わかりやすい解釈や分類をはねつける作品を世に送り出し、カタリーナ・フリッチュは女性の目線を形にする稀有な芸術家となった

BY MEGAN O’GRADY, PHOTOGRAPHS BY BERNHARD FUCHS, TRANSLATED BY NHK GLOBAL MEDIA SERVICES

「5歳のときには、自分は芸術家になるとわかっていました」。フリッチュは、オーバーカッセルにあるイタリアンレストランでランチをしながら回想した。オーバーカッセルは、デュッセルドルフの旧市街からライン川を渡ったところにある中産階級の町で、実験的芸術家のヨーゼフ・ボイスが1986年に亡くなる前に住んでいたところだ。フリッチュの母方の祖父は、筆記具メーカーのファーバーカステルのセールスマンで、彼の家のガレージにあった大量の画材は、幼いフリッチュを魅了した。

「そこはパラダイスでした」と彼女は回想する。「色とりどりの鉛筆に夢中になったものです」。フリッチュは1950年代のランゲンベルクと1960年代のミュンスターで育った。いずれの町も、労働者階級の人々が暮らすエッセンの近郊だ。エッセンはドイツにおける重工業の中心地であるルール地方の中央に位置する都市である。そのため、フリッチュの周りには、芸術の道に進む人はあまりいなかった。「両親は私が一生お金を稼げないのではと、ひそかに心配していたかもしれませんが、絵を描くことを応援してくれました」と振り返り、「いつも五感を刺激される、非常に芸術的な環境で育ったのです」と語る。

 だが、ゴシック調のものも目にしていたようで、フリッチュは信心深い母方の祖母に連れられて、たびたびドイツの教会を巡り歩いた。13世紀に建てられたバンベルク大聖堂の有名な納骨堂を訪れたこともあるという。「子どもの頃にカトリックの教会に行って、そこにある像などを見るのは、印象的な体験でした。かなり残酷なものもあって、心を引きつけられました」と彼女は話す。「十字架からぶら下がっている人とか、ガラスの棺の中の骸骨とか?」と聞くと、「ええ」と彼女は笑う。「悪夢を見てしまいそうですが、印象深く、力強いものでした」。同じ頃、アメリカ生まれの音楽や安っぽいコマーシャル製品が西ドイツを征服しようとしていた。

「私はミッキーマウスやバービー人形が大好きでした」とフリッチュは思い出す。「そういうものを子どもに与えない親もいましたが、私の両親や祖父母は、あまり気にしていませんでした。私も友人たちも、アメリカ風なものにあこがれていました」。フリッチュはミュンスター芸術アカデミーを志望するものの不合格になり、ミュンスター大学で歴史と美術史を学ぶ。「美術史は、まったく好きになれませんでした。埃っぽくて、生命感がなくて――芸術は生きているものであるべきです」と彼女は語り、ボイスのほか、ゲルハルト・リヒターやアンゼルム・キーファーがいた有名なデュッセルドルフ美術アカデミーは「もっとクールに見えました」とつけ加えた。

 1978年のある夜にフリッチュは、ボイスとビデオアートの開拓者ナム・ジュン・パイクによるパフォーマンスを観に、デュッセルドルフへ出かけた。当時、このふたりは美術アカデミーで教鞭を執っていた。そのパフォーマンスはフルクサスという幅広いジャンルにまたがる前衛芸術運動を率いたジョージ・マチューナスを追悼するイベントだった。フルクサスは初期には過激なパフォーマンスを中心に実験芸術を育み、また一方では日常生活における芸術作品の価値を強調した。

「印象的な体験でした」と彼女は思い出す。「6人で小さな車に乗って出向くと美術アカデミーのあたりはかなり賑わっていました。当時はニューウェーブとパンクが盛り上がっていたのです」。芸術家のイミ・クネーベルの妻のカルメン・クネーベルが、デュッセルドルフでストーン・イム・ラーティンガー・ホーフというライブハウスを運営していた。ここは同時代にニューヨークにあったマッドクラブと同じようにアーティストたちを引きつけ、ジグマー・ポルケやボイスらが、「ノイ!(Neu!)」や「クラフトワーク」などのクラウトロック・バンドのライブに集まった。フリッチュはデュッセルドルフにあるドイツで最も有名な美術アカデミーに志願し、入学を認められた。

 ボイスのおかげもあり、60年代から70年代のデュッセルドルフは、過激な解放運動の中心地としてコンテンポラリーアートの重要な勢力となった(ボイス自身は、美術アカデミーへの入学を拒否された学生50人を自分のクラスに受け入れ、1972年に教授職を解かれた)。彼の影響力はその後も学内で生き続け、キーファーやリヒターなど著名な画家だけでなく、フリッチュの世代の学生も感化された。その中にはフォトグラファーのカンディーダ・ホーファーとトーマス・ルフもいて、フリッチュとルフは今も仲がよく、しばしばコラボレーションをしている。

 ボイスは、すべての人は芸術家になれるだけでなく、すでに芸術家である、と考えていた。彼の「何でもあり」の精神は、彼自身の哲学だけでなく、戦後の西ドイツの混乱をも映し出すものだった。この世代の芸術家は、第二次世界大戦後の分断され、反省を強いられていたドイツに生まれ、その後の「ヴィルトシャフトヴンダー」と呼ばれる経済の奇跡的な再建と成長の時代に育った。この時代、ルール地方は工業地帯として中心的な役割を果たした。近代的な工業大国としての復興と、第二次世界大戦の歴史との折り合いをつけられずにいる国民の不安定な心情が、この時代のアートを特徴づけている。

 それはアイデンティティの危機をテーマにするというより、そのままを体現するものだ。その結果、コンテンポラリーアートの歴史の中で最もスリリングで革新的な時期のひとつになったのだ。ボイスの特に有名な作品のひとつは、1982年に西ドイツの工業都市カッセルの周囲に7,000本のオークの木を植えたものだが、彼はかつてこのように書き記した――「芸術だけが、老朽化し、ぐらついている瀕死の社会制度の抑圧からわれわれを解放する」。フリッチュの世代の芸術家が、みな、長年にわたり何かしらの形で取り組んでいる問題がある――芸術とはどのようなものであるべきか、誰がそれを決めるべきか、ということだ。そのため彼らの作品は、人工的な世界や消費者文化に対する相反する感情を映し出している。

画像: フリッチュのトレードマークとなった雄鶏など、スタジオにあった未完成の彫刻。ポリエステルとファイバーグラスを材料に使用し、アクリル系塗料や工業用ラッカーで塗装をする

フリッチュのトレードマークとなった雄鶏など、スタジオにあった未完成の彫刻。ポリエステルとファイバーグラスを材料に使用し、アクリル系塗料や工業用ラッカーで塗装をする

 象徴的な意味と見た目どおりの意味、生き物と無機物の間の境界線をまたぐフリッチュの芸術。それ自体が、日常をより高い領域に引き上げることや、急速に変わる世界の中でアイデンティティや真実を求めることの不毛さについて相反する感情を表す批評である。しかしその独特な美学には、彼女を育んだ戦後の環境を超越した、大きな世界があるように感じられる。また、彼女の作品は、ルネ・マグリットからカジミール・マレーヴィチまで、多種多様なものを引用しているように見える。そこには人を挑発したいという、パンクの精神に通じる欲求もある。

 1970年代末、彼女が入学した当時、美術アカデミーではまだ主流は絵画だったが、彫刻科に進んだフリッチュは、そこに自由を見いだし、(ボイスと親交があった)芸術家のフリッツ・シュヴェーグラーという恩師と出会い、彼女にインスピレーションを与えてくれる大勢の友人と巡り合うことができた。友人のひとりはベラルーシのミンスクで生まれた彫刻家アレクセイ・コズカロフで、フリッチュは彼と何度か一緒に作品を展示している。

 大量生産や工業的プロセスに関心をもつようになったのは、アンディ・ウォーホルではなく、ランゲンベルクの祖父の影響だったと彼女は語っている。フリッチュは最初に既製品で実験し、花に吹きつけ塗装をしたり、おもちゃの自動車に自動車用の塗料を塗ったりした。大きく飛躍するきっかけとなったのが、1987年に手がけた作品、等身大のカドミウム・イエローの聖母像だ。同年、この作品はカトリック都市のミュンスターの広場に設置され、初めて公共の場に展示された彼女の作品のひとつとなった(この彫刻はその後、鼻を折られ、何度か体に落書きをされた)。「初めて聖母を黄色く塗ったときは、かなりの反響がありました」と振り返る。「今はみんな同じようなことをしていますが、当時は新しい発明のようなものだったのです」。

 9年にわたって美術アカデミーで彫刻を教え、最近、教授職を引退したフリッチュは、かつてそこにあったはずの即興的な創作、斬新なアイデアやフォルムなどを積極的に受け入れる姿勢が失われたことを嘆いている。彼女が暮らすドイツは今、ほころびが目立ちはじめた西欧の民主主義のリーダーのような存在だが、このような時代になり、彼女の彫刻がますます謎めいたものに感じられるようになった。先進国の多くが難民の受け入れを拒否しているこの時代に、キリスト教のシンボルはどのような意味をもつのだろうか? おとぎ話とは安住の地を探し求める人々の物語ではないのだろうか? フリッチュの芸術はこのような疑問を提起するだけで、それに答えようとはしない。彼女の作品が解釈を寄せつけないのと同じように、彼女自身も、自分の人格形成期から深い意味を読み取ろうとはしない。物の少ない時代に、毒性のある材料を扱って発疹を起こしたりしながら、さまざまな材料で実験することに自分は夢中になっていた、と言うだけだ。

「当時はみんな生活が苦しく、景気もよくありませんでした」と彼女は言う。「でも私たちはあまり気にしていませんでした。お金がないのはみんな同じでしたから。素朴な時代でしたね。無邪気に暮らしていました」

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