初の連載単行本化は上下巻となったディストピア小説。読む側は思う存分に作家・村田沙耶香の想像力と書く力に浸ることができる。そもそも、村田沙耶香の描く世界はなぜこんなにもユニークで面白くてゾッとするのか。最新作や芥川賞受賞作品、そして映画化原作を合わせた計3冊を通して書評家・石井千湖がその魅力に迫る

BY CHIKO ISHII

“異質さ”が読む側の脳を刺激する
『世界99』

 とんでもない小説を読んでしまった……。今、茫然としている。 

 芥川賞を受賞した『コンビニ人間』をはじめとして、作品が40を超える言語に翻訳され、国際的な人気作家になった村田沙耶香。『世界99』は村田さんの集大成とも言えるディストピア長編だ。現代日本に似たパラレルワールドを舞台に、如月空子という性格のない女性の一生を描く。

 幼いころから、空子は一緒にいる人に「呼応」して、その場に合った「キャラ」を生みだしてきた。大学では「姫」、バイト先では「おっさん」など、自分を「分裂」させるうちに、空子は複数の世界をあたかも移動しているようになる。各世界に番号をつけることが、タイトルにつながっている。
 ペルソナは仮面の下に「本当の自分」があるという前提で使い分けるものだ。しかし、空子に「本当の自分」はない。ただ「危険」と「面倒」を回避するために、それぞれの世界の「典型的な人間」のふるまいを「トレース」しているだけなのだ。からっぽな空子の視点で観察すると、自分が感情や意志と思っているものは、本当に自分のものなのかと疑わずにはいられない。

画像: 『世界99』の初出は集英社の文芸誌「すばる」。2022年5月号から連載を開始し、~2023年2月号、4月号~5月号、7月号~12月号、2024年1月号~6月号に掲載された COURTESY OF SHUEISHA

『世界99』の初出は集英社の文芸誌「すばる」。2022年5月号から連載を開始し、~2023年2月号、4月号~5月号、7月号~12月号、2024年1月号~6月号に掲載された

COURTESY OF SHUEISHA

 空子はなぜ呼応とトレースを繰り返して生き延びようとするのか。それは〈いつか世界の道具になるために育てられてる〉という圧力を感じていることが大きいだろう。専業主婦の母は家族に、夜中の2時まで働いている父は会社に、便利な道具として使われていた。女性として生まれた空子に世界が求めるのは、男性の性欲を処理し、子供を産んで、ケア労働を担う道具になることだ。お金を稼ぐとか、特殊な技術や専門知識を持っているとか、なんらかの形で便利な道具になれない人間は、世界に排除される。便利になれたとしても、空子の両親のように酷使されて疲弊してしまう。
 この逃げ場のなさは他人事ではないと思う。性暴力の被害者が透明化されるくだり、ある属性の人々に対する差別が拡大していく過程にも既視感がある。村田さんがすごいのは、現実にある不条理な社会構造、残酷な人間の行為を写しつつ、思考実験を突き詰めて、共感の向こう側へ読者を連れて行くところだ。

 見たことのないディストピアへの導き役をつとめるのは、パンダとイルカとウサギとアルパカの遺伝子が偶発的に組み合わさってできあがった「ピョコルン」という生き物。ふわふわとした毛とまん丸い目、白くて丸い鼻、歯が4本生えているピンク色の小さな口を持ち、短い4本の足でよちよちと歩く。〈強制的に可愛い〉ピョコルンは、人気のペットであり、空子の家でも飼われている。人間がピョコルンを性的対象化することで、ジェンダーロールと社会階層が変動する。男と女のほかに、ピョコルンという性別が生まれるのだ。
 ピョコルンという自分たちより弱く、可愛い生き物に、性欲処理も出産も負担してもらう。2025年の日本で生きるわたしはかなり抵抗をおぼえるけれど、それが倫理的に問題のない当たり前のことになれば受け入れてしまうだろう。便利だから。便利は強い。
 やがてピョコルンの秘密が明らかになり、世界が崩壊しても、再構築された世界に呼応して、空子は日常を続けていく。日常を続けていった果てに、たどりつく光景をぜひ見届けてほしい。恐ろしいけれども、新しい人間の可能性が開かれている。

画像: 『世界99』(上下巻)著者 村田沙耶香、装丁 名久井直子、装画 ZOE HAWK “Murder Ballad” 各¥2,200/集英社 COURTESY OF SHUEISHA

『世界99』(上下巻)著者 村田沙耶香、装丁 名久井直子、装画 ZOE HAWK “Murder Ballad”
各¥2,200/集英社

COURTESY OF SHUEISHA

世界に与えたインパクトは大。
芥川賞受賞作『コンビニ人間』

 イギリスBBCが選ぶ2020年最高書籍、アメリカのザ・ニューヨーカー誌のベストブックスにも選出された村田さんの代表作『コンビニ人間』は、36歳のコンビニ店員・古倉恵子が主人公だ。ごく普通の家庭で愛されて育ったのに、恵子にはほかの皆が無意識に身につけている規範や常識がわからない。たとえば、子供のころ、公園で死んでいた小鳥を拾い上げ、母親に〈これ、食べよう〉と言い放つ。周囲に異常と見なされていた恵子は、コンビニの完璧なマニュアルに倣って、正常な「店員」としての自分を形成していく。

画像: 『コンビニ人間』 著者 村田沙耶香、装幀 関口聖司、カバー作品 金氏徹平『溶け出す都市、空白の森』より「Tower」 ¥770(文春文庫) COURTESY OF BUNGEISHUNJU

『コンビニ人間』 著者 村田沙耶香、装幀 関口聖司、カバー作品 金氏徹平『溶け出す都市、空白の森』より「Tower」
¥770(文春文庫) 

COURTESY OF BUNGEISHUNJU

『世界99』の空子のように世界は分裂はしていないが、恵子も生き延びるために身近な人たちの喋り方や服装を真似する。そうやって「普通の人間」に擬態していたのだが、ずっと同じコンビニにいて、結婚も就職活動もせず生活の変化が全くないので、また理解不能の異物扱いされるようになってしまう。
 異物はいずれ排除される。排除されたくない恵子の前にあらわれるのが、元アルバイトの白羽だ。恵子の勤務先に婚活目的で入ってきたが、コンビニの仕事を見下して真面目に働かず、女性客にストーカーまがいのことをしてクビになった。〈気に入った女がいたら見初めて、自分の物にする。それは昔から伝わる男女の伝統じゃないか〉とか〈僕は確かに今は仕事をしていないけれど、ビジョンがある。起業すればすぐに女たちが僕に群がるようになる〉などと言ってのける。女性蔑視と他責思考をこじらせた男だ。それでも男の存在が「普通の人間」を演じるには都合がいいと気づいた恵子は、職も家も失った白羽を自分の部屋に居候させるが……。

 村田さんがあるインタビューで語っていたところによると、白羽は海外の読者には圧倒的に嫌われているが、日本の読者の感想は彼に同情的なものが意外と多いのだそうだ。わたしも白羽と一緒に暮らすのは無理だが、〈僕を世界から隠してほしいんだ〉という彼の訴えには切実なものを感じる。短い話なのに、多様な解釈ができるところも魅力的な作品だ。

あり得ないとは言い切れない世界を描く。
映画化原作『消滅世界』

 今秋、村田さんの作品が初めて映画化される。『コンビニ人間』以前に書かれたディストピア小説『消滅世界』。大戦をきっかけに人工授精の研究が飛躍的に進化したもうひとつの日本が舞台だ。人々は科学的交尾によって妊娠・出産することが常識になり、生殖と恋愛は切り離されている。タブー視されている夫婦間の性行為で生まれた雨音が、自らの性愛にまつわる遍歴を語っていく。

画像: 『消滅世界』 著者 村田沙耶香、装幀 高柳雅人、写真 HASEO ¥1,760/河出書房新社 COURTESY OF KAWADE SHOBO SHINSHA Ltd. Publishers

『消滅世界』 著者 村田沙耶香、装幀 高柳雅人、写真 HASEO
¥1,760/河出書房新社

COURTESY OF KAWADE SHOBO SHINSHA Ltd. Publishers

 この小説で繰り広げられるのは、男女が愛し合って結婚し子供を産むという現実では正常と思われていることが異常になったら? という思考実験だ。村田さんの頭の中の実験室では、いろんな価値観が化合して爆発している。爆発した結果、これまで想像したこともなかった人間のあり方が出現する。
 廃れてしまったロマンティック・ラブ・イデオロギーを押しつけてくる母に対して、雨音が〈あなたが信じている「正しい」世界だって、この世界へのグラデーションの「途中」だったんだと叫びたくなる〉〈私たちはいつだって途中なのだ。どの世界に自分が洗脳されていようと、その洗脳で誰かを裁く権利などない〉と思うくだりは忘れがたい。
 村田さん自身の原風景であり、『世界99』の空子が生まれ育った「クリーン・タウン」のモデルでもあり、他の作品にもたびたび描かれてきた千葉の新興住宅地が、グロテスクな「楽園」になるところにもぞくぞくする。どんな映像になるのか楽しみだ。

画像: 石井千湖 近著「『積ん読』の本」(主婦の友社)も話題の書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経て、書評家、インタビュアーとして活躍中。新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿をはじめ、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。ほか著作に『文豪たちの友情』(新潮文庫)、『名著のツボ 賢人たちが推す! 最強ブックガイド』(文藝春秋)がある。

石井千湖
近著「『積ん読』の本」(主婦の友社)も話題の書評家、ライター。大学卒業後、8年間の書店勤務を経て、書評家、インタビュアーとして活躍中。新聞、週刊誌、ファッション誌や文芸誌への書評寄稿をはじめ、主にYouTubeで発信するオンラインメディア『#ポリタスTV』にて「沈思読考」と題した書評コーナーを担当。ほか著作に『文豪たちの友情』(新潮文庫)、『名著のツボ 賢人たちが推す! 最強ブックガイド』(文藝春秋)がある。

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