BY NIKIL SAVAL, PORTRAIT BY NOBUYOSHI ARAKI, ARCHITECTURE PHOTOGRAPHS BY BENJAMIN HOSKING, TRANSLATED BY HARU HODAKA
坂 茂(ばんしげる)について書くということは、現在生きているほかのどの建築家について書くこととも違う。なぜなら、彼の主要な作品の多くは、実際に見たり、体験したりできないからだ。作品が隠された場所にあるとか、行くことが不可能だ、という意味ではない。多くの建築家と同様、彼も数多くの個人住宅を設計してきたし、その多くは個性的で進歩的だ。
彼は日本のスキーリゾートの軽井沢に、合板を用いたプレハブ工法のホテル「ししいわハウス」を造り、フランスのメスではポンピドゥー・センターの分館、「ポンピドゥー・センター・メス」を造った(フランスの建築家ジャン・ドゥ・ガスティーヌとの共同設計で、竹で編んだ中国の帽子に似せた屋根がのっている)。さらにコロラド州の「アスペン美術館」では、カーテンウォールの外側に合成樹脂加工を施した段ボールの格子状スクリーンを配置した。最近完成した静岡県の「富士山世界遺産センター」は、逆円錐型の構造体の半分がガラスの箱に入っており、その上に平らな屋根がのっている。
この建物は清らかな風情を感じさせ、日本の最も著名なシンボルの麓に広がる静かな町に、厳かに建っている。だが、坂の全作品を見渡してみると、このような“普通の”建築物はかなり異質だ。彼の主要な作品は、一時的な仮設の建築物であり、クライアントにとってその施設が必要なくなれば、この世から消滅してしまう運命だからだ。彼のクライアントとは、災害や人災の被害者たちだ。
坂は住宅やビジターセンター、コンドミニアムやタワーもデザインするが、緊急時用のシェルターのデザイナーとして、その名が最も知られている。それは地震や洪水で被災した人々や、暴力や虐殺を逃れてきた人々のための建物だ。それらのために採用したのは、坂のシグネチャーである素材、さまざまな長さや厚さの再生紙の管(紙管)だ。世界中のどこでも手に入る。小さなサイズなら、トイレットペーパーやペーパータオルの芯もそうだ。豊富に手に入るだけでなく、構造的にもしっかりしており、シェルターや住宅、さらに教会の構造としても使うことができる。坂はそんな建築物すべてを自ら造ってきた。
1999年にはルワンダの虐殺で難民となった人々のシェルターを建て、1995年には日本で起きた阪神・淡路大震災の被災者のための住宅を建設し、同じ1995年には富士山の麓に自身のための週末用別荘を造った。自分の別荘を建てたのは、紙管の耐久テストをし、それを日本で建築資材として使えるよう政府の認可を取るためだった。これらがうまくいったことで、坂は紙管を使って神戸に教会を建てることができた。この教会はのちに撤去され、そのまま台湾に運ばれ現地で再建された。彼はしかし、別荘で時間を過ごすことはほとんどない。「週末の休みがないので」と彼は昨春、東京のオフィスでのインタビューで語った。「あの家は全然使っていない」と。
実際に会ってみると、坂はとても落ち着いた人物で、カタログのページをさっとめくって説明する以外には、椅子から立つこともほとんどない。自分の作品について話すときには、質問を予期し、それに対する答えを効率的に提示し、時折少しいらだっているようにも見える。常に全身黒ずくめの服装で、肩幅は広く、身体はがっちりしている。若いとき、ラグビーをしていた名残があるようだ。特徴的な円錐型の髪は少し薄くなってきた。60代前半の年齢になり、彼も、彼自身が現代における人道的な建築家として最もその名が知られ、称賛されていることを自覚している。
彼は2014年にプリツカー賞を受賞した。ライバルたちも遅まきながら、世界中で最も危険にさらされている人々に建築で貢献するという彼の使命に讃同し、彼の後を追いかけるようになった。坂の作品の根底には、他者への思いやりと献身があるが、世界の厳しい現実を反映してもいる。彼の最も重要な建物が存在するところには、災害と死が常に隣り合わせで存在する。建築界というところは、一部のカリスマ的な人物の意見や、博物館のボードメンバーからの献金で物事が決まっていく社会だったが、坂のインスピレーションをかき立てたのは、気候変動や難民の危機、移民の大移動などだった。
坂の成功が意味するのは、建築界の内部が変わっていく可能性だ。建築を使って政治的な目的を達成することから、不可避な危機への解決策(一時的なものでしかないとしても)を打ち出すことへのシフトが起きつつあるのかもしれない。10年以上の間、“スターキテクチュア(世界的に有名なスター建築)”、すなわち建築家と建築物のブランド化に重点を置いてきた建築界だが、次第に社会的な使命としての建築のあり方が問われ始めた。
だが、坂はすでに何十年も前からそうした建築を手がけてきた。彼は、突然サスティナブルな素材に注目し始めた同業者たちを称して「流行だから」と言う。彼は“サスティナビリティ”という言葉は、空虚なバズワードだと認識している。彼は単純に資源の無駄遣いを懸念しているだけなのだという。一時の流行を冷静な目で見るこうした態度こそが、彼を人道的建築家のヒップスター的存在にしているのだ。
人が“かっこいい”と言い出す前から、この分野に夢中だった――坂はそう言いたいのではないだろうか。だが彼は同時に、公共の利益になる作品をつくることに興味を抱いて建築を学ぶ学生の数が世界中で増えていることは、嬉しいことだと語る。これは、人道的な建築物に対する需要が切迫して高まっている今の時代において、建築業界を根本から変えるほどの力をもつ変化といえる。彼は楽観的であると同時に、厳しい見解をもっている。「これから先も、問題は次々に起こるだろう」と彼は言う。「そのひとつひとつを解決していく必要がある。自然災害は発生しつづける。それを止める手立てはない」
何世紀にもわたって海外の影響を受けずにきた日本の伝統的な建築は、どこか隔絶された雰囲気がある。また近代の日本の建築家たちの間では、建築において何が“日本的”で何がそうでないかという点がさんざん議論されてきた。そのような理由から、現代の日本人建築家を、日本古来の伝統という特別な枠の中に押し込めて考えようとする傾向がいまだに根強い。どんな状況であっても、そのような態度には問題があり、坂の作品を理解するのに適した方法ではない。そもそも、彼は日本的な建築家だと解釈されることを拒否している。
「私はここで建築を勉強したことは一度もない」と彼は日本をさして語る。「それに私は東京で、伝統的ではない建物で育ったから」。彼の建築魂に国境はない。もちろん、建築界にはさまざまなインターナショナリズムがあるが、そのほとんどが金銭ずくのものだ。多くの建築家たちはプライベートジェットで移動する富裕層で、世界中のあちこちに、自分を象徴するような建物を、現地の文化に関係なく建てまくる。
だが、坂のインターナショナル・スタイルはそれとはまったく違う。彼が若い頃に受けた建築教育における中心的存在は、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエだったが、それ以外にも多様なグループの建築家たちが活躍していた。アルヴァ・アアルト、バックミンスター・フラーやフライ・オットーがいた。さらに1940年代に始まった南カリフォルニアの「ケース・スタディ・ハウス」を牽引した建築家たちの影響は、坂の作品に最も色濃く表れている。紙管を使ったシェルターは、唯一、坂の象徴的な建築だが、それ以外の彼の作品では、彼固有の特徴はほとんどわからない。たとえば、日光に照らされて輝くアルミニウムのリボンといえば即、フランク・ゲーリーの作品だとわかるような明確なシンボルはない。彼は新しい建物を造るたびに、新しい自分を試しているように見える。
坂が幼い頃は、大工仕事の現場に触れる機会がたくさんあった。両親と暮らした東京の家は木造で、それ自体は珍しくなかったが、頻繁に改築が行われていた。ファッション・デザイナーだった母は、定期的に自宅を増築してお針子さんたちの仕事スペースを確保していた。父はトヨタに勤務していた。坂は家に大工たちが出入りするのをじっと観察していた。「美しい工具を使って彼らがやることを見ていたし、木の匂いを楽しんでいた」と彼は言う。建築家という職業があることすら知らず、彼は大工になりたいと思っていた。中学校の美術の授業で、基礎的な住宅の模型を作る課題があり、そこで自らの才能を発見し、建築というものが大好きだということに気づいた。
彼はたまたま雑誌でジョン・ヘイダックの作品に関する記事を読んだ。ヘイダックはニューヨークにあるクーパーユニオン大学の建築学部の学部長を1975年から2000年まで務めていた。当時、同大学の教師陣にはピーター・アイゼンマン、リカルド・スコフィディオやベルナール・チュミなど錚々(そうそう)たる建築家が名を連ねていた。坂はクーパーユニオンで学びたいと思ったが、同大学は米国外の志望者を受け入れていなかったため、ビザを取得して英語を勉強するためにカリフォルニアに渡り、米国内で建築学校を探した。カリフォルニア大学バークレー校やUCLAなどの伝統的なマンモス校を意識的に避けた結果、南カリフォルニア建築大学、通称サイアークに入学した。同校は新設校で、フランク・ゲーリーやトム・メインなど当時は型破りだった建築家たちが教鞭を執っていた。
サイアークはサンタモニカにある工場の建物を再生させて校舎として使い、学生たちが自ら足場を組んでスタジオを建設した。同大学は1972年に設立され、共同創設者で初代ディレクターを務めたレイ・キャップが「自治を貫く独立した学校組織で、200人の学生と25人の教員が協力して学問の方向性を決める」というビジョンを掲げていた。それが具現化された結果、成績によるランクづけは廃止され、活発な議論が頻繁に行われていた。英国人建築家のピーター・クックが「誰が教師で誰が学生なのか、じっくり会話を聞かないと判別できない」と書いたほどの、徹底してオープンな環境ができ上がった。
そこで坂が何よりも習得したのは、同校に活力を与え、街並みにインパクトを残したカリフォルニア・モダニズム主義の考え方だった。彼が最も感銘を受けたのはケース・スタディ・ハウスだ。プレハブ(組み立て式)工法で造られた36戸の一戸建て住宅の実験プロジェクトのことで、全戸が実際に建てられたわけではないが、ロサンゼルスを中心に1945年に開始された。『アーツ&アーキテクチャー』誌の編集長、ジョン・エンテンザがプロジェクトの発起人で、リチャード・ノイトラ、ピエール・コーニッグ、レイ&チャールズ・イームズたちが住宅のデザインを手がけた。このプロジェクトは、ミース・ファン・デル・ローエ作のトゥーゲントハット邸、ル・コルビュジエのサヴォア邸などのモダニズム初期の住宅に使われたアイデアをさらに発展させようという試みだった。人が生活する住居部分を解放し、部屋間の仕切りや、屋外の景観との境界をなくすような造りだ。
このケース・スタディ・ハウスを通して、坂は日本の伝統的な建築を再発見したのだった。「私の場合、ケース・スタディ・ハウスを通して偶然に日本の影響を受けた」と彼は言う。「ケース・スタディ・ハウスには日本の影響が色濃く出ていた。たとえば日本の伝統家屋のように内側と外側をつなげるところ、素材の使い方や柱梁構造など。素材の革新的な使用法もたくさんあった。それらに魅了されたし、カリフォルニアでの私の建築体験を豊かなものにしてくれた」
坂がバックミンスター・フラーの作品を学んだのも、カリフォルニアだった。フラーは独学でその道を究め、いまだにどんな流派にもカテゴライズされていない、20世紀アメリカン・デザインの天才である。サイアークで、坂とほかの学生たちは「ジオデシック・ドーム」を造るよう指示された。ジオデシック・ドームはフラーが1950年に最初に手がけた地球儀のような球状の構造体で、表面がたくさんの三角形で細分割されている。この形のドームは、ヒッピーの共同体からウォルト・ディズニー・ワールドのエプコットのアトラクションまで、世界中に普及していった。フラーは、最小限の素材で組み立てられ、安価で、わかりやすい形をしたドームが世界の住宅危機問題の解決策になると信じていた。
坂にとって印象的だったのは、新しい構造を見つけようとするフラーの粘り強い探究心と、流行の建築スタイルを頑なに拒否する姿勢だった。フラーと、もうひとり、軽い皮膜状の屋根構造を1960年代に考案したドイツ人建築家のフライ・オットーについて話しながら、坂は言った。「彼らは、独自の建築を造り出すために、当時流行していたスタイルの影響を受けることなく、素材と構造の開発に取り組んでいた」。坂の言葉からは、彼自身にぴったりの定義を探そうという意志を感じることができる。
世界中にその名が知れ渡っている建築家にしては、坂の私生活は地味なものだ。彼と、ジュエリーやハンドバッグのデザイナーである妻との間には子どもがいない。東京の世田谷の一角にある、何の変哲もない慎(つつ)ましやかな3階建てのオフィスビルの事務所で、40人のスタッフが働いている。近所には坂が造った多くの建物がある(彼の事務所でガイドマップをもらった)。この地域を見るだけで、日本の一戸建て住宅がいかに類い稀なほど多様性に富んでいるかがわかる。ひとつひとつの建物が全部違うのだ。
坂の初期の作品のひとつに「羽根木の森」アパートメント(1997年)がある。この建物はまるで森の中にガラスの箱が現れたように見える。細い杭状のピロティに支えられて宙に浮いているかのようだ。建物は木に囲まれており、玄関には鏡とミラーガラスが使われている。その近くには2006年に完成した「ガラス作家のアトリエ」があり、これは「羽根木の森」とはまったく異なる形だ。きわめてシンプルな組み立て式スチール棚を基本構造に使い、青い鉄製のフレームや、玄関の上についているチャーミングな丸窓が、ポストモダン風の馬小屋のような雰囲気を醸し出している。家から家へと歩いていると、統一感はないが、自分の考えを形にする新しい手法を探して、あらゆる方法を試した建築家の足跡を感じることができる。
1980年にクーパーユニオン大学に編入すると、坂はより厳しく、競争の激しい環境に飛び込んだことに気づいた。坂はピーター・アイゼンマンに師事したが、ふたりの仲はうまくいかなかった。アイゼンマンは坂の名前を「難しくて覚えられない」と言い、彼を「シュガーベア」と呼んだと坂は言う。また、アイゼンマンから「君は日本人だからこの理論がわからないんだ。だから君は全然違うことをやっている」というような意味のことまで言われたことを覚えている(アイゼンマンは、ニックネームの件は認めたが、愛着を込めてそう呼んだと語った。もうひとつの発言については、こう言った。「そういう言い方はしなかったと思う。『君は日本人だから、西洋的な概念や西洋的な理論は理解できない』とは言ったかもしれないが。つまり、西洋の学生が日本の概念である“間”を理解するのが難しいようにね。私が言いたかったのはそういうことだ」)。
ふたつの異なる建築スタイルを融合するというグラフティングの概念を学ぶ授業で、坂が作品を持ってくるたびに、アイゼンマンはそれを評価せず、理解を示すこともなかったと坂は言う。さらに坂はもうひとりの教授とも意見が合わなかった。この教授(坂はその人の名前を伏せた)とアイゼンマンは坂の卒業制作を不合格にすることを決め、坂はプロジェクトのやり直しを強いられた(アイゼンマンは、委員会において二人の教授の意見だけで坂が落第になることはなかったと言い、その決断は学部長ヘイダックの意向によるものだったはずだと語る。
アイゼンマンいわく、ヘイダックは「その鉄の手で学校を支配していた」)。クーパーユニオンでの待遇に疲れ果てた坂は、1982年に一年間休学して日本に帰国し、予想もつかない建築スタイルを打ち出す磯崎新のもとで働いた。磯崎は第二次世界大戦中に日本の国土が爆撃され、多くの尊い命が犠牲となったことに思いをはせた建築を手がけていた。磯崎もまた2019年にプリツカー賞を受賞することになった。
坂が日本に戻ったのは、数年間離れていた祖国を改めて知ろうと思ったからだった。「磯崎さんのもとで一年間働いてみて、建築を学んだだけでなく、日本社会を理解する機会を得られた」と彼は言う。そして皮肉なことに、彼は磯崎が日本にいながら、日本以外の国で精力的に作品を造り、日本建築の枠や気風にとらわれることなく、国際的な建築家として活躍していることに感銘を受けた。
クーパーユニオンを1984年に卒業すると、坂は再び日本に戻った。ギャラリーのキュレーターとしてパートタイムで働きながら、最初の自分の建物をデザインした。それは彼の母のためのアトリエで、彼はのちにその建物を自身の設計作業の拠点として改装した。また写真家の二川幸夫のもとでも働いた。二川は『グローバル・アーキテクチャー』誌、通称『GA』を創刊した人物でもあった。その仕事のおかげで、坂はフィンランドを初めて訪れ、そこでミッドセンチュリーのアルヴァ・アアルトの作品に出会った。それは坂にとって人生の転機ともいえる出会いだったが、まったく予期せぬ出来事でもあった。
「クーパーユニオンで学んでいた頃、アルヴァ・アアルトにはまったく興味がなかった」と彼は言う。「あの大学ではいわゆる国際派建築家のル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエが重視されていて、アルヴァ・アアルトはあまり尊敬されていなかった」。たとえばフィンランドの郊外に1939年に建てられたマイレア邸は、白樺の森に囲まれた環境をそのまま活かし、そのモニュメントともなっているL字型の別荘だが、アアルトの作品はこの別荘のように、特に木という一般的な素材と触れ合う官能的な体験が、その魅力の拠りどころとなっている。坂はアアルトの作品を本で学んでいたが、理解するのは難しかった。写真を通して学べる建築家の作品もあるが、アアルトの作品は実際に経験する必要があったのだ。
「彼の作品には文脈がある。つまり置かれた環境や地元のコミュニティ、文化的な背景などが感じられる」と、坂は2007年にデザイン・ビルド・ネットワークというメディアに語っている。「アアルトはクライアントが望む個性的で彫刻的な建物を造りながら、同時に文脈をもたせることも可能だと証明してみせた。周囲の環境を反映させ、自然の素材である木や煉瓦などを使い、デザインの新しい手法を試みることも可能だと」
1986年に坂は東京のAXISギャラリーからアアルトの展覧会場のデザインを依頼された。坂はアアルトが得意としていたベントウッド(曲げ木)のデザインを再現したいと思ったが、木材は値段が高すぎた。そこで坂は紙管で波打つような形のパーテーションを造った。紙は彼が開発し、それまでも繰り返し使ってきたモチーフだった。坂は高校時代に紙の構造モデルを造り、スケッチを描いて東京芸術大学を受験したが、不合格だった。サイアーク時代には紙は安価で手に入りやすいことから、欠かせない素材だった。ギャラリーではディスプレイ用ケースを固定するのに紙管が使われていたが、坂はほかにもいろいろ使い途があると考えていた。紙という素材は目新しいものでは決してない。紙が発明されて以来、科学的な改良が加えられたこともそれほどない。再生材料から作られ、必要なら防火・防水加工も簡単にできるし、使えなくなったら再びリサイクルできる。そして、そんな紙の変哲のなさこそが、坂が驚くべき利用方法を生み出せる理由なのだ。
坂がデザインした富士山世界遺産センターを私が訪れたのは初夏で、その日は激しく雨が降っており、いつもならはっきり見えるはずの富士山が見えなかった(17世紀に松尾芭蕉が、「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」と詠んだ有名な一句がある)。このセンターと、坂が造るほかの作品の傾向や趣向とを比べてみると、驚きを感じる。まず、建物の中心に、逆さになった巨大な「山」がある。これが何を意味しているのかは明確だろう。坂は、現代建築にはつきもののモニュメント的な象徴主義を極力排除してきた建築家だけに、ほかの作品ではこんな表現はしないはずだ。だが、円錐型の構造を覆うヒノキ材でできた格子を見ていると、そこにはフラーの構造への情熱の継承があり、心と身体に訴えかけてくる素材を好む新しいモダニズムが息づいているのがわかる。
批評家たちは坂のシェルター建築を好み、通常、彼の住宅作品には興味を示さない。だが、そんな住宅のひとつひとつが、今も続く彼の実験の過程なのだ。坂は長年、住宅に不可欠だと考えられていた要素を取り除いたり、足したりを試してきた。
1995年に彼は「カーテンウォールの家」を東京に造った。屋根から特大のカーテンを吊るし、文字どおり家を布で包んでしまうのだ。また1997年には長野県の高台に、窓の仕切りや壁を取り払った箱のような「壁のない家」を建てた。部屋を仕切るのにスライドするパネルを使い、究極のオープンフロアのデザインを実現した。坂はこれらを「私のケース・スタディ・ハウス」と呼んだ。「何か実験的なものを造りたかった」と彼は言う。「壁のない家、カーテンウォールの家、紙の家。当時造ったひとつひとつの家に、それぞれ違ったテーマがある」
彼がシェルター建築を手がけるようになったきっかけは、1994年にザイール(現在のコンゴ共和国)でルワンダ人の難民たちが暮らす仮設施設を見たことだった。当時、国連難民高等弁務官事務所はビニールシートとアルミニウムの支柱を難民たちに支給していたが、多くの人々はアルミニウムを売って換金してしまい、テントを支えるために近くの森林から木を切り出し、結果的に森林破壊が起きてしまった。
坂は国連難民高等弁務官事務所に何度か手紙を書き、ジュネーブに飛んだ。そこで彼は組織の首席サイト・プランナーのヴォルフガング・ノイマンに出会った。ノイマンは、紙管を使ってシェルターを造るという坂のアイデアに興味をもち、彼をコンサルタントとして雇った。彼の案はのちにルワンダ北部の難民キャンプで実際に採用された。坂が最初に紙管を災害支援プロジェクトに使った場所は、阪神・淡路大震災で6,000人以上の死者が出た神戸だった。被災者のために、約16m²の面積の小さな住宅をいくつも造った。坂によれば、シェルターひとつあたりの建設材料費は約2,300ドル、施工時間は一日だったという。主にボランティアによって、数週間で約30戸が建てられた。
これらのシェルターは神戸で4年ほど使われたあと、解体され、リサイクルされた。だが同じく坂がデザインし、再生紙で建てられた市内の教会とコミュニティセンターは10年間継続して使われ、彼の作品の耐久性が証明された。また2011年、東日本大震災と津波が起きたあと、彼は東北地方沿岸の女川(おながわ)町で船舶用の輸送コンテナを使って189戸の小さな住宅を建てた。さらに「紙のログハウス」(神戸にも設置された)の土台には、ビール用のケースに砂袋を入れて重しにした。坂は極力“地元の材料”に頼り、現地で手に入る、安価で、使用後にゴミにならないような素材を使用している。
これらの建物は現場で、NGO「ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク」のスタッフによって速やかに建設される。この団体は坂が地元の学生やボランティアの助けを得て、1995年に立ち上げた。当初、ボランティアたちへの報酬は寄付金や坂自身の収入から支払われていたが、現在はプロジェクトによっては公的資金を得られるようになってきた。だが、彼はコストの高い建築プロジェクトの依頼を受けると、支援にも使えそうな新しいアイデアをしばしば現場で試してみる。富裕層のための建築に、あえて安価な材料をあれこれ使ってみて、いざというとき、すべてを失った被災者たちのためにその素材を活用するのだ。
そんなふうに彼は自身のキャリアを通して、紙やその他の安価でサスティナブルで再生可能な材料は、これまで建築界で一般的に使われてきた材料と比べても耐久性に問題がなく、被災者のためのシェルターばかりでなく、実際に美術館のファサードや別荘に使うのに適していることを示してきた。それはある意味、政治的な行動でもある。つまり、階級や経済格差やその他の垣根を崩して平等にしようとする動きであり、それはあらゆる建築家にとって悪夢といえるからだ。だがもちろん、これらの素材も今やブランドになった。「素材と構造を開発するのは私にとって大事なことだ。自分のスタイルを作り出すために」と彼は言う。彼のオフィスで話をしていたときも、私たちが座っていた椅子は紙管でできていた。
坂は同情や怒りの感情を見せることがない。彼は通常、自分の人道的支援を説明するのに、人助けの衝動よりもむしろ、資源を無駄にすることへの恐怖を口にする。それは彼がシビアに実利を追求する建築の分野の最先端を走っている、ということでもある。今また、彼は仮設施設の範囲を超えて人道支援を広げようとしている。インド南東部のアーンドラ・プラデーシュ州政府と協力して、新しい首都のアマラーヴァティーの住宅建設に取り組んでいるところだ。数階建ての建物のため、紙管は恐らく適切ではないだろう(彼が考えているのはファイバーグラス製のスチレンボードだ)。
だが、今後も災害のことが彼の頭から離れることはない。彼はより大規模な都市開発を通して、災害支援に備える都市づくりを行っていると話した。日本では今後も必ず地震が起きるだろうし、彼は特に言及しなかったが、気候変動が引き金となるさまざまな災害が起きることも予測できる。
「21世紀初頭の今こそが、サスティナビリティと災害支援の方向に舵を切る大きな分岐点だ」と彼は言う。「それは今世紀のメインテーマであり続けるだろう」。モダニズム主義全盛だった時代から確実に月日は流れた。「当時の人々はユートピアがいつか実現すると信じていた。でも、私たちはそれが真実ではないことを知っている。ユートピアなど存在しないということを」
慎重に言葉を選んで話す坂が、そんなセオリーどおりの発言をするのは稀だった。モダニズム主義者のユートピアを探す旅は終焉を迎え、今、私たちは少なくとも厳しい現実に直面しながら生きている。それはわざわざ日本に行かなくとも、私がいま生活している場所でも実感できる。そうでなければ、坂が彼の使命に打ち込む理由も、坂が長年向き合ってきたような惨事に立ち向かおうという政治的な意思が世界中に広がりつつあることも説明がつかない。
坂の行動に感銘を受けた建築家たちが、彼ら自身の社会的責任を自覚したり再認識するだけでなく、たとえばブルタリズム建築の福祉住宅が解体されたり、旧ユーゴスラビア建築の新たな展覧会が開かれたりするたびに、私たち自身もまた思い出す。最も悲惨だった戦争で焦土と化した場所から、社会も建築家もプランナーも全員が力を合わせて立ち上がったのが、そう遠くない過去だということを。そしてそのとき、全員が力を合わせて、貧しく助けが必要で無防備な人々に手を差し伸べたということを。
坂は“普通”の建物を造り続けながら、あるとき、普通でない状況で生活している人々がたくさんいることに気づき、それを何とかするために自分の時間を、少なくともその一部を費やすようになった。今後、彼と同じこと、または彼以上のことをやる人間が何人出てくるのかはわからない。富士山世界遺産センターの一角にある標識には、富士山は現在も活火山であるということが、旅行者向けに書かれていた。あとになって私は気づいた。それは脅威であると同時に、吉報でもあると。