女性たちの主張がますます(そしてやっと)注目されつつある今、ルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』からアントン・チェーホフの『三人姉妹』、そして映画『ファースト・ワイフ・クラブ』まで、3人の女性を題材にした物語が思わぬ反響を呼んでいる。女性たちが団結するパワフルさと同時に、集団の喧噪の中で、彼女たちが自分自身の主張に目覚めていく姿が見直されている

BY MEGAN O’GRADY, ART BY CHIOMA EBINAMA AND CHANTAL JOFFE, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 戯曲において、西洋の物語の多くが3を基準にしたルールに支配されてきたというのは、繰り返し語られてきた定説だ。3幕劇の構造は、最古の演劇論と言われる、紀元前4世紀半ばに書かれたアリストテレスの『詩学』に遡(さかのぼ)る。もちろん、この3の理論はそれ以前から人類にあらかじめ刻み込まれていたものなのだろうが。キャンプファイヤーを囲んで語られる面白い物語にも、伝統的に、はじまりと中盤と終わりが存在する。3の繰り返しは、秩序と満足感を醸し出す。

 おとぎ話では、3つの推測や3つの望みが出てくるし、大きすぎる椅子、小さすぎる椅子、ちょうどいい大きさの椅子というパターンもある。愉快な3人組や三振もある。フロイトが1923年に提唱したように、人間の人格も、イド、自我、超自我の3つに分けられる。さらに誰もが3つの人格を持っている。公の自分、実際の自分、そして実際の自分だと思っている自分だ。これは19世紀のフランスの批評家ジャン=パプティスト・アルフォンス・カーの受け売りだが。

 登場人物が、とりわけ女性の場合、頻繁に3人一組で登場することは、これまであまり考察されてこなかった。3人の女性たちは、最も長いこと愛されてきたわれわれの古典劇の演目の中でもおなじみだ。たとえば、ウィリアム・シェイクスピアの『リア王』(1600年代)の3人の娘たちや、アントン・チェーホフの『三人姉妹』(1901年)、エドワード・オールビーの『Three Tall Women』(1991年・日本上演時の邦題『幸せの背くらべ』)など。ロバート・アルトマンの映画『三人の女』(1977年)は、知的で文学的な作品となった。そうでないものもある。欲求不満の3人の妻たちを描いた映画『ファースト・ワイフ・クラブ』(1996年)と、現在BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)がジル・スコット主演で放送中のドラマ版。さらにアーロン・スペリングの『チャーリーズ・エンジェル』(1976年~’81年)は、“お気に入りの美女を選んで”型の往年の人気作だが、昨年クリステン・スチュワート主演で新たにリメイクされ、こっぴどく批判された。

 以上の例はすべてを網羅しているわけではないが、ここにアメリカ現代文学の象徴ともいえる3人組の女性を追加していこう。ジェーン・スマイリーのリア王を下敷きにした作品『大農場』(1991年)。さらにトニ・モリスンが1987年に発表した『ビラヴド』。この作品では、母、娘、そして題名にもなっているビラヴド(愛されし者)という名の幽霊という、一度読んだら決して忘れることができない3人の女性が描かれている。ブロンテ姉妹とオリジナルのカーダシアン姉妹がどちらも3人だというのはごく正しくまっとうだと思える。そしてもちろん、ポップミュージックの歴史全体を見れば、ザ・スプリームスに遡るまで、女性トリオがひしめいている。芸術において、3人の女性が登場するのは一般的にいって、西洋の古典を源とするメソッドのひとつなのだ。(註:ギリシャ神話が起源の)「三美神」には魅力、美、悦びや創造性など、“女性的”だとされるさまざまな特質が織り込まれている。そしてその真逆が「復讐の女神」だ。諸説によれば、この三姉妹は、ウーラノスが、彼の息子のクロノスによって男性器を切り落とされたときに飛び散った血液から生まれたのだという。

 そして西洋世界以外にも、顕著な例が山ほどある。畢飛宇(ひつ ひう)の小説『Three Sisters』(2000年)は、文化大革命時代を背景に、中国共産党の地方書記の娘である三姉妹の、不屈の精神と運命を対比するように描いている。三者三様の性格、声のトーンや髪型の違い、倫理観や行く末の違い──三重の身体性、そして意味の重厚さは、象徴としてひとくくりにされるには、あまりに人間的すぎるのだ。では、なぜ、女性たちはこんなにも長い間、3人一組で語られ続けているのだろうか?

 歴史的に、多くの“三姉妹”は、男性の悲劇の物語の中で、影のある不吉な敵役として、女性のパワーを代表すべく配置されてきた。シェイクスピアは1606年頃に『マクベス』の中で、騒がしく、がさつで、行動パターンが読みやすい“奇妙な姉妹たち”と名付けられた魔女を登場させてその系譜をつくった。彼女たちの末裔はその後、姿形を変えてさまざまな場面で活躍した。その多くが1993年の映画『ホーカス ポーカス』やドラマ『チャームド 魔女 3姉妹』のようなほのぼのとしたコメディ作品だ。

『チャームド 魔女 3姉妹』は1990年代後半にワーナーブラザーズのTVシリーズとしてスタートした。魔力をもつ、つやつやのダークヘアの美しい三姉妹が、サンフランシスコを駆け回って邪悪な存在から善人を守るというストーリーだ。その番組の主演のひとり、ローズ・マッゴーワンはその後、本物の悪魔に取り憑かれ、実際に現代の魔女扱いされてしまった。彼女がプロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインから性的被害を受けていたことを真っ先に告発すると、ほとんど魔女狩りに近いむごたらしい扱いを受けたのは、衝撃的だった。“ガール・パワー”のこうした描かれ方――無害で若々しくあくまでチャーミングで、キャミソールを着ているのが好ましい――はいかにも陳腐でくだらない。そして、実際に女性が人権を訴え、自分の身体を誰にも自由にさせないことを訴えようとすると、厳しい闘いが待っており、報われることが本当に少ないのだ。

 しかし『チャームド~』は、ジョン・アップダイクがジェンダー・ポリティクスを皮肉を込めて描いた小説『イーストウィックの魔女たち』(1984年)と比べると、まだ正統派のフェミニズム作品に見える。1987年に封切られた同名映画『イーストウィックの魔女たち』も同様にピントがずれている。ジャック・ニコルソンがワインスタイン風のバスローブを着て、ミシェル・ファイファー、スーザン・サランドン、シェールの3人を誘惑し、彼女たちは全員一緒に住んで、彼の子どもを産むのだ。私たちのカルチャーがどんなに軽いコメディタッチで魔女を描こうと、そこには女性が力をもつことに対し、世間がどう感じているかが露呈している。すでに #MeToo ムーブメントが起こったあとの現在でもまだ、女性の力は集団として団結したときだけ考慮してもらえるようだ。つまり、連帯しない個人としての女性は、決して大きな脅威にはならないということなのだ。

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