黒澤明作品を原作とし、カズオ・イシグロが脚本を手掛けた映画『生きるLIVING』。アカデミー賞にもノミネートされた主演のビル・ナイに、自身の芸術について語ってもらった。彼は自虐的な言葉を好む

BY SARAH LYALL, PHOTOGRAPHS BY ARIEL FISHER, TRANSLATED BY T JAPAN

画像: 末期症状を宣告された抑圧的な英国官僚を演じるビル・ナイ

末期症状を宣告された抑圧的な英国官僚を演じるビル・ナイ

 英国人俳優のビル・ナイは、新作映画 『生きる LIVING』のために行った役作りについて話そうとしていた。彼は、第二次世界大戦後のロンドンで、自分の余命が短いことを知り、ついに生きることを決意する、口数の少ない堅物の公務員、ウィリアムズを演じている。

「これから私が何を言っても、ある程度は疑ってかかるか、鵜呑みにしないでくださいね」とナイ。パームスプリングス国際映画祭でインターナショナル・スター賞を受賞する予定の彼は、ロサンゼルスから現地へ向かう車の中から語っている。車内では、彼のプレイリストからアレサ・フランクリンの「That's the Way I Feel About 'Cha」が流れていた。

「どう話していいかわからないのだけれど」と、彼は自分の職業について話し始めた。「演技のメカニズムについて語られると、私は慎重になってしまうんです。それは、思い付きだからとか、ミステリアスだからとか、複雑だからとか、空気のようなものだからとか、そういうことではありません。すべて現実的なことなのです。演技とは…」と告げると、黙り込んだ。3000マイル離れたところからでも、彼の声にはユーモアが感じられた。「"演技とは "で話を始めてしまったのは、悪い兆候ですね」と彼は言った。

 73歳にして70本以上の映画に出演しているナイは、俳優として秘密兵器のような存在であり、派手さはないものの常に記憶に残る絶妙な演技をする。『ラブ・アクチュアリー』(2003年)で演じたクリスマスソングを録音する年老いた売れないポップスター、『EMMA エマ』(2020年)の主人公の病的な父親、BBC制作のドラマ『Page Eight』(2011年)での年老いたスパイ、あるいはロンドンのウエスト・エンドとニューヨークのブロードウェイで再演されたデイヴィッド・ヘア作の舞台『スカイライト』(2015年)におけるキャリー・マリガン演じる若い元恋人を訪ねるやもめ男。TVドラマ『ドクター・フー(ゴッホとドクター)』(2010年)では、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホについて叙情的に語る美術史家という、登場場面は少ないが鮮明な印象を残す役柄を演じた。ナイの演技は決して派手ではない。自分らしさを保ちながら登場人物を演じきっている。

 観客はもちろん、街で彼をよく見かけるロンドンっ子たち(カフェでひとり座って本を読むことが彼のお気に入りの一つだ)、そして彼の名前が出たときの歓声から察するに、これまで一緒に仕事をしたほぼすべての人にとって、彼は愛すべき存在なのだろう。

画像1: アカデミー賞主演男優賞ノミネート!
『生きる LIVING』のビル・ナイは
人を煙に巻く達人である

『ラブ・アクチュアリー』でナイを起用し、その後も頻繁に仕事をしているリチャード・カーティス監督は、「彼は常に優雅で思いやりがある」と言う。「人生の中で最も幸運な瞬間の一つは、感情の深みと演技力を持ち、しかもとても面白い、素晴らしい一流の俳優を見つけたときです」

『生きる LIVING』の脚本は、ナイを想定して書かれた。この作品は、黒澤明監督の『生きる』(1952 年)のリメイクで、戦後日本のひとりの事務官僚が、人生の最後の数ヶ月に、麻痺したような惰性の日々から覚醒する物語だ。小説家でありノーベル賞受賞者でもあるカズオ・イシグロは、少年時代に長崎からイギリスへと移り住んだが、長きにわたりこの映画を好んできたと言う。戦後の日本とイギリス、それぞれの国が戦争の荒廃から立ち直ろうと努力し、文化的抑圧と社会的希望にがんじがらめになった人々で溢れていたところに類似点を見出した彼は、1950年代のロンドンを舞台にこの映画をリメイクする可能性を見出した。

 ある晩ロンドンで、イシグロと妻のローナ・マクドゥーガルは、プロデューサーのスティーブン・ウーリーとエリザベス・カールソン夫妻と夕食をとっていた。ナイは遅れてやってきたという。しかし、彼が到着すると、イシグロはリメイクのアイデアを口にし、ナイにとって完璧な作品になるだろうと語った。

「俳優にとって、英国紳士というステレオタイプを演じるのはとても簡単なことです」とイシグロはインタビューで答えている。「しかし、その典型的な人物を演じながら、イギリス人だけでなく、世界共通の深く、心を揺さぶる人間的な要素を加えるのは、非常に特別なことなのです。だから、ビル・ナイでなければならないと思いました。他の人は考えられなかった」。

 ウーリーはこれを承諾し、イシグロを説得して脚本を書かせた。イシグロは小説『クララとお日さま』の執筆中で、脚本は苦手だと言っていたが、この作品だけは引き受けた。イシグロは主人公の名前を、ナイのファーストネームへのオマージュとして、ミスター・ウィリアムズと名付けた。

 少なくとも冒頭、ウィリアムズが劇的に短くなった人生をどう生きるべきかについて、静かだが衝撃的な啓示を受ける前の台詞は、簡潔で殺伐としていて、人々が自己表現に苦しみ、うまくいかない場面が続く。(ナイの演じる主人公は、医師から末期がんの宣告を受けるが、医師はその会話がいかに気まずいものかを指摘する。「まさにその通り」と、ナイは呟いた)。

「ビルは演技におけるミニマリズムを生来から理解している」とウーリーは言う。彼は、この俳優のアプローチと、黒澤版『生きる』の主演である志村喬の、よりオペラティックで感情的な演技を対比させた。「ビルは、ちょっとした仕草や微笑みでコミュニケーションをとるのが上手です。眉をちょっと上げるだけで、その場を和ませることができる」。さらに、「ビルは素晴らしい俳優であり、素晴らしい人物です。両方を兼ね備えた人はめったにいませんよ」と付け加えた。

画像2: アカデミー賞主演男優賞ノミネート!
『生きる LIVING』のビル・ナイは
人を煙に巻く達人である

 しかし、ナイに演技に対するアプローチや俳優としての成功、あるいはそのキャリアについて話をさせようとすると、巧みな話題のすり替えと難解な自虐の壁にぶつかる。最近、多くのインタビューを受けていることに触れながら、彼は次のように述べた。「今まで言わなかったことを考えるようにしている」と。

 ナイが「ミスター・イシグロ」と呼ぶ(ニックネームの「イシュ」と呼んでほしいと言われたそうだが)イシグロは、なぜこの作品に彼を起用したのだろうか。

 ナイは伝統的な英国人について、「鬱屈し、抑圧された厳格な制約のようなものがあり、私たちはその下に生きることを主張している」と述べた。「私に会ったことで、ミスター・イシグロは突然、私がその繋ぎ目になるかもしれないと思ったのでしょう。理由はわかりません。自分について書かれたものを読まないし、知ろうとも思いませんが、自分がある種のイギリス人であると見られていることは自覚しています。それは、私が演じてきた役柄の結果なのでしょう」

 しかし彼は、ミスター・イシグロのオファーに対しワクワクしたと言う。「クリスマスプレゼントみたいなものだと思いました。ミスター・イシグロのような著名で聡明な人が、僕をそのように考えてくれるなんてね」

 ナイは俳優を目標としてきたわけではない。イングランド南東部のサリー州ケーターハムで生まれた彼は、父親が経営するガソリンスタンドと自動車修理工場の隣で育った。ジャーナリストになるという初期のぼんやりした目標が頓挫したとき、ギルフォード演技学校に入学した。

「演劇学校に行ったのはある人に勧められたからで、学生になるというのがとても魅力的だったんです。しばらくやってみようと思いました。演技について真剣に考えたことはありませんでした」それでも彼は、「仕事が決まって、また次の仕事が決まって、ずっと続けていった」と言う。

 最初は、所得税が免除されるほど収入は少なく、他の仕事で補っていた。「タクシー運転手をしていたこともありますが、失敗でしたね。ガソリンスタンドでも働きました。ほかには? ゴミ収集をしたりプラスチック工場で働いたこともある。クロイドンのサリー・ストリート・マーケットでロング丈のラップスカートを売ったこともあります」。

 正統派の訓練を受けた多くの英国人俳優とは異なり、彼はシェイクスピアの信奉者ではない。

「彼が史上最高の詩人であることはわかっていますが、演じることは他の人にお任せします」と彼は言う。「(シェイクスピア特有の)難しい弱強五歩格の韻律には興味がないんです」。かつて、デヴィッド・ヘアーが演出し、アンソニー・ホプキンスが主演した『リア王』でエドガーを演じたことがあるそうだが、「毎晩、半裸で小屋から飛び出し、シェイクスピア風のばかげたセリフを叫んだものです」。

 1990年代を通して数多くの映画に出演したが、2003年にカーティス監督が『ラブ・アクチュアリー』で、かつて一世を風靡したポップ・スター、ビリー・マック役で彼を起用すると、一躍注目の人となった。

「4分の3ほどキャスティングができた時、大がかりな読み合わせを行いました」とカーティス監督は振り返る。「キャスティング・ディレクターには、私がこの役に起用しそうにない人物を探してくれるよう頼んだのです。舞台のナイを見て、彼は狡猾で上品で左翼的で、この役には全く合わないと思いました」。しかし、本読みの5分後、彼はその場でナイを起用し、それ以降、彼が手がけるほぼすべての作品にナイが出演している。

 しかしナイはこれらの映画、いや実際のところ、自分が出演する映画は全く見ないそうだ。

「2時間ほど座って自分自身を観察してみてはどうですか?」とナイが提案してきた。「もっと若くて、あまり複雑な顔をしていない頃に試したことがありますが、そこに何も見つけられませんでした。私は自分の作品の観客ではありません。もし観たら、全てを失ってしまうでしょう」

 余暇には読書をし、ロンドン市内を散歩して、お気に入りの本屋に立ち寄るのが好きだと言う。他の地域に用事があれば、タクシーか地下鉄を使って列車の駅まで行くそうだ。(「車は持っていないし運転は得意じゃない。注意を払って運転するのが大変なんです」)

 長年のパートナーであった女優のダイアナ・クイックと別れてからの彼の私生活は、ちょっとした謎である。彼は背が高く、スレンダーで、美しく仕立てられたスーツを好み、古風な雰囲気と都会的なエレガンスを醸し出している。独身ファンにとっては残念なことだが、ニューヨークで『生きる LIVING』の上映会を主催したヴォーグ誌編集長のアナ・ウィンターとのディナーやイベントには断続的に顔を出している。

 彼は2人の関係について話したくないようだ。質問されると、最近「デイリーテレグラフ」紙で展開したような、お決まりの返答をする。「その質問にはぜひ答えたい。でも読者をゴシップもどきに巻き込むことになるし、そうしたら彼らは決して私を許さないでしょうからね」。

画像3: アカデミー賞主演男優賞ノミネート!
『生きる LIVING』のビル・ナイは
人を煙に巻く達人である

 ナイは、映画の中で示唆されている「毎日を人生最後の日だと思って生きるべきだ」というメッセージを心に刻んでいるのだろうか?

「自分の年齢や死について考える方法の多くは、神話的であったり、あるいはマーケティング的であったりするものです」と彼は言う。「年齢には拘らず物事を考えるべきという人もいれば、年相応に考えるべきと言う人もいます。でも、私は、あれもこれも期待しろというような罠にははまりたくない。僕は運がいい人間だし、ただ達者でいたいだけなのです」

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