日本にル・コルビュジエの作品はたったひとつしかない。だが、日本のモダニズム建築の多くは、ル・コルビュジエから始まったと言っても過言ではない。そこには、ル・コルビュジエの思想と日本人のアイデンティティとを融合させようとした建築家たちの苦闘の歴史が刻まれている

BY NIKIL SAVAL, PHOTOGRAPHS BY ANTHONY COTSIFAS, TRANSLATED BY FUJIKO OKAMOTO

 モダニティに対する日本の不安というのは、カルチュラル・スタディーズ(多元的かつ批判的な視点からの文化研究)によく登場する決まり文句でもある。しかし明治時代(およそ1868年から1912年)の日本と西欧の文化が類似していたからといって、それをもって日本におけるモダニズムのさまざまな様式を説明するのはあまりに安易だろう。なぜなら、フランスや英国などの西欧諸国と、日本のように世界から孤立した状態で資本主義的工業化の波を経験した国を比較してもまったく意味がないからだ。しかし、20世紀に入ってブルーノ・タウト、フランク・ロイド・ライト、ヴァルター・グロピウスなどのモダニズムを代表する建築家たちが日本を見て回り、モダニズム建築の先駆的事例を発見した(あるいは彼らがそう思った)ことは、日本のモダニズム建築の歴史を理解するうえで意義深い。

〈国立西洋美術館〉の設計を引き受ける頃には、ル・コルビュジエの美学はすでに成熟の域に達していた。日本の建築に対するコルビュジエの反応についてはほとんど記録に残っていないが、かつて前川の事務所で働いていたことのある建築史学者の松隈洋は、コルビュジエは美術学校の学生だった頃、木版画に深い感銘を受けたこと、1955年に来日した際に京都や奈良の代表的な寺院を見て回ったことなどを指摘している。コルビュジエの最後の著作では、〈国立西洋美術館〉の写真に添えたキャプションにこう書かれている。「すばらしく質の高い現場打ちコンクリートは、日本でしか見ることのできない熟練の技とクラフツマンシップを感じさせる」。建物を支える木目模様がつけられたコンクリートの細い柱は確かに、日本建築の伝統を思わせる。

 西欧の建築家は、日本の建築にモダニズムに欠けている部分を補ってほしいと考えていた。では日本の建築家は西欧のモダニズムに何を求め、モダニズムによって何をしたかったのか? 日本の建築家はヨーロッパモダニズムとの出会いによって、初めのうちはイノベーションを追求しながらも依然として「日本的なもの」を造ろうとする中で矛盾に陥り、やがてナショナリズム的な自己主張と不安との葛藤という状態に至った。

戦時中は物資の不足により、前川も木造建築を採用せざるを得なくなった。1942年に建てた自邸は1970年代に解体されたが、のちに再建され、新伝統主義の代表的建築とされた。急勾配の切妻屋根、日本の民家にある障子を彷彿とさせる格子枠のついたガラスの引き戸。家の南側正面に目立つように立つ木の柱に、伊勢神宮の「棟持(むなも)ち柱」(棟木を支える柱)を連想する人もいるだろう。ちなみに、前川はこれを「モダニストのピロティ(※2階以上で、1階部分が柱のみの建築物)」と名づけた。後年、戦時下や米国の占領下で巻き起こった「日本的なもの」を巡る昔ながらの問題に再び直面した前川は、やがて作品よりも雑誌や新聞で不快感を表明する傾向が強くなっていった。

画像: ほかの写真をみるル・コルビュジエの弟子のひとり、前川國男の自宅。現在は「江戸東京たてもの園」に移築

ほかの写真をみるル・コルビュジエの弟子のひとり、前川國男の自宅。現在は「江戸東京たてもの園」に移築

画像: ほかの写真をみる前川國男の自宅の内観

ほかの写真をみる前川國男の自宅の内観

『国際建築』は1953年に再び「ナショナリズムvs.インターナショナリズム」と題する討論会を企画した。参加者の中には、かつてのコルビュジエ派である前川國男や坂倉準三に加え、前川事務所で働いていた新進気鋭の天才建築家、丹下健三がいた。丹下は「その国の建築の外観を決定づけるのはテクノロジーである。米国に後れをとっている日本は、欧米とは異なる建築様式を表現せざるを得ない」と主張した。一方、前川は「日本的なもの」を建築で表現しようとする試みを、“劣等感”の裏返しとして否定した。「日本伝統論争」として知られるこの延々と繰り返される議論は、後世のモダニズム建築家の作品に対する人々の受け止め方にも影響を与えることになった。

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