青磁に心痛めるアーティストとして、新たな変革を起こしているロバート・ロンゴ、年齢72歳。自由でやりたい放題だった1980年代と添い寝していたような男が、いかにして現代の政治状況に最も心を痛めるアーティストのひとりとなったのか? 前・中・後編3回にわたってお送りする

BY CARL SWANSON, PHOTOGRAPHS BY D’ANGELO LOVELL WILLIAMS, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

前編を読む

 ロンゴのスタジオの入り口のドアにはステンシルで「何か忌まわしいものがこちらにやってくる」という言葉が記されている(註:作家レイ・ブラッドベリの小説タイトルと同じ英文)。隣には菱形の黄色いサインがあり、サメの絵とともに「サーフィンは自己責任で」という言葉が印刷されている。彼はロングアイランドにビーチハウスを所有し、ドイツ人女優のバルバラ・スコヴァとともに育てた3人の息子たちと数十年間そこでサーフィンを楽しんだ(2022年にロンゴは映画監督のソフィー・シェヒニアンと結婚した。2017年に彼女が自作のドキュメンタリー映像作品『アーティスト・プロファイル・アーカイブ』の撮影でロンゴをインタビューしたときにふたりは出会った)。

 スタジオの中は体育会系の男子ロッカールームに置かれているようなガラクタであふれている。たとえば壁には鹿の頭の剝製が金具で固定されている。また、1974年出版の雑誌『アートフォーラム』の誌面に、彫刻家リンダ・ベングリスが自ら全裸になり、バイブレーターをまるで拳銃を構えるかのように手に握って、ポーズをとっている彼女自身の広告写真が掲載されて話題となったが、その広告写真を印刷したTシャツも額に入れて飾ってある。シンクの側には、バービー人形より少し大きいサイズの人型の骸骨(がいこつ)模型が鐘型の透明な容器の中に起立した形で飾られている。

画像: ロンゴのスタジオ内にある制作中の絵画。2024年にカリフォルニア州ゴーマンで起きた山火事の現場で消火活動中の消防士たちを描いている。

ロンゴのスタジオ内にある制作中の絵画。2024年にカリフォルニア州ゴーマンで起きた山火事の現場で消火活動中の消防士たちを描いている。

 作業スペースは散らかっておらず、彼が今関心をもっているテーマを扱った数々の作品が飾られている。たとえば今年9月からペース・ギャラリーで開催中の展覧会にも出展されている、3枚のパネルで構成された絵画作品もそこにあった。縦2.4m×横3.65mの大きさの1枚目のパネルには、ウクライナの兵士が榴弾砲を操作している姿が描かれている。2枚目のパネルにはイスラム教の聖地であるメッカに集まる人々を空中から見た様子が描写され、3枚目のパネルには2024年にカリフォルニア州のゴーマンで起きた山火事の火災現場で消火活動にあたる消防士たちの姿が描かれている。そのどれもが新しい報道写真が原案だ。構図を圧倒的に拡大し、単純化し、スムーズな構成に整え、時にはほかの数枚の写真から細部の構図を借りてきたうえで、彼は紙の上に木炭を走らせて色をつけていく。ロンゴはそれらの作品のテーマを左から右へと早口で説明した。「戦争、宗教、そして自然環境だ」

 彼と同年代で似たような属性の人々と同様、ロンゴは今でも毎朝、紙の新聞を購読している。私が彼のスタジオを訪れたとき、彼は膝の上にニューヨーク・タイムズ紙を開いていた。彼はページをめくりながらいつも写真をくまなく徹底的に探す(コロナ禍の間、彼は1年分の新聞紙を集めて3m近い高さに積み上げ、それを青銅で鋳造した作品をペース・ギャラリーで2021年に展示した)。彼の人生の転機のひとつともいえる瞬間には象徴的な写真が深く関わっている。1970年5月にオハイオ州のケント州立大学でベトナム戦争に反対する学生たちのデモが行われ、オハイオ州兵が4人の学生を射殺するという事件が起きた。地面に膝をついている14歳のメアリー・アン・ヴェッキオの横で、うつ伏せに倒れて死んでいるのが、ロンゴの高校時代の友人で当時20歳のジェフリー・ミラーだった。そのとき以来マスメディアの報道は彼にとって個人的な出来事になった。

 ロンゴはニューヨーク州ロングアイランド中央部のプレインビューという街で育った。「ヒッピーだけど運動はできた」と自身を形容するロンゴは高校時代、アメリカン・フットボール選手だったが、識字障害のために読書をすることや時刻を認識することも難しかった。だが絵を描くことと映画を観ることは好きだった。学校の成績は芳しくなかったが、ベトナム戦争時に軍隊に徴兵されるのを避ける手段として大学に進学することは彼にとって重要だった。テキサスの大学を中退したあと、一時期イタリアのフィレンツェで美術修復の技術を学んだ。その後、ニューヨーク州のバッファローにある、当時、州立大学カレッジと呼ばれていた、現在のバッファロー州立大学に編入して彫刻を勉強した。キャンパスで出会ったのが同じ美術専攻のシンディ・シャーマンだ。彼女が育ったのはロングアイランドのハンティントンで、ロンゴの故郷の近くだった。ふたりは恋人同士になり、別れたあとも友人関係がずっと続いている。

画像: 報道写真を元にした別の絵画作品。2015年にセルビアの受け入れセンターで手続きを待つシリアとイラクからの難民たちを描いている。 ROBERT LONGO, “UNTITLED (SYRIAN AND IRAQI REFUGEES WAIT IN LINE FOR DOCUMENTS AT PROCESSING CENTER IN PRESEVO, SERBIA; THURSDAY, AUGUST 27, 2015; BASED ON A PHOTOGRAPH BY SERGEY PONOMAREV),” 2018, CHARCOAL ON MOUNTED PAPER, COURTESY OF ROBERT LONGO STUDIO © 2025 ROBERT LONGO/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

報道写真を元にした別の絵画作品。2015年にセルビアの受け入れセンターで手続きを待つシリアとイラクからの難民たちを描いている。

ROBERT LONGO, “UNTITLED (SYRIAN AND IRAQI REFUGEES WAIT IN LINE FOR DOCUMENTS AT PROCESSING CENTER IN PRESEVO, SERBIA; THURSDAY, AUGUST 27, 2015; BASED ON A PHOTOGRAPH BY SERGEY PONOMAREV),” 2018, CHARCOAL ON MOUNTED PAPER, COURTESY OF ROBERT LONGO STUDIO © 2025 ROBERT LONGO/ARTISTS RIGHTS SOCIETY (ARS), NEW YORK

 ロンゴとシャーマンはオルブライト=ノックス美術館(現・バッファローAKG美術館)をよく一緒に訪れた。当時からすでにロンゴは饒舌に語るのが好きだった。「彼は私にとって現代美術を手ほどきしてくれた人だった」と彼女は言う。時にはロンゴは解説したあとにシャーマンにクイズを出すこともあった。ふたりは友人たちとともにホールウォールズという名の、小規模だが影響力のある非営利団体の美術スペースをバッファローで立ち上げた。「だってほかに誰も私たちの作品を展示してくれなかったから」とシャーマンは笑いながら当時のことを語る。彼らはコンセプチュアル・アーティストのソル・ルウィットやロバート・アーウィン、ジョナサン・ボロフスキーらを招いて活動した。その後、ふたりはマンハッタンの中でも当時はかなり寂れていた地域、現在で言うサウス・ストリート・シーポート周辺に引っ越して、バッファローで培ったネットワークをさらに広げていった。

 ロンゴは自分の野心を一切隠さなかった。キュレーターで美術歴史家のローズリー・ゴールドバーグは、ニューヨークに引っ越してきて間もないロンゴとシャーマンに会っている。ゴールドバーグは80年代初頭に、ロンゴが彼女に「すべての人々に名前を知られる存在」になりたいと語ったことを覚えている。ゴールドバーグはそのとき「え、消毒漂白剤のクロロックスみたいに?」と返答した。

 ロンゴの自信はレーガン時代のアメリカの、肩で風を切るようなエネルギーとぴったり重なっているようだった。若くて見た目がよく、自信満々な者には金と名声が向こうからすぐに寄ってきた(ジュリアン・シュナーベルやジャン=ミシェル・バスキアしかり)。「自分のアートは世界を変えると思う」とロンゴは1985年にニューヨーク・タイムズ紙の取材で語っている。彼とシャーマンがパーティを開き、アンディ・ウォーホルがやってくると、ロンゴの機嫌は悪くなった。「自分はとっさに『彼のことは招待してない!』と反応したんだ」と友人のキアヌ・リーブスに向かってインタビュー・マガジンの取材で語っている。「今あのときのことを思い出すと『自分はいったい何を考えていたんだ?』と思うけど、そのぐらい、自分たちより先に活躍していた人間たちが邪魔で、自分たちがスポットライトのあたる場所を席巻したかったんだ」

「あの頃、自分は傲慢なほど自信にあふれていた」と彼は私に言う。「ポロックがピカソを殺したいと思っていたというのをどこかで読んだことがある。自分は基本、ウォーホルを殺したいと思っていた」

 だが、ウォーホルの作風は色彩鮮やかで、対象物に感情を投影しないのに対し、ロンゴが描くポップはシリアスで終末的だった。彼はかつて1万8000発の実弾を使い、直径91㎝の球形の彫刻をつくったことがある――この弾の数は1993年の1年間にアメリカ国内で、自殺を除き、銃によって殺された人々のおよその数に等しい。同じ彫刻を2018年に再現したときには、銃による殺人の数が倍増したことを表現するために、4万4000発の実弾を使って作品をつくった。彼はこの二つの作品をどちらも《死の星》と名付けた。――後編に続く

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