70年以上前、デザイナーのオズヴァルド・ボルサーニは、ミラノ郊外に家族のための邸宅を建てた。それは、ひとつの時代の枠にとらわれないデザインだった。そして今、その建物は、イタリアのモダニズム・デザインがたどってきた山あり谷ありの道筋と、その底力を物語る生きた証しとして存在している

BY NANCY HASS, PHOTOGRAPHS BY MIKAEL OLSSON, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 1985年に死去したオズヴァルドは、イタリアのモダニズム主義の世界において、これみよがしに主張するタイプではなかったが、確かな存在感がある偉人だった。同時代の建築家のジオ・ポンティほどの知名度はなかったものの、文化的にはポンティと同程度の影響力を持っていたかもしれない。オズヴァルドは1930年代に勃興したラショナリズム(合理主義)運動の推進者のひとりでもあった。第二次世界大戦前の1920年代ごろから、ミラノの芸術家たちの間でイタリア古典主義の伝統に回帰することを提唱するノヴェチェント(1900年代)と呼ばれる運動が広がっていたが、ラショナリズムは、それとはまったく異なり、シンプルさを追求した運動だった。オズヴァルドは自作の家具を大量生産する手法に興味があり、それと同じぐらい、再生のきかない一期一会のデザインを生み出すことにも関心があった。この点で、彼は同時代に活躍した職人技一筋のアーティストたちとは一線を画していた。

画像: 中庭は一部分が壁で囲まれており、その壁にはルーチョ・フォンタナが陶器で製作した飾り板が埋め込まれている。また、壁に空いた四角い穴から、庭の景色が額縁で切り取ったように見える

中庭は一部分が壁で囲まれており、その壁にはルーチョ・フォンタナが陶器で製作した飾り板が埋め込まれている。また、壁に空いた四角い穴から、庭の景色が額縁で切り取ったように見える

オズヴァルドは、父のガエタノがバレドでカスタム品を創る木工工房を営んでいたため、同地を拠点に活動した(ガエタノは工房に隣接した土地を買い、オズヴァルドがそこに家族のためにヴィラ・ボルサーニを建てられるようにした)。1940年代後半から、オズヴァルドはアール・デコとモダニズムの風合いを加えた住宅デザインを手がけた。彼の顧客には羊毛業で巨大な富を築いたエルメネジルド・ゼニアなど、当時のイタリアで勢いがあった産業の担い手たちがいた。だが、年月がたつうちに、オズヴァルドはもっとモダンで革新的なフォルムに惹かれるようになっていく。当時のミッドセンチュリー・モダンの、磨きぬかれた木材を使ったミニマリズムに対して、彼は、黒いほうろう加工を施した鉄やゴムなどの材料を使って椅子やソファをデザインすることで、新風を吹き込んだ。また、1956年から「P32」アームチェアなどを発表し、いわゆる“調節可能な家具”を手がけた先駆者となった。この椅子は、座席部分の下に見える金属製の構造が軸となり、自動的に回転して元のポジションに戻るようになっている。

画像: 2階のスタジオには、オズヴァルドが作った「P126」チェアと「L150」ベッド。さらに1956年のプロジェクトのために製作された机の上に、古代ギリシャ時代の銅像が乗っている

2階のスタジオには、オズヴァルドが作った「P126」チェアと「L150」ベッド。さらに1956年のプロジェクトのために製作された机の上に、古代ギリシャ時代の銅像が乗っている

 さらに重要なのは、彼はそれらの手作り家具を大量生産する方法を自ら生み出したということだ。1953年に、オズヴァルドと彼の一卵性の双子のフルジェンツィオのふたりはテクノという名の会社を創設し、1962年にはかつて父親の木工工房だった場所に巨大な工場を建設した。生産と流通のすべての過程を把握し、当時まだ、グラフィックのアイデンティティを統一するという考え方自体がまったく主流ではなかった時代に、その手法をいち早く導入した。テクノ社の丸みのある「T」のロゴが雑誌広告の形で至るところに印刷され、兄弟は、1970年代のオフィスデザインの覇者となった。オズヴァルドはノーマン・フォスターやガエ・アウレンティなど著名な建築家たちに家具のコレクションや収納システムのデザインを担当させ、その作品を、パリやシカゴ、東京やブエノスアイレスなど40都市以上のショールームで展示した。イタリア発の家具が初めて大々的に国外に進出した画期的な出来事だった。オズヴァルドの娘のヴァレリアと彼女の夫のマルコ・ファントーニ(トンマーゾとジャコモの両親)がテクノ社の経営に携わり、フルジェンツィオの息子のパオロもそこに加わった。

 ボルサーニ一族は常に忙しく働いた。6階建ての工場は、現場打ち、あるいはプレキャストの鉄筋コンクリートで建てられ、その隣には約743平方メートルの広さの邸宅があり、ふたつの建物の間の境界線は、あってないようなものだった。工場と邸宅の建築は対照的だ。そして、ボルサーニ一族が時代を超えてしなやかに活躍してきたその軌跡は、熟練した職人技と大量生産のふたつが共存しうるということの生きた証しでもある。「彼らはみんな午前中は工場で働いて、顧客や協業者たちと昼食をともにするためにここに戻ってきた」。邸宅のダイニングルームにある、ブラジル産の緑色の縞メノウでできたヴィンテージのテーブルの横に佇んで、トンマーゾは言う。テーブルの周りにはオズヴァルドがデザインした布張りの椅子が並んでいる。「何年もそんなふうにごくスムーズに、物事が進んでいったんだ」

画像: ゲスト用の浴室の壁は、光沢のあるピンク色の陶器製モザイクタイルで覆われている

ゲスト用の浴室の壁は、光沢のあるピンク色の陶器製モザイクタイルで覆われている

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