バルテュスの娘であるジュエリー・デザイナーが歴史的価値のあるスイスの山荘での夢のような生活と非凡な少女時代の思い出を振り返る

BY HILARY MOSS, TRANSLATED BY MAKIKO HARAGA

 ハルミ・クロソフスカ・ド・ローラが最初に住んだ家は、ボルゲーゼ公園のはずれにある広大なルネサンス様式のヴィラ・メディチだ。1960年代初頭から70年代末まで、バルテュスの名で知られる父、画家のバルタザール・クロソフスカ・ド・ローラが館長を務めた在ローマ・フランス・アカデミーの居宅である。現在40代の彼女は当時、淡いピンクの石や青緑のモザイクのガラス片など、父に見せる宝物を探して庭を歩き回った。のちに、父がそれを全部ベッド脇のいちばん上の引き出しにしまっていたことを知った。
 ショパールやブシュロン、自身のコレクションでハイジュエリーを手がけるデザイナーの、遊び心と東洋的な洗練を備えた幻想的な美学はこうした体験によって育まれた。彼女が5歳のとき、バルテュスのアカデミーでの任期が終了し、一家はスイスのロシニエール村にあるグラン・シャレに居を移した。1700年代半ばに造られた、欧州最大の木造住宅のひとつである。彼女は今もここで、パートナーで写真家のブノワ・ペヴェレリとふたりの息子たち、母の節子・クロソフスカ・ド・ローラ(日本生まれの画家で、バルテュスより34歳年下)とともに暮らし、仕事をしている。父が1967年に購入し、今は異母兄であるスタニスラスが住む中世イタリアの古城「モンテカルヴェッロ城」にも、一家は時折滞在する。

画像: 「2013年、グラン・シャレの前でパートナーのブノワが撮影した写真。父が買う前、ここはホテルでした。何千冊もの本や、イギリス人宿泊客の古いスキー板が今も残っています。母もブノワも私も、ここにおのおののアトリエを持っています。都会のアパートメントみたいに、ひそやかに歩くみんなの足音が聞こえます」 PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI

「2013年、グラン・シャレの前でパートナーのブノワが撮影した写真。父が買う前、ここはホテルでした。何千冊もの本や、イギリス人宿泊客の古いスキー板が今も残っています。母もブノワも私も、ここにおのおののアトリエを持っています。都会のアパートメントみたいに、ひそやかに歩くみんなの足音が聞こえます」
PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI

 子どもの頃、スイスの大きな山荘には芸術家や映画監督や粋な文化人がひっきりなしに訪ねてきた。アンリ・カルティエ=ブレッソンに撮影してもらい、フェデリコ・フェリーニとお茶を飲み、デヴィッド・ボウイが父にインタビューするのを見たりもした。彼女の宝物のひとつである珊瑚とシルバーのカフスは、イヴ・サンローランのミューズであり、もうひとりの異母兄タデの妻だったルル・ドゥ・ラ・ファレーズから12歳のときにもらったものだ。

 クロソフスカのデザインは緻密な下絵から始まる。山荘の曲がりくねった小径を延々と歩きながら、日本人の美学「わび・さび」――不完全の美について静かに考える。「私はずっと、宙に浮かんだ世界で生きています」と彼女は言う。「私のホロスコープを作ってもらったら、土のエレメントがひとつもなかった。水と火と風はあるのに。これはとても珍しいことなんです」

画像1: COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA

COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA

「机の上にあるのは私が描いたもの。パンサーは油絵の具、それ以外は金銅です。こういう作品は集中するのに時間がかかり、少しでも気が散るとダメ。オブジェは手を止めるのも再開するのもラクだけど、それとは勝手が違います。真っ白い紙と向き合うと、ぐずぐずしてしまいがちです」

画像1: PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI

PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI

「私の母と、彼女のヨガの師だった中村天風先生。母は7歳くらいのとき、 あやうく結核で命を落とすところでしたが、先生が治してくださいました」

画像: (FROM LEFT)PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI, PHOTOGRAPH BY ANDRÉ CARRARA

(FROM LEFT)PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI, PHOTOGRAPH BY ANDRÉ CARRARA

(写真右)「あるとき父のアトリエに入ると、父は鏡で自分の絵を見ていました。鏡は絵の欠点をすべて映し出すのだと。私はスクリーンに大きな作品を描くとき、この鏡を使っています」

(写真左)「この美しい木は母の作品で、木に夢中な私にぴったりなじみます。子どもの頃、母はいつもお話を作ってくれました。私が髪を洗うことを嫌うので、母は独創的な、とても怖いお話をひねりださなければなりませんでした。こういうのは、とてもアジア的な習慣だと思う。母はときどきお話の世界に入り込みすぎて、泣いてしまうこともありました」

画像2: PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI

PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI

「兄のタデは愛車のクラシック・カー、フォルクスワーゲン・ビートルのコンバーチブルで、風の強いウンブリアの小径を走り回ります。この日は私の息子センと田園地帯まで長距離ドライブに出かけました」

画像: (FROM LEFT)COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA, PHOTOGRAPH BY SETSUKO KLOSSOWSKA

(FROM LEFT)COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA, PHOTOGRAPH BY SETSUKO KLOSSOWSKA

(写真左)「父の母。バラディーヌという素敵な名前で、クロソフスカ家の歴史に大きな影響を与えた人物です。祖母は、詩人のライナー・マリア・リルケの愛人で、彼女自身も画家でした」

(写真右)「5 歳まで、ヴィラ・メディチのトルコ風の部屋で暮らしました。 特に覚えているのは、そこの照明とタイル。私の初のジュエリー・コレクションは、このふたつから色の着想を得ています」

画像2: COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA

COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA

(写真左)「ネコ科の動物に魅了されて、最新コレクションからこんな指環を作り始めました。黒檀と象牙など、中心となるのは素材の対比です。40歳の誕生日、ブノワがピューマの剝製をプレゼントしてくれて。 アトリエに置いてあるので、足を踏み入れるたびにビクッとします」

(写真右)「晩年の10年間、視力がひどく悪化した父はインスタントカメラを使い始めました。モデルのアンナは7歳から18歳か19歳の誕生日まで、毎週 水曜に被写体を務めていた。最後の最後まで、父は仕事を続けました」

画像3: COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA

COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA

「この椅子はルルが持っていたもので、 彼女の英国系の親族から受け継がれたもの。 彼女とタデが暮らしたパリのアパルトマンに置いてあって、兄は手放したくなかったと思うけれど、説得して譲ってもらいました」

画像: PHOTGRAPH BY WIM WENDERS

PHOTGRAPH BY WIM WENDERS

「この夏、ヴィム・ヴェンダースが父のアトリエを題材にした映画の撮影に訪れました。彼が撮った一枚に写っているのは母、ブノワ、哲学者のグイド・ブリヴィオ。つい最近、ヴィムの『Every Thing Will Be Fine』を観ました。 最初はなぜこれを3Dで撮影したのかしらと思ったけれど、観終わって、3Dは感情を際立たせるのだとわかりました」

画像: (FROM LEFT)PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI, COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA, PHOTOGRAPH BY BALTHUS

(FROM LEFT)PHOTOGRAPH BY BENOÎT PEVERELLI, COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA, PHOTOGRAPH BY BALTHUS

(写真左)「結婚式当日の祖父母。祖父は2001年、父より1カ月早く亡くなりました。物書きで、大学で詩を教えていました。亡くなる1年前、私たちに会いにスイスを訪れたとき、『いやはや、私だって若い奥さんをもらいたいよ。でも、ちょっと歳をとりすぎてしまったね』と言っていました。ユーモアにあふれた人でした」

(写真右)「センが5歳のとき、七五三のお祝いのために私たちは日本へ行きました。男の子は5歳になると、生まれてはじめて男性の伝統的なはきものである袴を着て、刀を持つことが許されたという昔のしきたりの服装です」

画像: PHOTGRAPH BY DONATA WENDERS

PHOTGRAPH BY DONATA WENDERS

「父が亡くなる前年の2000年、ヴィム・ヴェンダースと彼の妻、ドナータがスイスの館へ訪ねてきました。知らないうちに、私が絵を描く用意をしているところをドナータが写真に撮っていました」

画像4: COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA

COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA

(写真左)「ショパールのために作ったジュエリーの下絵。ブラックマンバというヘビは、とても優美です。ネックレスやブレスレット、ベルトとしても使えるようにしたいと考えました。 長さは1 メートルで、全体が柔軟にできています」

(写真右)「モンテカルヴェッロの柱廊は、私にとって、世界でもっとも美しい場所のひとつです。ここで私は子どもの頃、遠くにイタリア語を聞きながら眠りにつきました。今もイタリア語を耳にするたびに、守られているという気がしてほっとするのです」

画像: (FROM LEFT)COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA, PHOTOGRAPH BY KATERINA JEBB

(FROM LEFT)COURTESY OF HARUMI KLOSSOWSKA, PHOTOGRAPH BY KATERINA JEBB

(写真左)「このチーターを描くのに、数日かかりました。父はひとつの作品を仕上げるのに、2〜3年かけていました。強迫観念のようなものに取りつかれていた父は、あるとき完成間近の作品を見て背景のタイルが2センチずれているのに気づき、全部最初からやり直したのです」

(写真右)「ショパールのために制作したドラゴンを、友人のカテリーナ・ ジェブが撮影してくれました。ドラゴンは、ありとあらゆるものを―雷も嵐も ―燃やして食べてしまう獣。欲望というものの正体に近いかもしれません」

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