コーヒー好きに愛された銘店の主。理想の味を求める熱意は今もたぎっていた。惜しまれつつの閉店から9年間に脳裏をよぎったもの。コロナ禍を生き、感じたこと。かつてカウンターで一滴一滴の雫を見つめたように、滲み出る言葉を拾った

BY MICHIKO OTANI, PHOTOGRAPHS BY MASANORI AKAO

 東京でもっとも多くの人々が行き交う交差点のひとつ、表参道。そのほど近くのビルの2階に、一軒のコーヒー店があった。

 ドアを開けた瞬間から鼻孔をくすぐる、コーヒーの芳醇な香気。落ち着いた色で統一された調度。低く流れるジャズ。席に座ると、外の喧騒がたちまち遠くなり、せわしなかった時計の針の動きが弛緩していく。

 そうしてひとときたった頃、一杯のコーヒーが運ばれてくる。濃く、しかし透き通った深い色。そして、カップに口をつけると流れ込んでくるのは─舌にその記憶をもつ人も、そして人づてに聞いたその味に思いを馳せた人もさぞ多いことだろう。世のコーヒー愛好者に名を知られた大坊珈琲店の記憶は、2013年の閉店から9年の歳月が流れた今なお、鮮やかだ。

画像: 最初の1杯は豆20gに湯100㏄。店では「No.3」と呼ばれていた。豆の量と湯の量で濃淡5段階を選べるブレンドコーヒーが、大坊珈琲店の看板だった

最初の1杯は豆20gに湯100㏄。店では「No.3」と呼ばれていた。豆の量と湯の量で濃淡5段階を選べるブレンドコーヒーが、大坊珈琲店の看板だった

 その場所の名残をとどめた場所が、東京の一隅にある。店主・大坊勝次の自宅にある「コーヒールーム」。静かな応接室だ。「閉店してからどうするかを考えたとき、選択肢のひとつが『何もしない』ことでした。ただ、閉店後も焙煎できる場所を見つけるとしたら、やはりそこで一杯のコーヒーを飲めるようにするのかな……と考えていたところ、知人の紹介してくれた建築家が『じゃあ、ここに作りましょう』と」

 かつて店舗にあったカウンターや棚が設えられ、コーヒー豆を分銅で量る天秤型の秤、使い込まれたミルが置かれている。壁に掛けられた絵画も、さりげなく飾られた花と花器も、見覚えのある景色だ。「では、コーヒーを作りましょうか」。そう言って大坊は豆を量り、挽き、器具を揃えた。一連の淀みない作業が終わる頃、湯が手もとに届く。温度は、心持ちぬるめの80℃。年代もののレコードプレーヤーに針を落とすと、大坊は台の前に立ち、少し体を傾ける独特の姿勢でドリップを始めた。

画像: (左)豆は粗挽き。つきものの微粉は「さほど気にしません」と大坊。ネルドリップの器具は、円形にした針金にヤスリの柄を取りつけ、そこに厚手の片ネル生地を縫いつけたオリジナル (右)ぬるめの湯を静かに滴下。「とにかくゆっくり」なので、特別な蒸らしの時間もとらない。ポットではなくネルの側を手のひらで球を転がすように動かし、常に中心に湯を落としていく

(左)豆は粗挽き。つきものの微粉は「さほど気にしません」と大坊。ネルドリップの器具は、円形にした針金にヤスリの柄を取りつけ、そこに厚手の片ネル生地を縫いつけたオリジナル
(右)ぬるめの湯を静かに滴下。「とにかくゆっくり」なので、特別な蒸らしの時間もとらない。ポットではなくネルの側を手のひらで球を転がすように動かし、常に中心に湯を落としていく

画像: (左)ポットに残った湯で器を温め、布巾で拭く。どの作業も丁寧に (右)コーヒーを手鍋にドリップするのは、正確な量を把握するため。量が多いときは二つの手鍋に分け、濃さを調整してから器に注ぐ

(左)ポットに残った湯で器を温め、布巾で拭く。どの作業も丁寧に
(右)コーヒーを手鍋にドリップするのは、正確な量を把握するため。量が多いときは二つの手鍋に分け、濃さを調整してから器に注ぐ

 大坊珈琲店は、実にすがすがしいコーヒー店だった。店の看板であるブレンドコーヒーは1種のみ。4つの異なる豆を、その特徴ごとにわずかな差をもたせて焼き分け、混ぜるのだが、生豆のもつ酸味が消え深煎りの苦みが増す直前、奥行きのある甘みが出現する瞬間が、大坊のローストポイントだ。

「焙煎の具合を見極めるのは、私にとっては色み。店より明るい家の台所で焼くようになったので、以前よりもポイントの決め方が明確になり、かつ、厳しくなったと思います。抽出には、何の技術もありません。とにかくゆっくりやること」と大坊。岩から水が滴るようにポタリ、ポタリと湯を落とす。最初に現れるのは香り。続いて、琥珀色の雫。マイルス・デイヴィスが1曲吹き終わる頃に、珠玉の一杯ができ上がる。

「苦くないですか? 苦いですよね(笑う)。コーヒー店には『あなたのお好みに合わせます』というやり方もありますが、私としてはこのローストポイントをおいしいと感じるので、お出ししていました。実は、店を始めるまでも今も、嗅覚や味覚にはそれほど自信はないんです。でも、なぜかコーヒーの味だけは自分が決めるんだという思いが、最初からありました」

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