BY MEGAN O’GRADY, ART BY CHIOMA EBINAMA AND CHANTAL JOFFE, TRANSLATED BY HARU HODAKA
かつて6歳や8歳や10歳の少女だった頃、私は中西部の長い夏と、それより遥かに長い冬の間を、1980年代中頃当時のアメリカで少女向けとされていた典型的な本を読んで過ごしていた。そんな多くの作品に出てくるのが、女性3人の登場人物だった。開拓者のインガルス一家の姉妹を描いた『大草原の小さな家』(1935年)や、ナンシー・ドリューとその仲間たち(註:ミステリー・シリーズの『ハーディー・ボーイズ』より)。さらに、1940年代から50年代に出版されたモード・ハート・ラブレイス著の『ベッツィーとテイシイ』のシリーズ本に出てくる、20世紀の転換期のミネソタで活躍する3人組などがそうだ。
またときには、1868年から’69年にかけて出版されたルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』の姉妹たちが、南北戦争の時代に清貧の中で成長していく姿に夢中になったりした(三女のベスが死去したあと、四姉妹は三姉妹となった)。そしてその後は、19世紀のジェーン・オースティンの小説に登場する姉妹や友人、他人事に首をつっこむ伯母たちや、有能とは言えない母親たちといった女性たちの織りなすさまざまな人間模様にのめり込んだ。
学校が終わると、落書きだらけのケッズのスニーカーを履いて、郊外の誰もいない家に帰って自分で鍵を開けて入り、ピーナツバター味のクラッカーの箱と本に手を伸ばす。3人の登場人物のうち誰になりきってもいい。本に夢中になりすぎて、私はテレビで再放送中のドラマ版『大草原の小さな家』の、メアリーやローラやキャリーを見るのをすっかり忘れ、チャンネル13でそのすぐあとに始まる『ゆかいなブレディ一家』のマーシャとジャンとシンディの姉妹も見ずに過ごしていた。
どの物語の中でも、登場人物たちは明確に、ある特定の性格をもつ人物として描かれていた。たとえば『若草物語』では次女のジョーは“ボーイッシュ”で文学肌、黄色の髪をした四女のエイミーは“甘やかされ”タイプ(これらの小説の中でブルネットの髪の白人女性が演じるのは駆け出しの作家だ。ローラ・インガルス、ベッツィー、ジョー。グレタ・ガーウィグ監督がオルコットの古典をリメイクした新作映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』でジョーを演じたのは、赤毛のシアーシャ・ローナンだったが)。若い読者たちは、登場人物たちと自分を比べてみたり、親近感を感じたりしながら、まだはっきりと形づくられていない自分自身の人格について思いを巡らす(ある人間が、文学肌でかつ、ナルシストということもあり得る)。
アメリカの子どもたちは、将来何にでもなれるし、何でもできる、人生は冒険であり、すべてを自分で選ぶことが可能だ、と言われて育つ。そして成長し、思春期の挫折や妥協を味わい、自分のことを何もわかっていなかったのかもしれないと疑う頃になると、今度は“自分らしくいろ”と周囲から言われるのだ。そんなときは、これらの物語の登場人物たちすべてが、現実の私自身よりも、よっぽどリアルな人生を生きているように見える。自分でも気づかないうちに、彼女たちは私の人格形成に深く関わっていたのだ。ある場面ではジョーを自分に重ね合わせ、別のときにはエイミーを自分だと思ったりする。それは自らの主観を確立するレッスンの始まりでもある。ひとつの視点だけでは、真実を完全に映し出せない。突き詰めて言えば、誰でも共感されるに価するということだ。
一方、私の兄が読んでいた本は、ほとんどがヒーローの旅路という要素で構成されていた。兄が読むファンタジー小説ですら、多彩な登場人物が出てくるなか、孤高の冒険者が逆境を乗り越えて目的を達成するという筋書きだった(男性たちには仲間との愉快な関係がつきものだ。ヒーローの隣には、愉快で、かつライバル格にはならない脇役がいる。ドン・キホーテとサンチョ・パンサ、ホームズとワトソン、ビルとテッドのように)。
私が子どもの頃に読んだ本に女性のヒーローがまったく出てこなかったわけではない。ぱっと思い浮かぶのは、スコット・オデルの1960年の作品『青いイルカの島』に出てくるネイティブ・アメリカンの少女カラナだ。チャネル諸島の島にひとりで残されて18年間を過ごす話で、彼女は自己流で魚を獲り、孤独を癒やすために野犬を手なずける(彼女の物語は、1853年にサン・ニコラス島で見つかったネイティブ・アメリカンの女性の実話に基づいている)。現在では少女たちはさまざまな漫画のヒロインに触れて育つ。宮崎駿の秀逸なアニメ『千と千尋の神隠し』(2001年)から、ディズニーが売り出している最新版“フェミニスト”キャラクターまで多様だ。だが当時、カラナは無人島にいるのと同様、私の本棚でも孤独なヒーローとして存在していた。物心ついたときから、女の子であるということには、妥協がつきものだった気がする。
最近、ガーウィグ監督の若草物語の映画を、ふたりの成功した女友達と一緒に観に行った。――これも女性3人で、映画館にボトル入りのワインをこっそり持ち込んで、まるで過去の自分たちの亡霊に対峙しているみたいな気がした――そのとき初めて、かつて読んだこれらの本の中では、自分の未来を選択することや、世の中で何かを実現するために野心をもつことなどが、ほとんど描かれていなかったことにしみじみ気づいた。むしろ、選択肢などほとんどなく、女性たちが子ども時代に思い描いた非現実的な夢から覚め、ひとりの大人の女性として現実の人生で妥協を経験するなかで、それでもなんとか精いっぱい生きたいともがき苦しむストーリーだった。
だが、そんな登場人物たちはみな、ある特定の性別グループのひとりとして見られたくないと思っているようだった。少女という存在の象徴や、パイオニア精神にあふれた女の子というイメージにくくられず、たとえどんなに可能性や将来が閉ざされた状況でも、個人として自ら行動を起こし、自分なりのヒーローであろうとした。だからこそ、彼女たちはあの境遇に耐えることができた。彼女たちは、象徴的な女性の総体として見られることに抵抗していたのだ。