日本にル・コルビュジエの作品はたったひとつしかない。だが、日本のモダニズム建築の多くは、ル・コルビュジエから始まったと言っても過言ではない。そこには、ル・コルビュジエの思想と日本人のアイデンティティとを融合させようとした建築家たちの苦闘の歴史が刻まれている

BY NIKIL SAVAL, PHOTOGRAPHS BY ANTHONY COTSIFAS, TRANSLATED BY FUJIKO OKAMOTO

 丹下健三とその仲間の建築家グループはかつてないメガストラクチャー(巨大構造体)を構想し、マニフェストを掲げて「メタボリズム」と呼ばれる建築運動を展開していった。彼らはル・コルビュジエの精神を受け継ぎながらも、それをはるかに超える野心を抱いていた。メタボリストたちが描いていたのは、海上や空中に都市が広がる未来の日本の姿だった。こうした構想は、日本のモダニズムが独自の力をもつまでに成長したことを示すものだった。ある意味では、ル・コルビュジエの夢がグローバルな形で実現したとも言えるだろう。

画像: ほかの写真をみるル・コルビュジエのもとで学んだ坂倉準三が設計した新宿駅西口

ほかの写真をみるル・コルビュジエのもとで学んだ坂倉準三が設計した新宿駅西口

 ところがわずか数年ののち、彼らの野心に対抗する好敵手が現れた。同じくメタボリストの黒川紀章が設計した、〈中銀カプセルタワー〉(1972年)である。現在では、日本におけるル・コルビュジエ的モダニズムの代表作であり、最高到達点でもあると考えられている。積み重なった箱型の部屋が不規則に飛び出した外観は完成直後から注目を集め、当時の未来を象徴する建物となった。〈中銀カプセルタワー〉は、慢性的に忙しい“サラリーマン”が仕事のある平日に利用する場所として建てられた。各部屋は宇宙船ポッドのような狭苦しいカプセル型。独身者が最低限必要な当時の最新設備(オープンリールのテープデッキなど)を備えており、部屋ごと交換が可能である。ただし、今まで一度も交換されたことはない。2017年10月の雨の日、筆者が見学したときは老朽化がかなり進み、階段から水が漏れていた。アーティストが利用している部屋もいくつかあるが、ほとんどは空室になっている。

 メタボリストたちの誇大妄想は、日本のバブル時代まで生き延びることはできなかった(もちろんバブルは崩壊したが)。彼らのメタボリズム運動に新陳代謝(メタボリズム)は起こらなかったのだ。かつてメタボリズム・グループのメンバーだった磯崎新は、ほかのメタボリストたちとは異なる独特な形で日本の遺産を表現した。戦後の焼け野原を原風景とし、どんな建物もいずれ廃墟になるという持論を掲げる磯崎の作品は、第二次世界大戦で焦土と化した日本のイメージを思い起こさせるものだった。

一方、丹下健三に次いでおそらく最も成功を収めた日本人建築家である安藤忠雄は、「内省の美学」を追求した。安藤が造る家や美術館は声高に存在を主張しない。そこにあるのは静かな空間だ。彼はコンクリートそのもの(=コンクリート打ちっ放し)の表情を世界に見せつけた。ガラスの外壁をデジタルスクリーンで覆った「メディア・アーキテクチャー」が一時、ステレオタイプな日本のイメージになったこともある。これもまた、日本がモダニティという考え方にいかに積極的に飛びついていったかを示すひとつの証左だ。

創成期、戦後日本の復興はどうあるべきかという激しい論争の象徴であったモダニズム建築は、今では最も静謐な構造物として安らいでいる。2016年、〈国立西洋美術館〉はユネスコの世界遺産に登録された。アテネのアクアポリス、アルハンブラ宮殿、奈良や京都の歴史的建造物と並んで、後世に残る建築の遺産となったのである。

PRODUCER:AYUMI KONISHI (BEIGE & COMPANY). PHOTOGRAPHER’S ASSISTANT: CALEB ANDRIELLA

ル・コルビュジエは日本のモダニズム建築に何を遺したのか<前編>へ

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