(フリープラン)で、コルビュジエは鉄筋コンクリートの柱梁構造による優れた技術をダイナミックに披露した。彼の圧倒的に明快な主張、印象的な名言をちりばめた魅力的な文体、そしてすでに世界的に勢いを増していたモダニズムの波によって、日本の新世代の建築家たちにコルビュジエが与えた影響は計り知れないものだったろう。

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ル・コルビュジエの設計した〈国立西洋美術館〉の内部

 とはいえ、その影響は、圧倒的な矛盾を抱えた状態でしか感じられない類のものだった。建築家の谷口吉郎は、ル・コルビュジエを受け入れる日本人建築家の内心をわかりやすく説明した。「このル・コルビュジエという男は自分の心をわしづかみにし、圧倒して離さない。それはいったいなぜなのか?」――彼は『国際建築』のシンポジウムへの寄稿でこう自問している。谷口のこうした反応は、その後、数年間の日本のモダニズム界を特徴づける深い矛盾を示している。すなわち、当時日本の建築家たちには、世界的に建築のモダニティとみなされているものを採り入れたいという思いと、漠然とながら一般に「日本的なもの」をにじませる手法や、木の梁や勾配屋根といった伝統的な日本の建築技法など、日本的であると広く考えられてきた感覚を失いたくないという相反する気持ちがせめぎ合っていたのである。

こうした「日本的なもの」を巡る論争自体が、ある意味で西洋から持ち込まれたと言ってもいいだろう。そもそも19世紀半ば頃から、ヨーロッパの印象派、アールヌーヴォーのアーティストや建築家のあいだでは、葛飾北斎や歌川広重の木版画や屛風、象牙の薬箱など、日本のモチーフを採り入れた「ジャポネズリー」と呼ばれる日本趣味が流行していた。そうした西洋の流れを受けて、「日本的なもの」に対する日本人自身のイメージも変容してきた。建築家の磯崎新が自著『建築における「日本的なもの」』の中で指摘したように、日本趣味を形容するのはたとえば「単純さ」「素朴さ」「純粋さ」「軽さ」「しぶさ」であり、それが「日本的なもの」の指標となっていた。磯崎は続ける。「それが『日本的なもの』だと認定されるようになったのはそんなに古いことではない。(中略)いいかえると、近代建築は『日本的なもの』という問題構制を組みたてながら、日本にはいってきた」

 ル・コルビュジエはインドの都市チャンディーガルの都市計画マスタープランの立案に携わり、その模倣者たちがカンボジアやスリランカでも彼のビジョンを追求したが、最も積極的にコルビュジエイズムを採り入れようとしたのは日本だった。ル・コルビュジエの人を惹きつける魅力は、同時に、人をはねつける部分でもある。それは伝統から切り離された形式主義や、設計の再現性、その時代の技術革新を建築で見せる決意といったものだ。日本の建築を考えるとき、ル・コルビュジエは必ずしも最初に思い浮かぶ名前ではない。だが、日本のモダニズム建築の軌跡を理解するうえでは、ル・コルビュジエは最も重要で象徴的な建築家だと言えるかもしれない。

 先日、東京を訪れた際に筆者が滞在した〈国際文化会館〉は、国内外の研究者や文化人の交流を目的とした会員制の宿泊施設だ。1955年に前川國男を中心として、坂倉準三、吉村順三らの共同設計により完成した。富裕層が多く住む麻布十番とネオン輝く六本木のあいだに位置しているためか、この建物には静寂と明るさが同居している。本館のバルコニーは中をくりぬいた箱のようなコンクリートブロックの手すりが重厚感を漂わせ、庭に面した部屋には障子から柔らかな光が差し込む。壁の一部に大谷(おおや)石が使われたロビーにはティーラウンジがあり、床から天井まで届く窓から日本庭園が見渡せる。

古いものと新しいものを両立させようとする建築家たちのたゆまぬ試みを、前川ら3人のコルビュジエイズムの継承者が形を変えて実現させたのがこの建物だと言えるだろう。そういう意味では、吉阪隆正の〈大学セミナーハウス〉(1965年)も同列に挙げられる。地面に突き刺さる逆三角形のコンクリートは、一見して先端技術の気配と古めかしい外見とが共存している。ぼんやりと脳裏に浮かぶイメージは、廃墟や村落に打ち捨てられたコンクリートの基礎構造だ。

画像: ほかの写真をみる 東京西部にある〈大学セミナーハウス〉(1965年竣工・八王子)の外観。パリのル・コルビュジエのもとで学んだ吉阪隆正の設計による

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東京西部にある〈大学セミナーハウス〉(1965年竣工・八王子)の外観。パリのル・コルビュジエのもとで学んだ吉阪隆正の設計による

画像: ほかの写真をみる 〈大学セミナーハウス〉の室内

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〈大学セミナーハウス〉の室内

 ル・コルビュジエのモダニズムのどんなところが日本の建築家たちを惹きつけたのか? 日本の建築には、ヨーロッパからほぼ隔絶した状態で何千年にもわたって発展してきた、ほとんど途切れることのない伝統があったというのに。じつのところ、ヨーロッパであれ日本であれ、モダニズムが浸透した国において、いわゆる“モダニティ”を政治的および経済的な側面から見た場合、モダニズムに対する反応には温度差があった。そして、旧態依然とした封建的な伝統への回帰を望む人々によって、モダニズムの影響力は後退していく。

歴史学者アーノ・マイヤーは1981年に発表した『The Persistence of the Old Regime(旧体制の存続)』の中で、次のように明らかにしている。「資本主義は“創造的破壊”をもたらした。しかし、ほとんどの西欧諸国は第一次世界大戦、その後の革命、そして第二次世界大戦によって破滅的惨事に見舞われるまでは国民の大部分が農民であり、国の富の大半を支配する貴族の地主に搾取されていたのである」。あらゆる芸術におけるモダニズムは、こうした土壌から発している。人々は過去の文化や慣習を失うことだけでなく、逆説的ではあるが、その頑固な支配力がなくなることにも不安を覚えるものだ。モダニズムの技法に表れているのは新たな自信ではなく、旧体制の美学から脱却しようとする激しい心の葛藤だった。モダニズムというプロジェクトは最初から、こうした気持ちと行動の矛盾をはらんでいたのである。

PRODUCER:AYUMI KONISHI (BEIGE & COMPANY). PHOTOGRAPHER’S ASSISTANT: CALEB ANDRIELLA

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