BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY MIKAEL OLSSON,TRANSLATED BY MIHO NAGANO

「032c」という名の雑誌と同名のファッション・ブランドの責任者でもあるコッホ夫妻は、この家のオーク材のパネルを修復し、ピエール・オーガスティン・ローズ制作のソファとコーヒーテーブルを配置した。スタンド型の照明はインゴ・マウラー制作で、絵画はデヴィッド・オストロフスキーの作品
2018年9月、ファッション・デザイナーのマリア・コッホは、彼女の夫で雑誌編集者のヨルク・コッホに、ある邸宅が売り出されているという不動産情報を送った。それは、ベルリンのグリューネヴァルトの森の東端にある2 階建ての物件で、アルプス地方特有の建築デザインの家だった。通りから見ると、その邸宅は、まるでバイエルン地方のおとぎ話から抜け出てきたような外観が際立っていた。むき出しになった木製の梁、装飾的な錬鉄製の窓枠。正面から見ると、白い漆喰が塗られた外壁の上に切妻屋根がのっている形だ。富裕層が住むシュマルゲンドルフ地区のほかの住宅─ヨルクいわく「いかにも成金っぽい白亜の豪邸」─が並ぶ中で、この家はひときわ目立っていた。
だが、室内に入ると、壁から壁まで部屋じゅうにクリーム色のカーペットが敷き詰められ、絹のカーテンが掛かっており、まるで1980年代の通俗的なテレビドラマ番組のセットのように見えた。総床面積697㎡で、4つの寝室があるこの邸宅は、1935年に建てられた。1950年代からこの家を所有していた家具商人の一族の103歳の女主人が最後の住人で、彼女が亡くなってからは1年以上、空き家となっていた。壁には、黒い影のようになった部分が何カ所かある。それは、ルネサンス期のフランドル派の絵画が掛けられていた跡だ。1階にある室内プールのタイルはあらかた剝は がれ落ちていた。現在49歳のヨルクは、ベルリンから483キロほど西側に位置するヴッパータール市で育った。ヨルクは、この家の不動産管理をしているマネジャーが、ふたりに物件を案内しながらこう言ったのを覚えている。
「この家には興味深い歴史があるんだ。とあるドイツ人映画監督のために建てられたんだが、クリエイティブな業界で働いている君たちなら─彼女のことを知っているかもしれないな」。ヨルクと、彼の妻で、ドイツ中央部のゲッティンゲン出身の48歳のマリアの頭に浮かんだ人物は、ひとりしかいなかった。ふたりの予感どおり─この家の最初の所有者はレニ・リーフェンシュタールだった。『意志の勝利』(1935年)、そして二部作の『オリンピア』(1938年)などのナチスのプロパガンダ映画の監督を務めた人物だ─そしてふたりは、ヨーゼフ・ゲッベルスとアドルフ・ヒトラーの隣で彼女がポーズをとって佇んでいる、あの悪名高い一枚の写真が撮られたのが、この家の裏庭で行われたティーパーティでだったという事実に気づいた。

ベルリンにある、ヨルク・コッホとマリア・コッホの夫妻の自宅で。リビングルームに置かれたコンスタンチン・グルチッチ制作のペアの椅子が、庭の景色が見える窓に面して置かれている。
不動産を購入するのが初めてのこの夫妻の心は千々に乱れた。ある意味では、2 年以上ずっと探し求めた末にやっと出会えた、需要と予算にぴったりマッチする物件でもあった。だが、その一方、ま
るで歴史の針を巻き戻したようなこの家の魅力は、おぞましい過去と切っても切り離せない。リーフェンシュタールがもしこの家に住んでいなければ、この家は歴史的建造物として正式に認定されることもなかっただろうし、恐らく、この地区にあるほかの古い邸宅同様、とっくに解体されていただろう。また、リーフェンシュタール本人がデザインを考案したわけではないが、この家の設計を監督したふたりの建築家、ハンス・オストラーとエルンスト・ペーターゼンは、顧客である彼女から、家の
随所から山々のイメージを感じられるように設計してほしいという厳密な注文を受けていたことを、マリアはすかさず指摘した。リーフェンシュタールは、幼い頃から山を愛してやまなかったのだ。
ヨルクもマリアも、彼女の映像作品には、とりたてて興味はないと語った。リーフェンシュタールは、その優れた映画撮影の才能で知られるのと同じぐらい、後悔の念を決して口にしない頑固さでも有名だった。彼女の人生を題材にしたドキュメンタリー映画『レニ(The Wonderful, Horrible Life of Leni Riefenstahl)』(1993年)の中で、彼女は「ナチス党に入党したことは一度もない」と言い、「私が罪を犯したという証拠はどこにあるのか?」と語っている。だが、戦後、彼女はナチスの同調者のひとりだったと人々からはっきり認識されていた。彼女は1953年にこの家を約7,000ドルで売却し、その後のキャリアを写真撮影に捧げたのち、2003年にバイエルン・アルプス近郊にある自宅で101歳で亡くなった。「(彼女に対して)自分の中に湧き上がってくる感情と、彼女の作品を切り離して考えることは、とてもじゃないけど無理」とマリアは言う。「私たちの友人の中には、彼女が撮影した写真を蒐集している人もいるけど、私は絶対にそんなことはできない」
だが、ヨルクは、この建物がこれからどう変貌を遂げられるかという可能性に興味があったーー構造上の変化だけでなく、イデオロギー的にも。彼は2000年に「032c」という名のアートとファッションの雑誌を創刊した。この雑誌名は、世界共通の色見本であるパントンの赤の色彩チャート番号の中から選択した。そして2008年には建築家のジャック・ヘルツォークとレム・コールハース、そしてマーク・ウィグリーの3人が、ミュンヘンにある現代美術館ハウス・デア・クンスト(「芸術の家」の意)の将来について意見交換した内容を同雑誌に記事として掲載した。この美術館は、当時、ナチス政権の命令によって建てられた最初の主要な公共施設のひとつだった。この記事の導入部分にはこう記されている。
「この美術館を修復したり、何かをつけ加えたりすることは到底考えられず、不可能で、許容できないことでありーー倫理に反するとすら言えるーーそれをすべて踏まえたうえで、あえて問うが、我々は、果たしてどんな種類の罪を自ら犯す覚悟があるのだろうか?」
ヨルクはブラック・フラッグやマイナー・スレットなどのパンクバンドの音楽を聴いて育った。今でもストレート・エッジ(註:ハードコアパンクの中でも、飲酒、ドラッグ、喫煙などに手を出さないことを信条とするサブジャンルを指す)なハードコア音楽に心酔する未成年の若者のような格好をし、挑発的なことをするのが大好きだ。「そもそも、建築の世界に無垢など存在しない」と彼は言う。
「だが、あえて自ら進んで『あの、いわくつきの物件を買いたい』と意思表示するということは、もはや別次元の行動だ」

長さ12mの室内プールの横には、ベルリンを拠点とするフランス系スイス人アーティスト、ジュリアン・シャリエールの2019年制作の彫刻《カリプソ》が置かれている

ダイニングルームにはヘルツォーク&ド・ムーロン制作の照明と、ベルギー人家具デザイナーのマールテン・ヴァン・セーヴェレンの椅子、さらにこの家の以前の所有者が残していったマホガニー材のダイニングテーブルがある

2 階への階段を上がると、女優でモデルでもあるマルゴシア・ベラの彫刻も
▼あわせて読みたいおすすめ記事