女性たちの主張がますます(そしてやっと)注目されつつある今、ルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』からアントン・チェーホフの『三人姉妹』、そして映画『ファースト・ワイフ・クラブ』まで、3人の女性を題材にした物語が思わぬ反響を呼んでいる。女性たちが団結するパワフルさと同時に、集団の喧噪の中で、彼女たちが自分自身の主張に目覚めていく姿が見直されている

BY MEGAN O’GRADY, ART BY CHIOMA EBINAMA AND CHANTAL JOFFE, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 文学界のあらゆる女性3人組の物語の中で、チェーホフの『三人姉妹』ほど何度も劇場で演じられ、映画などの原作になった小説はほかにないだろう。そして、それにはやはり理由がある。

 彼が描く、愛と生きがいにあふれた人生を送りたいと希求する高度な教育を受けた教養ある姉妹たちは、1980年代のマンハッタンを舞台にしたウディ・アレンの『ハンナとその姉妹』(1986年)の下敷きになっている。さらに、1970年代のミシシッピを舞台にしたベス・ヘンリーの『心で犯す罪』(1979年)にも形を変えた。1990年代のロンドンを背景にしたウェンディ・ワッサースタインの戯曲『The Sisters Rosenweig』(1992年)もそうだ。それは彼の才能のきらめきの証しであり、どんな読者もチェーホフ作品の中に自分自身を見つけることができるからだ。

 彼の描く登場人物たちはあまりにも人間的でステレオタイプに収まることはない。彼女たちは地方の町で不本意な生活に閉じ込められている。あるいは、彼女たちがそう信じているだけかもしれないが。だが、そのかわり、彼女たちは好きなだけ思索にふけり、お互いと話すことで自らの境遇をつかの間忘れ、また会話が途切れる沈黙の時間に、未来への希望を取り戻したりする。

 厳しい現実をつきつけてくる骨太なチェーホフの戯曲をアメリカ人作家たちが再生すると、必ずコメディタッチを加えて変容させてしまうのは特筆すべきだ。20世紀の激動の時代のロシアを描いた原作では、長女のオルガは地元の学校長として身を粉にして働き、結婚しなかったことを後悔している。次女のマーシャは自分より知性の劣る男性と若くして結婚し、やはりその選択を後悔している(ジェイン・オースティンやオルコットの作品の読者なら、当時、夫選びは単に恋愛の結末というだけではなく、将来を形づくる社会的、経済的な基盤すべてに関わることだったと覚えているはずだ)。そして末娘のイリーナが3人の中である意味、最も悲劇的だ。彼女は姉たちの両方の選択の結末を見て、八方塞がりだと感じてしまう。

 それは現代ではあり得ない問題だろうと疑問を呈する人もいるかもしれない。だが、これらの姉妹たちの苦しみは現代でも十分共有できるものだ。意義のある満足できる仕事をしたくない者が、一体どこにいるだろうか? 自分の人生に閉じ込められてしまったように感じたことが、一度もない者がいるだろうか? メタファーにしろ、現実にしろ、世界の中心から隔てられて、小さな町に取り残される心細さを感じたことがない者がいるだろうか?(人生の時間のパラドックスをチェーホフ以上に絶妙に表現できる戯曲家はほとんどいない。遅々として進まないように感じていた時間が、いつのまにかあっという間に過ぎ去ったことに突如として気づかされるのだが、それは彼の戯曲の中では、命名日の祝いの場であったり、誕生日だったりする)チェーホフは、私たち自身が自分は特別であると思い込んでいることに異論を唱え、個人が抱える問題は実は誰にでも共通なのだと気づかせてくれる。イリーナ、マーシャ、そしてオルガはそれぞれ人生の異なるステージに立っている。彼女たちは、後悔が深まり、希望が次第に消えていくなか、何年もの間、自分の行動を変えずにいたことに、徐々に違和感を覚えていく。

 そして今、『三人姉妹』がチェーホフの原作の運命論に近いトーンで新たにさまざまにつくり直され、現代という時代に沿う形で甦っているのも偶然ではないだろう。昨年の秋、創造性あふれるブラジル人監督のクリスティアーヌ・ジャタヘイがメディア・ミックスの手法でつくった『What if They Went to Moscow?(モスクワへ行ったとしたら?)』がその一例だ。ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックで、全体の半分が劇として演じられ、あとの半分はスクリーンで上映された。そして6月には、サム・ゴールド演出によるニューヨーク・シアター・ワークショップの制作で、グレタ・ガーウィグがマーシャ役で舞台に復帰する。相手役の男性はオスカー・アイザックだ。

両作品とも、それぞれに異なる間接的な手法で、現代に通じる意味やメッセージを発信している。――たとえばジャタヘイの作品では、イリーナはプッシー・ライオット(註:ロシアのフェミニズム・パンクロックバンド)を見にモスクワに行きたいと思っている。――どちらも、劇場という空間において最も効果的に作用する間合いのようなものを頼りにしており、観客は、姉妹たちが生きた当時の時間と、自らが存在する現代を同時に味わえるようになっている。私たちは、姉妹たちが感じていた挫折の感覚を共有できる。未来を思い描くことができないということが、どんな気分か、私たちには手に取るようにわかる。チェーホフは、私たちが自分の心をなだめるために使う、退屈で空虚でエゴイスティックなレトリックを見事にあぶり出して、私たちの心をざわつかせる(“今この瞬間を生きる”や“他人の世話を焼く前に自分のやるべきことをやれ”というお題目が、その例だ)。

『三人姉妹』が書かれた当時、ロシアの上流階級は没落し、農奴解放が起こり、シベリアなどの針葉樹林地帯の多くが森林破壊に直面していた。近くで火が狂ったように燃えさかるなか、オフステージではバンドが陽気に音楽を奏でているという状況に近いかもしれない。私が小説を読んだり、劇場に通うのは、そんなハーモニーを感じたいからだ。少女らしい空想はもうとっくに過去のものとなり、今は女性たちの稀有な経験を――人生の筋書きを自ら決める、孤独なひとりの女性のものであれ――書籍やテレビ、演劇を通して伝え聞くことができる。映画は、まだそこまで彼女たちの声を広く伝えていないけれど。古い物語を下敷きにして、これらの新しい物語が積み上げられていく。それは、オルコットもきっと望んだように、物語を伝えていくという行為自体が、その主題に重要性を見いだしているということにほかならないからだ。

 90分間の演劇や400ページの小説を味わう間、作者の目を通して物事を見るということは、別の道を歩いてみるということであり、自分の心臓の鼓動を聞きながら、他者の魂を理解する行為だ。本を読了し、劇場の照明が灯り、私たちはより深く大きな意識をもって自分の生活に戻る。3人の女神たち、3つの顔。だが、詰まるところ、彼女たちと私たちの人生に起こるさまざまなことは、ひとつであり、同じものなのだ。

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.