西洋のポピュラー音楽のストーリーは、そのランキングに参加しようとするアジア系やアジア人を長い間認識せず、彼らを蚊帳の外に置いて書かれてきた。しかし新世代の女性たちは、誰の音楽が集団から頭ひとつ抜け出して上へ行けるのか、どんな人間なら――才能や経歴や顔や身体を含め――人々はスターとして喜んで認めようとするのかを今、問い直している

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPHS BY COLLIER SCHORR, STYLED BY MATT HOLMES, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 何十年もの間、西洋のポップ音楽界の表舞台で、アジア人だとはっきりわかる顔をした女性がおおっぴらに受け入れられる余地はほとんどなかった。そんな業界の片隅にかろうじて居場所を見つけた女性たちのうち、最も有名で、最も悪評を立てられたのが、日本人のマルチメディア・アーティスト、ヨーコ・オノだ。1960年代に、彼女は甲高い音を早いテンポで繰り返し、まるで傷ついた鳥が、恐怖におののいて鳴いているようなけたたましい音を出した。それはメロディではなく、摩擦によってできたすり傷のような音楽だった。彼女は、白人男性のジョン・レノンのスターとしての名声を利用することで当時の音楽界で名を売ったと批判され、また、彼女がビートルズを解散させた原因だと批難された。さらにビートルズの解散により、ドミノ倒しのようにポップ音楽全体が弱体化し、ポップが軽薄で聖なる存在だった時代は断末魔のうめき声をあげて瀕死の状態に陥っていった。彼女のレガシーは現状維持を打ち砕いたことだ。

 のちの1990年代に、ボアダムスや、女性歌手がフロントを務めるピチカート・ファイヴなどのいくつかの日本のロック・グループが米国で成功を収めはじめた。この現象はニューヨークを拠点とするグループ、チボ・マットを困惑させた。東京生まれのミホ・ハトリとユカ・C・ホンダは当時ロウワー・イーストサイドに住んでおり、自分たちのバンドをジャパニーズ・アメリカンだと認識していた。批評家たちは彼女たちを、元気いっぱいのガレージロックで知られていた大阪拠点の女性バンド、少年ナイフと混同しがちだった。だが、チボ・マットの音楽はさらに自由で、変化に富み、国籍やアイデンティティを固定のものとして捉えない流動性を持っていた。音楽のジャンルを飛び越えて、ヘビーメタルからボサノバまで自在に取り入れていた。「境界線がないと、怖いのかもしれない」とホンダは言う。彼女が驚いたのは、取材のたびに日本人であることや「カワイイ」ことばかりを聞かれ、いかに曲を作るかについてはあまり聞かれないことだった。「私たちがあれほど取るに足らない存在だと思われていたとは知らなかった」と彼女は言う。「世界はもっとリベラルでもっとミックスした場所だと思っていたから」

画像: ジャパニーズ・ブレックファストのミシェル・ザウナー ドレス¥357,500、各リング/ボッテガ・ヴェネタ(ボッテガ・ヴェネタ ジャパン)フリーダイヤル:0120-60-1966

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 だが、近頃は、舞台やスクリーン上でアジア系の顔をいきなり大勢見るようになった。西洋ではアジア人の子孫である女性や少女たちが扉を叩き合うようなリズムと、この世のものとは思えないほど繊細なR&Bを合わせて奏でている。湿ったような機械音で幻想曲を冷笑するように弾き、荒々しくギターを奏でてマイクに向かってにやりと笑う。失恋のララバイを、彼らが子ども時代を過ごした部屋から何百万人もの観衆に向けてストリーミングで流す。インディー・フォークやバブルガム・ポップや大音響のクラブ音楽やパンクの絶叫など、国内外のありとあらゆる音楽がそこにある。オードリー・ミカ、オードリー・ヌナ、ビーバドゥービー、カロ・ジュナ、チャーリーXCX、クロエ・タン、デイヤ、デブ・ネヴァー、ドリー・アヴェ、エミリー・ヴ、グリフ、ヘイリー・キヨコ、H.E.R.、ジャガー・ジョンズ、ジェイ・ソム、ジェネイ・アイコ、ジョイス・ライス、クルーウェラ、レイヴェイ、ザ・リンダ・リンダズ、ルナ・リー、マダム・ガンジー、MILCK、ミツキ、mxmtoon、ナヤナ・アイズ、ニキ、プリヤ・ラグ、ラヴィーナ、レイ・アミ、リナ・サワヤマ、サンジャナ、スウィーティー、UMI、イェジ、さらにイバラ、グエン、ポーチ、ロドリゴ、そしてザウナーやその他、まるでおまじないのようにリストはいくらでも続いていく。

 彼らに共通しているものは何だろう? 彼らのルーツは東アジア、東南アジア、そして南アジアにあり、属する社会階層や、カーストや、民族や宗教が違う。なかには最近移民してきたばかりでまだアメリカ暮らしに慣れていない者もいる。移民2世もいれば、ふたつの文化を行ったり来たりする者もいる。さらに3世や4世のアメリカ人で、両親も西洋生まれで完全に米国になじんでいる者もいる。アリゾナ州生まれの25歳のシンガー、クロエ・タンは「同化どころじゃない。彼らはこの国しか知らないんだから」と指摘する。彼らは100%アジア人種の場合もあるし、複数の人種のミックスの場合もある。白人の先祖がいる者は、ラテン系だと間違われることもあるが、黒人の先祖がいる者は、完全に黒人だと判断されることが多い。社会はきっちりと明確に人種の区分けをしたがり、人種のアイデンティティがはっきりしない場合はざわついてしまうのだ(かつてのアメリカでは、悪名高い人種隔離政策のもと、1滴でも黒人の血が入っている場合は、黒人と見なす「ワン・ドロップ規定」が適用され、彼らは白人が持つ特権からは締め出されていた)。

 前述したアーティストたちは、アジア系女性とはどういう外見であるべきか、またどうふるまうべきかなどという概念には縛られない。「そう、私はアジア系。でも私ははっきりモノを言う」とサラ・イェウン・リーは言う。メリーランド州出身の歌手である彼女の芸名はレイ・アミだ。「私が話しているとき、言葉を遮ることは誰にもさせない」。それでも、彼らはアジア系の美の標準であるきゃしゃですらっとした細身の身体であることを求められることと闘わねばならない。そのうえ、西洋社会が自分たちの支配とコントロールのためにそのイメージを都合よく使ってきたことにも対抗しなければならない。以下はファンタジーでありかつ史実でもあるのだが、アジア人はアメリカ合衆国の建国以前にすでに北米大陸に住んでいたという記録がある。フィリピンの船乗りたちがのちにルイジアナ州となる土地の港に1763年頃に住み着いていたのだ。現在の私たちアジア系の人口の数は、約1世紀にわたって、アメリカが外国を侵略してきたことの結果でもあるのだ。1898年にはハワイとフィリピンを制圧し、第二次世界大戦では日本を占領し、朝鮮戦争とベトナム戦争がそれに続いた。アメリカ人兵士たちは母国にアジア人の妻とアジア人の子どもを連れ帰り、サイゴン陥落後の10年間に米国はベトナム人、ラオス人、カンボジア人とモン族の難民を75万人近く受け入れた(ヨーロッパでも同様に植民地主義によって移民のパターンが決まっていった。特にインド亜大陸は1858年から1947年まで英国が支配しており、カナダとオーストラリアも英国経済統治下にあった。また19世紀にはゴールドラッシュが起こり、鉄道建設と荒地整備のために安い労働力が必要となり、移民流入が増加した)。

 ある意味、西洋におけるアジア人の身体は、いまだに帝国の刻印を負った存在として見なされている(帝国の実際の起源が何であれ)。西洋と東洋の覇者と被支配者という不穏な関係性においては、たくましさとか弱さが無言のうちに固定されている。それは異性愛を好ましい性的指向だとする考えに基づいた規範で、その中では、しばしばアジア人男性のセクシュアリティは無視されるか、完全に否定される。そうだとすると、アジア人女性がなぜ、ついに西洋の聴衆に受け入れられるようになったのかの説明がいやでもついてしまう。彼女たちは性的な対象として見られているからで、多くの場合、それ以外の理由はなく、主流の映画やポルノ作品のようなメディアでは、バーで働くアジア人の女の子たちが相手の要求を簡単に受け入れる存在として繰り返し描かれ、それが見る者の意識に刷り込まれる。「私、売春婦の役を演じられるかも」と韓国系アメリカ人のコメディアンのマーガレット・チョーは2002年に定番ジョークとして言っていた。若かった頃の彼女が、女優を目指してカタコトの英語を鏡の間で練習するシーンで笑いを取るのだ。「アタシ、アナタのこと長く愛するよ!」―― スタンリー・キューブリック監督の1987年のベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』のこの台詞(註:英語の“me love you long time”という台詞は、ベトナム人の売春婦が「性交渉をする」という意味で米兵を誘うシーンで使われている)は、私たちにとって一生消えない呪いみたいなものだ。映画のスクリーン上の役は、時にはセックスワーカーではない場合もあるが、それでも描かれ方の本質は変わらない。彼女たちは、恥ずかしがり屋でくすくす笑い、人前では少女のようにふるまうが、プライベートでは性に奔放でセックスの技巧に長け、コトがすんだら洗濯物をちゃんと畳むのだ。

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