安藤忠雄、妹島和世、そして磯崎新。日本が世界に誇る名建築家たちの貴重なインタビューや周辺取材を、アーカイブ記事から厳選してお届けする。

*記事内で紹介している内容は、記事公開時点のものです。

既成概念を軽やかに超える
建築家・妹島和世

【2017年11月公開記事】

BY JUN ISHIDA, PHOTOGRAPHS BY TAKASHI HOMMA

 今、世界で最も著名な女性建築家といえば、妹島和世だろう。日立製作所で働く技術者の父を持ち、茨城県日立市の社宅で育った妹島。日本女子大学で建築を学び、伊東豊雄の事務所に入った彼女は、1987年に妹島和世建築設計事務所を設立。そして1995年には西沢立衛(りゅうえ)とともに共同設計事務所SANAA(サナア)を立ち上げた。

「金沢21世紀美術館」(2004年)、「ニュー・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アート」(米・ニューヨーク、2007年)といった建築物で国内外にその名を知らしめたSANAAは、2010年に建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受賞、名実ともに世界のトップ建築事務所のひとつとなった。妹島は現在、SANAAと自身の事務所を合わせると国内外で20以上のプロジェクトを抱える。ほかにも、海外ではミラノ工科大学、ウィーン国立応用芸術大学、日本では横浜国立大学大学院Y-GSAで教授を務め、国内外を飛び回る忙しさだ。

画像: 「荘銀タクト鶴岡」の竣工記念式典に出席した妹島和世。周りに置かれたソファ「Flower」はSANAAデザインによるもの

「荘銀タクト鶴岡」の竣工記念式典に出席した妹島和世。周りに置かれたソファ「Flower」はSANAAデザインによるもの

最新作「荘銀タクト鶴岡」は
より複雑でおおらかな建築に

 9月末、妹島は山形県鶴岡市にいた。SANAAの最新プロジェクトである「荘銀タクト鶴岡」(鶴岡市文化会館)の竣工記念式典に出席するためだ。最終チェックのため、妹島は式典前日に朝一番の飛行機で鶴岡入りした。午後に会場を訪れてみると、スタッフとともにガラス壁に取りつけられたパステルカラーのカーテンの開け閉めを調整していた。

「夜になると真っ暗になるので、ちょっと色があったほうがいいと思ってパステルカラーのカーテンを設置しました。でも隣の敷地にある致道館を見せたいので、その見え方を調整していたんです。致道館や庭が、別の視点から見えるようになって好評だと聞きました。以前は、文化会館の敷地と致道館の庭にはフェンスの塀があったのですが、せっかくなので塀をとることを提案したら、市役所が文化庁に交渉し許可を取ってくださいました」

「荘銀タクト鶴岡」は、客席数1,120席の大ホールを中心とした鶴岡市の文化芸術活動の拠点。大ホールを取り囲むように通路があり、通路沿いには小ホール、練習室、楽屋が設置されている。外観は山々に囲まれた鶴岡の風土を生かし、山並みと重ならないよういくつもの小さな屋根が重なった形となっており、その形状は山の稜線の延長とも、隣接する国指定史跡の「庄内藩校 致道館」の屋根と呼応するようにも見える。一カ所として同じ形のない建物は、シンプルな建造物の多いSANAAとしては珍しい。

「以前は、この場所にはこの形が合う、と考えて単純な丸や四角を採用することが多かったですが、今はここは道路、ここは致道館、ここは裏の家、というように、より周囲の環境に溶け込めるようにすることを試みているので、外観がより複雑になっています。内部空間と外部空間の関係を考えてみても同じで、以前だったら外観はシンプルなボリュームにしていたところを、ここでは大ホールの部分は高さが必要だから外観もそのまま高くして、低い部分との差を見せるなど、内部のさまざまな要素をそのまま外側に反映させています」

画像: 「荘銀タクト鶴岡」の竣工記念式典では、ホワイエに設計時のスタディも展示された。ひとつの建物を創るために、100個以上のスタディが創られる

「荘銀タクト鶴岡」の竣工記念式典では、ホワイエに設計時のスタディも展示された。ひとつの建物を創るために、100個以上のスタディが創られる

画像: 山並みに呼応する外観美しい山々に囲まれた庄内平野にある鶴岡市。「荘銀タクト鶴岡」の外観も、山の稜線と重なることを避けてデザインされている。緩やかなカーブをなす屋根部分には地元の職人が手作業で作った板金が用いられている

山並みに呼応する外観美しい山々に囲まれた庄内平野にある鶴岡市。「荘銀タクト鶴岡」の外観も、山の稜線と重なることを避けてデザインされている。緩やかなカーブをなす屋根部分には地元の職人が手作業で作った板金が用いられている

画像: 大ホールで行われていた地元高校の吹奏楽部のリハーサル。ホールの客席は、ステージと遠くならないようワインヤード(ぶどう畑)形式に。音が集まるように、手摺壁が反響板となっている

大ホールで行われていた地元高校の吹奏楽部のリハーサル。ホールの客席は、ステージと遠くならないようワインヤード(ぶどう畑)形式に。音が集まるように、手摺壁が反響板となっている

 鶴岡の歴史的町並みのなかに突如として現れた現代的な建物は、2004年にSANAAが金沢に創った「金沢21世紀美術館」を思い起こさせる。宇宙船のようと評された円盤型の美術館は、国内外の建築、アート界をあっといわせ、世界中から人々が訪れるデスティネーションとなった。古都・金沢の魅力を再発見させるきっかけともなり、その後巻き起こる金沢ブームの火つけ役になったといっても過言ではない。妹島はかつて「金沢21世紀美術館」について、「まちに開かれた公園のような美術館」をコンセプトとしたと述べている。事実、この美術館は展覧会目あてでなくとも、無料で入れる共用スペースや周囲の公園に、市民が日常的に訪れる場所となった。

画像: 竣工記念式典で「荘銀タクト鶴岡」を訪れたSANAAの西沢立衛(右)と妹島

竣工記念式典で「荘銀タクト鶴岡」を訪れたSANAAの西沢立衛(右)と妹島

画像: 「荘銀タクト鶴岡」内部。大ホールを囲む通路沿いには、小ホールや練習室などを配置。通路にも、SANAAデザインのソファや椅子が置かれ、ゆったり過ごせるよう配慮されている。天井はSANAAでは珍しく木のルーバーを設置。鶴岡市の木材を使用している

「荘銀タクト鶴岡」内部。大ホールを囲む通路沿いには、小ホールや練習室などを配置。通路にも、SANAAデザインのソファや椅子が置かれ、ゆったり過ごせるよう配慮されている。天井はSANAAでは珍しく木のルーバーを設置。鶴岡市の木材を使用している

「『荘銀タクト鶴岡』は、金沢よりもさらにおおらかな形になっています。開いた形状なので、建物により自然に入っていける。小ホール、練習室などは、公演のないときは会議室や地元の子どもの練習場になる。細くなったり広くなったりする通路では、市場を開いてもいいし、自由に演奏してもいい。今後、図書スペースやカフェができて、ここでダラダラ過ごせるようになるといいですね」

自分の建築は、環境をつくる
1ピースでいい

「おおらか」という言葉は、現在の妹島を語るうえでのキーワードかもしれない。建築家として独立してから30年。建築に対する考え方にも変化が生まれてきた。

「内部空間と外部空間をつなげたいとずっと考えてきました。それは変わりませんが、さらに、その周りに広がる空間、"環境" に自分たちの創るものがどうつながってゆけるかを考えています。建築自体も環境をつくる1ピースです。現在、瀬戸内海の犬島では、民家をリノベーションしたりして、ギャラリーを作る「家プロジェクト」をやらせていただいていますが、自分の建築がどうというより島全体の一要素になればいいと考えています。

社会が複雑化し、建築家に求められる能力も広がってゆくなか、どういう建築が望ましいのか、正直答えは見つかっていません。さまざまな専門家や違う分野の人とコラボレーションするのがいいのか、各専門家がそれぞれ、いろいろなところでやるのがいいのか。ひとつ、自分のなかで確かなのは、建築が単体としてどうか、ということより、街のなかでどうあるべきかに興味があるということです。建築自体もオーソドックスに見えるような、風景的なものができればいい。あるいは恐ろしく新しく建築を捉え直すことができたら」

画像: 2004年開館の「金沢21世紀美術館」 © SANAA

2004年開館の「金沢21世紀美術館」
© SANAA

画像: ベネッセアートサイト直島の犬島のプロジェクトは、妹島事務所が手がけている。最新作は、ガーデナーの「明るい部屋」との共同プロジェクトで、長く使われていなかったガラスハウスを再生し、庭園・植物園として蘇らせる「犬島 くらしの植物園」(2016年) © KAZUYO SEJIMA & ASSOCIATES

ベネッセアートサイト直島の犬島のプロジェクトは、妹島事務所が手がけている。最新作は、ガーデナーの「明るい部屋」との共同プロジェクトで、長く使われていなかったガラスハウスを再生し、庭園・植物園として蘇らせる「犬島 くらしの植物園」(2016年)
© KAZUYO SEJIMA & ASSOCIATES

画像: 妹島事務所の最新作は東京・墨田区にある「すみだ北斎美術館」(2016年) © KAZUYO SEJIMA & ASSOCIATES

妹島事務所の最新作は東京・墨田区にある「すみだ北斎美術館」(2016年)
© KAZUYO SEJIMA & ASSOCIATES

画像: ルーヴル美術館の別館として、フランスのランスに建てられた「ルーヴル・ランス」(SANAA設計、2012年)。この建物もまた地方再生の役割を担う © KAZUYO SEJIMA + RYUE NISHIZAWA / SANAA, TIM CULBERT + CELIA IMREY / IMREY CULBERT, CATHERINE MOSBACH

ルーヴル美術館の別館として、フランスのランスに建てられた「ルーヴル・ランス」(SANAA設計、2012年)。この建物もまた地方再生の役割を担う
© KAZUYO SEJIMA + RYUE NISHIZAWA / SANAA, TIM CULBERT + CELIA IMREY / IMREY CULBERT, CATHERINE MOSBACH

 風景に溶け込むような建築とまったく新しい建築。相反する建築像が妹島のなかには共存する。最近興味のあることはと問いかけると、「料理」という答えが返ってきた。「以前はおいしいかどうかはどうでもよかったけれど、今は作るのも食べるのも楽しい。いろいろな面白いことがあるし、それが見えてくるようになりました。前よりおおらかになったのかもしれません。絶対こうというのはない」

 世界で最も注目と尊敬を集める女性建築家は、こうして軽々と既成概念を超え、新しい建築を目指してゆく。

安藤忠雄、終わりなき挑戦

【2017年10月公開記事】

BY NAOKO AONO, EDITED BY JUN ISHIDA

画像: 安藤忠雄 1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、1969年、安藤忠雄建築研究所を設立。主な作品に『21_21DESIGN SIGHT』『フォートワース現代美術館』など。写真は、大阪の自身の事務所で。建物は、安藤自身が設計した初期の住宅に増改築を施したもの。5階までの吹き抜けを階段がつなぐ、いかにも安藤らしいダイナミックな空間だ。随所に建築家の椅子や、アートが飾られている PHOTOGRAPH BY SHINGO WAKAGI

安藤忠雄
1941年大阪生まれ。独学で建築を学び、1969年、安藤忠雄建築研究所を設立。主な作品に『21_21DESIGN SIGHT』『フォートワース現代美術館』など。写真は、大阪の自身の事務所で。建物は、安藤自身が設計した初期の住宅に増改築を施したもの。5階までの吹き抜けを階段がつなぐ、いかにも安藤らしいダイナミックな空間だ。随所に建築家の椅子や、アートが飾られている

PHOTOGRAPH BY SHINGO WAKAGI

 独学で建築を学び、1969年に建築設計事務所を開設して以来、つねに挑戦を続けてきた安藤忠雄。長屋を切りとってコンクリートの箱を挿入した「住吉の長屋」、「地中美術館」に代表される直島での一連の作品、海外でのプロジェクトなど、数多くの建築作品を手がけてきた。彼のおよそ半世紀に及ぶ活動を振り返るのが、東京・六本木の国立新美術館で開かれる『安藤忠雄展─挑戦─』だ。美術館の庭に代表作のひとつ「光の教会」が原寸でつくられるのをはじめ、30年間にわたる直島での仕事を一望できる大型の模型など、約270点に及ぶ模型やスケッチが並ぶ。

「建築は実際に体験してみなければわからない。とくに建築の専門でない人はスケッチや写真を見ても、それがどんな空間なのかは想像しにくいでしょう。私はル・コルビュジエの『ロンシャンの礼拝堂』で、光のもとに信者さんたちが集まっているのを見て感動しました。展覧会に出品する『光の教会』の原寸大は、そんな体験を味わってもらいたいと思ってつくったんです」

画像: 「住吉の長屋」中央に屋根のない中庭がある。伝統的な町屋の坪庭のように住宅を外部に開き、季節ごとの空や光を生身の身体で感じることができる仕掛けだ PHOTOGRAPH BY SHINKENCHIKUSHA SHASHINBU

「住吉の長屋」中央に屋根のない中庭がある。伝統的な町屋の坪庭のように住宅を外部に開き、季節ごとの空や光を生身の身体で感じることができる仕掛けだ

PHOTOGRAPH BY SHINKENCHIKUSHA SHASHINBU

 安藤の事務所は大阪北区の一角にある。大阪に生まれ育った彼はこの地から拠点を移すことはなかった。「建築というのは根をつくることなんです。大阪は私のふるさとであり、根があるところ。これからも大阪でやっていきたい」と彼は言う。
「私は、住まいには魂があると思っています。安藤さんはなぜ自邸をつくらないのか、とよく聞かれるんですが、私の魂の住まいはこの事務所なんです。建築は、『光の教会』のように住み手、使い手が魂を残すところであるべきだと私は考えています」

 彼はまた、ただ単に自分の作品として建築を設計するだけでなく、「社会に対して自分にできることは何か、と考えながらやってきました」とも言う。そのために、建築によって人々をつなげるだけでなく、建築以外の活動にも積極的に取り組んでいる。大阪では毛馬桜之宮公園全域と中之島公園を結ぶ一帯を中心に3000本の桜の木を植える「桜の会・平成の通り抜け」の活動に取り組んだ。阪神・淡路大震災や東日本大震災の遺児の育英会を立ち上げ、企業や市民に募金を呼びかけたのも安藤だ。瀬戸内海の島々や沿岸部では美術館を設計するだけでなく、地域の植生に合わせた木を植える「瀬戸内オリーブ基金」活動も続けている。

「自分たちが住み続けるであろう場所を、魂が住むことができる場所にしたいからなんです」

 魂が住む場所は、人の思いがつくってきたものでもある。今回の展覧会でも大きく扱われる直島はベネッセホールディングス最高顧問、福武總一郎氏の依頼によるもの。安藤は美術館とホテルとが一体になった「ベネッセハウスミュージアム」やモネとジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアの作品を恒久設置する「地中美術館」、李禹煥(リ・ウーファン)の作品を展示する「李禹煥美術館」などをつくってきた。いずれも海と緑、アート、そして建築とが一体となり、時とともに刻々と表情を変えていくのを体験できる場だ。そこは福武氏の意志が力になり、形になったものだと安藤は言う。

「福武さんは、ホワイトキューブ(白い壁に囲まれた、通常の美術館の展示室)ではダメだ、ここでなければできない美術館をつくりたい、と言うんです。瀬戸内海に浮かぶ直島という場所でなければ見ることのできないものを、ということです。そこで『地中美術館』ではモネの《睡蓮》は照明のない、自然光のみで見せる展示室に飾ることにしました。日が沈んだら見られませんから〝日没閉館〞です」

画像: 工場からの排ガス等で荒れていた直島に、安藤は福武總一郎氏とともに「ベネッセハウス」など美術館やホテルを次々と建設、海外からも多くの人々が訪れる"アートの聖地"に生まれ変わらせた。建物は周囲の緑に身を隠すように計画され、自然と一体化している。直島では今も植樹活動が進められている PHOTOGRAPH BY MITSUO MATSUOKA

工場からの排ガス等で荒れていた直島に、安藤は福武總一郎氏とともに「ベネッセハウス」など美術館やホテルを次々と建設、海外からも多くの人々が訪れる"アートの聖地"に生まれ変わらせた。建物は周囲の緑に身を隠すように計画され、自然と一体化している。直島では今も植樹活動が進められている
PHOTOGRAPH BY MITSUO MATSUOKA

画像: 直島「地中美術館」のウォルター・デ・マリアの展示室。天窓から室内に入る自然光が刻一刻とアートの表情を変える PHOTOGRAPH BY MITSUO MATSUOKA

直島「地中美術館」のウォルター・デ・マリアの展示室。天窓から室内に入る自然光が刻一刻とアートの表情を変える
PHOTOGRAPH BY MITSUO MATSUOKA

 ダーウィンの進化論によると、強い者ではなく、時代の変化に適応できた者が生き延びるのだという。安藤も時代や、自身の変化を読みながら生きてきた。

「2014年に病気をして、膵臓や脾臓を摘出する手術をしたんです。『膵臓を全部切除して元気に生きている人はいませんよ』と医師が言うので、じゃあどうなるか試してみようと思った(笑)。手術後は、食事はゆっくりとって、食後は1時間半ぐらい休憩しなさいと言われたので、そのとおりにしています。休憩時間や夜寝る前には本を読んでいます。若い頃に読めなかった本もたっぷり読める。病気をしましたが、こんなふうにいいこともあるんですね(笑)。現在はボランティア、講演などの教育活動、自分の仕事にそれぞれ3分の1ずつ取り組んでいる感じです」

画像: 事務所のほぼ中央、吹き抜けの下にある安藤のスペース。スケッチや筆記用具のほか、いつも本が山積みになっている PHOTOGRAPH BY SHINGO WAKAGI

事務所のほぼ中央、吹き抜けの下にある安藤のスペース。スケッチや筆記用具のほか、いつも本が山積みになっている

PHOTOGRAPH BY SHINGO WAKAGI

 安藤は自著で、若い頃にむさぼるように本を読んだことを回想している。経済的理由から大学進学を諦めた彼は、授業で使う専門書を入手し、起きてから寝るまでひたすらに読んだ。大阪の古書店でル・コルビュジエの作品集を見つけたが高価すぎて手が出ず、ほかの客に買われないよう別の本の下に隠して、ようやくの思いで数カ月後に手に入れたこともある。吉川英治『宮本武蔵』、幸田露伴『五重塔』、和辻哲郎『古寺巡礼』『風土』、フェルナン・プイヨン『粗い石』といった文芸書からは、建築に対する厳しい姿勢や、人々の思いが、その場でしかなし得ない建築を生み出すことを学んだ。今も大阪の事務所には1階から5階まで、壁一面に据えつけられた書棚にぎっしりと本が並ぶ。

「本を読むことは知的レベルを上げるだけでなく、感性を磨くために重要なんです」

画像: 絵本美術館「まどのそとのそのまたむこう」。幼稚園の園長、巻レイさんが安藤に手紙を書き、設計を依頼した。絵本の表紙が見えるように、という要望のほかはすべてが安藤に委ねられた。園児のための施設なので見学は要予約 PHOTOGRAPH BY MITSUO MATSUOKA

絵本美術館「まどのそとのそのまたむこう」。幼稚園の園長、巻レイさんが安藤に手紙を書き、設計を依頼した。絵本の表紙が見えるように、という要望のほかはすべてが安藤に委ねられた。園児のための施設なので見学は要予約

PHOTOGRAPH BY MITSUO MATSUOKA

 子どもの頃から活字文化に親しんでもらいたい。そう考える安藤は子どものための図書館をつくることを考えている。そのひとつのきっかけになったのが12年前にオープンした、いわき市の絵本美術館「まどのそとのそのまたむこう」だ。この図書館は、幼稚園の園長を務める巻レイさんが園児のためにと思い、30年来夢見てきたもの。安藤はこんな図書館を各地につくりたいと考えている。

「東北で民家を曳家(ひきや)して補強し、本棚をつけて絵本館をつくれないかと考えています。それと、大阪の中之島で「こども本の森 中之島(仮称)」という子どものための図書館を計画しています。大江健三郎さんは子どもの頃、親に読んでもらったマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』が自分の原点だと語っておられました。本が勇気のある子ども、考える子どもを育ててくれると私は考えています。日本から世界に向けて活字文化の重要性を発信したい。これが私の今いちばん大きな挑戦です」

 8月に行われた講演の題は「100歳まで生きる」だった。彼の頭の中には成し遂げなければならないことが詰まっている。安藤の挑戦は終わることはないのだ。

画像: パリで設計が進む美術館の模型。商品取引所だったドーム状の建物の内部にコンクリートの構造物を挿入する。フランスの資産家で世界有数のアートコレクター、フランソワ・ピノーの依頼によるもの PHOTOGRAPH BY MITSUO MATSUOKA

パリで設計が進む美術館の模型。商品取引所だったドーム状の建物の内部にコンクリートの構造物を挿入する。フランスの資産家で世界有数のアートコレクター、フランソワ・ピノーの依頼によるもの

PHOTOGRAPH BY MITSUO MATSUOKA

画像: 海に突き出た三角形の建物はヴェニスの17世紀の旧税関倉庫を現代美術館に改修した「プンタ・デラ・ドガーナ」 (2009年、ヴェニス/イタリア)。木造の建物にコンクリートの箱が挿入された。こちらもピノーのコレクションを展示する © PALAZZO GRASSI SPA. ORCH, ORSENIGO_CHEMOLLO

海に突き出た三角形の建物はヴェニスの17世紀の旧税関倉庫を現代美術館に改修した「プンタ・デラ・ドガーナ」 (2009年、ヴェニス/イタリア)。木造の建物にコンクリートの箱が挿入された。こちらもピノーのコレクションを展示する

© PALAZZO GRASSI SPA. ORCH, ORSENIGO_CHEMOLLO

建築家・安藤忠雄
大阪の街とその未来を語る

【2025年3月公開記事】

BY MARI MATSUBARA, PHOTOGRAPHS BY MASATOMO MORIYAMA

画像: 安藤忠雄(あんどう・ただお) 1941年大阪市生まれ。独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。日本建築学会賞をはじめ、プリツカー賞、アメリカ建築家協会ゴールドメダルなど受賞多数。1997年より東京大学教授、現在名誉教授。住宅から美術館まで、国内外で多くのプロジェクトを手がける。一方、植樹運動や震災復興支援など社会活動にも尽力。5月には、90年代初めから建築家として関わる直島で10番目の建築となる「直島新美術館」がオープンする。

安藤忠雄(あんどう・ただお)
1941年大阪市生まれ。独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。日本建築学会賞をはじめ、プリツカー賞、アメリカ建築家協会ゴールドメダルなど受賞多数。1997年より東京大学教授、現在名誉教授。住宅から美術館まで、国内外で多くのプロジェクトを手がける。一方、植樹運動や震災復興支援など社会活動にも尽力。5月には、90年代初めから建築家として関わる直島で10番目の建築となる「直島新美術館」がオープンする。

「『中之島公会堂』建設に私財を投じた岩本栄之助に感銘を受け、私も一人の大阪人として大阪の街に貢献したいと思いました」

 JR大阪駅から車で5分ほどの中心地ながら、住宅や寺が密集する界隈に安藤忠雄建築研究所はある。ここは安藤が1973年に手がけた最初期の住宅「冨島邸」があった場所だ。建築家としての一歩を踏み出した現場を本拠地に、半世紀余り。国際的なプロジェクトを何本抱えようが、安藤はこの場所を仕事場としつづけている。

 ここ数年、安藤の活躍とともに都市・大阪の躍動が際立っている。2020年には安藤の企画・設計による「こども本の森 中之島」がオープン。また2024年には大阪駅北側の梅田貨物駅跡地に展開する大規模再開発の第二弾としてグラングリーン大阪が開業、その中の文化施設「VS.(ヴイエス)」は安藤が設計監修を務めた。そして今年4月には、安藤がシニアアドバイザーとして関わる「EXPO 2025 大阪・関西万博」がいよいよ開幕する。ますます注目度が高まる大阪という街に、安藤はどんな思いを抱いているのだろう?

「大阪・関西万博は後ろからサポートする立場で、直接的には関わっていませんが、人工島(夢洲)での開催というのは、万博の歴史上珍しい例ですよね。そこは大阪らしいアピールができてよかったかと。古くから海上交通の要衝として発展し、淀川が内陸との物流を支えてきた“水の都”ですから。私は大阪北港や西宮など近隣のハーバーからヨットや船を集め、会場へのアクセス手段にするのはどうかと提案しました。あまり相手にされませんでしたが(笑)」

画像: 住吉の長屋(大阪市住吉区 1976年)三軒長屋の中央の一軒をコンクリートのコートハウスに建て替えた。住宅の中心で光と風を室内に取り込むヴォイド(中庭)が、狭い住居に無限の奥行きをもたらす。© TADAO ANDO ARCHITECT & ASSOCIATES

住吉の長屋(大阪市住吉区 1976年)三軒長屋の中央の一軒をコンクリートのコートハウスに建て替えた。住宅の中心で光と風を室内に取り込むヴォイド(中庭)が、狭い住居に無限の奥行きをもたらす。© TADAO ANDO ARCHITECT & ASSOCIATES

画像: 光の教会(大阪府茨木市 1989年)少ない予算ながら信者の熱意、施工者、建築家が一丸となって完成した教会。コンクリート打ち放しの箱に十字の切り込みを入れることで印象的な光の十字架が出現する。床は黒いオイルステインを塗った足場板。© TADAO ANDO ARCHITECT & ASSOCIATES

光の教会(大阪府茨木市 1989年)少ない予算ながら信者の熱意、施工者、建築家が一丸となって完成した教会。コンクリート打ち放しの箱に十字の切り込みを入れることで印象的な光の十字架が出現する。床は黒いオイルステインを塗った足場板。© TADAO ANDO ARCHITECT & ASSOCIATES

民の力が支えてきた大阪の発展

「大阪には『八百八橋』という言葉があります。これは大阪が水運の要衝として発展し、多くの橋が架けられてきたことを示しています。川沿いには古くから多くの商人が店を構えていた。江戸時代には豪商たちが架橋事業を推進しました。大阪の街づくりには、民間の力が大きな役割を果たしてきた歴史があるのです」

 その代表例が「大阪市中央公会堂」、通称「中之島公会堂」だ。淀川に浮かぶ中之島の東端に立つネオ・ルネサンス様式の建物で、1918年に竣工し大規模な改修を経て今もなお威風堂々たる姿を見せている。この建設費全額を寄付したのが、株式仲買人の岩本栄之助という人物だった。

「岩本は渋沢栄一率いる渡米実業団に参加し、明治42年にアメリカを視察します。そこで公共施設の充実ぶりや篤志家の寄付の精神に感銘を受けるのです。そして帰国後、私財100万円、現在のお金に換算すると数十億円相当を一括寄付しました。ところがそのあとに岩本は株の取引に失敗してしまった。周囲からは寄付金返還を申し出るよう勧められましたが、一度寄付した金を取り戻すなど恥だと言って断り、公会堂の完成を見る前に自殺してしまったのです。その選択を称賛するわけではありませんが、岩本の誇り高い公共精神には心打たれます。こうして民の手でつくられた建物が、今なお街に息づき、市民の心の風景を形作っている。私も大阪人の一人として、この街をつくってきた先人たちの心意気に倣いたいとつねづね考えてきました。『桜の会・平成の通り抜け』は、そんな気持ちから始めた取り組みです」

 中之島を中心とする淀川沿いにはもともと4000本の桜の木があり、造幣局の「桜の通り抜け」として有名だった。ここにさらに3000本の桜の木を植えようという安藤発案の取り組みは、大阪の企業や市民の寄付を得て実現。20年余りの時を経て、毎春見ごたえのある風景が人々の目を楽しませている。

画像: 中之島プロジェクトⅡ-アーバン・エッグ(大阪市北区/アンビルド 1988年)1918年竣工の「中之島公会堂」の内部に卵形のシェルに包まれたホールを計画。未完に終わった構想が、歴史的建造物の中に円筒状の展示空間を設けたパリの現代美術館「ブルス・ドゥ・コメルス」(2021年)に生かされた。 © TADAO ANDO ARCHITECT & ASSOCIATES

中之島プロジェクトⅡ-アーバン・エッグ(大阪市北区/アンビルド 1988年)1918年竣工の「中之島公会堂」の内部に卵形のシェルに包まれたホールを計画。未完に終わった構想が、歴史的建造物の中に円筒状の展示空間を設けたパリの現代美術館「ブルス・ドゥ・コメルス」(2021年)に生かされた。

© TADAO ANDO ARCHITECT & ASSOCIATES

画像: 桜の会・平成の通り抜け/新桜宮橋(大阪市北区 2004年~)中之島を中心とする淀川沿いに3000本の桜を植樹する活動。もともとあった4000本と合わせ、壮大な都市景観を創出した。造幣局に近い桜宮橋に並行する「新桜宮橋」(2006年12月開通)も安藤のデザイン。 ©SHIGEO OGAWA

桜の会・平成の通り抜け/新桜宮橋(大阪市北区 2004年~)中之島を中心とする淀川沿いに3000本の桜を植樹する活動。もともとあった4000本と合わせ、壮大な都市景観を創出した。造幣局に近い桜宮橋に並行する「新桜宮橋」(2006年12月開通)も安藤のデザイン。

©SHIGEO OGAWA

子どもの未来を考えた街づくり

「大阪下町の悪ガキとして育った私は、子どもの頃は勉強そっちのけで、相撲をする、川で魚を獲る、原っぱを走り回る、トンボを捕まえる、と毎日遊び惚けていました。おかげで成績は散々でしたが、目いっぱい自由を満喫した分、生きる力、生命力みたいなものは随分鍛えられたように思います。遊ぶ時間も場所も少ない今の子どもたちには、その自由がない。感受性豊かな子どもの時分にこそ、自由に学び成長できる環境をつくってあげないと」

 こうした思いから、2020年に安藤の企画・設計による「こども本の森 中之島」が誕生した。

「アメリカの鉄鋼王カーネギーは事業から手を引いたあと、自己資金で全米各地に図書館を建てました。『10代の頃、電報配達の仕事の合間に本を読んだことが生きる力を養った』と。その話に触発されて、土地は大阪市、蔵書と運営資金は市民の寄付、設計と建設費は私が負担するということで実現しました。官と民で力を合わせた、未来を担う子どもたちへのプレゼントです」

 階段やブリッジ通路が張り巡らされた吹き抜けの空間に、床から天井まで本棚が続く圧巻の図書館は子どもにも大人にも大評判だ。その周辺は人々が自由に歩き回れる公園になっている。

「完成当初、建物と前の公園の間に車道が通っていました。それでは子どもたちが安心して遊べない。国土交通省に『道路、撤去できませんか?』と問い合わせたら、『難しいです』と取り合ってもらえない。それでもしつこく交渉を続けたんです。すると向こうも根負けしたのか、いつの間にか車道がなくなっていた。どうせ無理だと最初から諦めずに、チャレンジしつづけていれば、意外と無理が通ることもあるんですよ(笑)」

 中之島通りの歩行者空間化(公園化)は、他県の知事が視察に来るほど画期的な出来事だった。世の中の常識や既成概念を持ち前の人間力と忍耐力で打ち破ってしまうのが安藤だ。それは「うめきた再開発」においても発揮されている。

「第1期の再開発(グランフロント大阪)では、水に囲まれた広場やアーケードなど、余白のデザインに力が注がれました。続く第2期は緑の公園でいこうと。事業採算性を考えると無茶な提案でしたが、50年、100年先を見据えた都市づくりをしなければとみなで話し合いました。最終的に橋下さん(橋下徹・当時大阪府知事)、平松さん(平松邦夫・当時大阪市長)の賛同を得て、開発面積の半分を緑の公園とする方針が定まりました。ターミナル駅前という立地で、よくこれだけ思いきった決断ができたと、今さらながら驚かされます」

画像: 「大淀のアトリエ・アネックス」2階の応接室にて。大きな窓の外では、大樹に取りつけられた彫刻家・新宮晋(しんぐう・すすむ)のモビールが回っていた。壁を埋め尽くす本棚には蔵書や建築雑誌のバックナンバーが収まる。

「大淀のアトリエ・アネックス」2階の応接室にて。大きな窓の外では、大樹に取りつけられた彫刻家・新宮晋(しんぐう・すすむ)のモビールが回っていた。壁を埋め尽くす本棚には蔵書や建築雑誌のバックナンバーが収まる。

「子どもたちに未来を生き抜く力を養ってほしい。その一つのきっかけになればと『本の森』をつくっています」

画像: ©SHIGEO OGAWA

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画像: こども本の森 中之島(大阪市北区 2019年)(上2点)国内外から寄贈された絵本や児童文学書など1万8000冊を所蔵。空中に浮いたブリッジ通路、360°本棚に囲まれた読書室など、従来の図書館とは異なる驚きの空間。子どもたちは大階段に腰かけて読書に没頭する。 ©SHIGEO OGAWA

こども本の森 中之島(大阪市北区 2019年)(上2点)国内外から寄贈された絵本や児童文学書など1万8000冊を所蔵。空中に浮いたブリッジ通路、360°本棚に囲まれた読書室など、従来の図書館とは異なる驚きの空間。子どもたちは大階段に腰かけて読書に没頭する。

©SHIGEO OGAWA

建築で豊かさを取り戻す

 4万5000㎡の広大な敷地に水辺があり、芝生の広場があり、野外アートが点在するグラングリーン大阪「うめきた公園」。そのノースパーク内に安藤が設計監修してつくられた文化施設「VS.」は、外壁全面が緑化されて、時間の経過とともに木々の緑の中に埋没するという。さらに2027年の全体開園の折には、滝や池を配した「うめきたの森」が完成予定だ。これが1日約85万人が利用するマンモス駅のすぐ目の前なのだから驚かされる。

「この公園もそうですが、私がプロジェクトで『ここにこそ!』と注力するのはたいてい機能のない、経済効果という意味では『無駄』な部分なんです。振り返れば私の最初期の作である『住吉の長屋』は、家の真ん中に中庭をつくり、トイレに行くのに外を通らなければならない。『不便すぎる』と散々批判されましたが、施主は50年たった今も住み続けていますよ。日本人は自然による美しい生活文化を育んできた民族でした。ところが現代社会は快適性や機能性、合理性を追求するあまり、この自然とともに生きる感性を鈍らせてしまった。晴れの日も雨の日もあるのが人生。私は建築でこの豊かさを取り戻し、生命ある建築をつくりたいんです」

画像: VS.(ヴイエス)(大阪市北区 2024年)ガラスとコンクリート、二つのキューブからなる文化施設。天井高15mのものを含めて3つのスタジオとホワイエがある。建物の半分は地下に埋まっており、地上部分の壁は緑化を進める。設計監理:日建設計 ©KENICHI SUZUKI

VS.(ヴイエス)(大阪市北区 2024年)ガラスとコンクリート、二つのキューブからなる文化施設。天井高15mのものを含めて3つのスタジオとホワイエがある。建物の半分は地下に埋まっており、地上部分の壁は緑化を進める。設計監理:日建設計

©KENICHI SUZUKI

 大阪で生まれ育ち、建築家として街づくりにも関わってきた安藤の50余年の道のりをたどる展覧会が「VS.」で開催される。そのタイトルにある「青春」は近年、安藤が事あるごとに好んで使う言葉だ。

「青春に年齢は関係ありません。目標がある限り、その人は青春のただなかにいる。この青春の象徴である青リンゴのオブジェをのせた『こども本の森』は、大阪から遠野、神戸、熊本と各地に広がり、今後さらに松山、北海道からバングラデシュ、韓国、台湾と展開していく予定です。どこまでいけるかわかりませんが、建築費はすべて自分持ち。誰に頼まれたわけでもなく、ただ自分がやりたいからやっているだけ。ずっと自由を求めて生きてきた、それが私の『青春』です」

建築界のレジェンド
磯崎 新という謎

【2019年11月公開記事】

BY JUN ISHIDA, PHOTOGRAPHS BY TAKASHI HOMMA

 中秋の名月の翌9月14日、満月の夜に群馬県渋川市にある「ハラ ミュージアム アーク」に建築関係者ら約200名が集った。今年88歳を迎えた建築家、磯崎 新の米寿を祝うためだ。ハラ ミュージアム アークは東京にある原美術館の別館で、設計は磯崎が手がけた。広大な敷地にはオラファー・エリアソンやアンディ・ウォーホルの作品が点在し、美術館の一角をなす「觀海庵」では『縁起』と題した磯崎の展覧会も前日から始まった。

 大型バス3台に分かれて会の参加者が到着する。その中には建築家の妹島和世や青木 淳、石上純也らの顔も見える。日が暮れる前にホンマタカシによる集合写真の撮影が行われ、会が始まる。お祝いのスピーチの先陣を切るのは、磯崎 新アトリエの元所員、渡辺真理(まこと)だ。「磯崎さんの周囲には、常に新しく謎だらけの興味深いプロジェクトが渦巻いていて、見とれているといつの間にか自分も巻き込まれ、大変な困難に直面することになる」と、ユーモアを交えながら話す。

画像: 磯崎 新(ARATA ISOZAKI) 建築家、都市デザイナー。1931年大分県大分市生まれ。1954年東京大学工学部建築学科卒業。丹下健三都市建築設計研究所を経て、1963年磯崎新アトリエ設立。日本建築学会作品賞、RIBA(王立英国建築家協会)ゴールドメダルほか受賞多数。最新の著作に『瓦礫の未来』(青土社・2019年)がある

磯崎 新(ARATA ISOZAKI)
建築家、都市デザイナー。1931年大分県大分市生まれ。1954年東京大学工学部建築学科卒業。丹下健三都市建築設計研究所を経て、1963年磯崎新アトリエ設立。日本建築学会作品賞、RIBA(王立英国建築家協会)ゴールドメダルほか受賞多数。最新の著作に『瓦礫の未来』(青土社・2019年)がある

「謎」は、常に磯崎新につきまとう。会のスピーチで建築史家の藤森照信は、時代や状況に応じて建築物のスタイルを次々と変えてゆく磯崎のことは「なかなかよくわからない」と言い、思想家の浅田 彰は磯崎を“エニグマ(謎めいた)の人”と呼んだ。「オイディプスかスフィンクスか。磯崎さんのことを饒舌なスフィンクスだと言ったことがあります。近代の主体、特にアーティストやアーキテクトはオイディプスでした。オイディプスは世界の謎に自分から主体的に挑み解いてゆきます。対して、磯崎さんは先に自分の周りに謎のバリアを振りまいて、こういう解釈もできると自分で言ってしまう。謎の反復であり、その周りをさまざまな言葉が取り巻いている」

画像: 磯崎の初期作品である大分県立大分図書館の開館時の写真。ホール中心へと注ぐトップライトの光が美しい。1966年に竣工し、日本建築学会作品賞を受賞。1995年に閉館するが、改装され、複合文化施設「アートプラザ」となる。3Fには磯崎の建築模型や資料の展示スペースがある ŌITA PREFECTURAL LIBRARY, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

磯崎の初期作品である大分県立大分図書館の開館時の写真。ホール中心へと注ぐトップライトの光が美しい。1966年に竣工し、日本建築学会作品賞を受賞。1995年に閉館するが、改装され、複合文化施設「アートプラザ」となる。3Fには磯崎の建築模型や資料の展示スペースがある

ŌITA PREFECTURAL LIBRARY, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

 磯崎 新の謎は到底ここで解き明かせるものではないが、その建築界における功績は周囲の人物の言葉からもたどることができる。なぜ、磯崎は国内外の建築界から特別視されるのか、その謎に迫ってみたい。

 今年、磯崎は建築界の最高峰とされるプリツカー賞を受賞した。日本人の受賞者としては7組目となり、「遅すぎる受賞」とも言われた。プリツカー賞は、1979年にハイアットホテルズアンドリゾーツのオーナーであるジェイ・プリツカーによって創設されたが、磯崎はこの賞の設立メンバーの一人でもある。受賞のスピーチで、磯崎は当時を次のように振り返った。「40年前に、ジェイ・プリツカーが国際的なアーキテクチュアの賞を設立することを議論するために建築家をシカゴに招集し、私は唯一のノンアメリカンとして参加しました。アーキテクチュアはローマの時代からありましたが、近代社会が誕生した地であるフィレンツェで、ヒューマニズムの流れから、メディチ家の周りに集まった文人たちがアーキテクチュアという概念を生み出したと思います。シカゴの会議では、社会システムやテクノロジーが進化した現代社会において、建築的な達成を遂げた個人に与えるという、賞の方向性が定められました」

画像: ロサンゼルス現代美術館は1988年に竣工。福岡相互銀行(現・西日本シティ銀行 本店)の壁に用いた赤いインド砂岩が、LAの陽ざしに映えるという理由から採用された LAMOCA, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

ロサンゼルス現代美術館は1988年に竣工。福岡相互銀行(現・西日本シティ銀行 本店)の壁に用いた赤いインド砂岩が、LAの陽ざしに映えるという理由から採用された

LAMOCA, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

 プリツカー賞の審査員たちは、磯崎を建築家、都市計画者、理論家として位置づけ、「東洋と西洋の対話を促し、建築界におけるさまざまな世界的潮流を解釈し、若い世代の活躍をサポートした」と授賞理由を挙げている。また「建築の歴史と理論に深い知識を持ち、アヴァンギャルドであることを謳歌し、現状を模倣することなく、常に意味のある建築物を探求しつづけ、様式化されることを避けて絶えず進化し、常に新鮮なアプローチで取り組んできた」と、その建築家としての姿勢を評価する。

 磯崎 新は1931年に大分で生まれた。初めての建築体験は、戦後の焦土と化した都市の風景だ。「この都市が、建築が、どうやったらゼロから生まれてくるのかを考え」、建築を志す。東京大学在籍中に丹下健三と出会い、丹下健三研究室に入ると都市計画「東京計画1960」などのプロジェクトに参加する。’63年に退職すると、磯崎新アトリエを設立。独立後、60年代から70年代にかけては旧大分県立大分図書館(1966年)、群馬県立近代美術館(1974年)などを設計し、80年代はつくばセンタービル(1983年)に代表されるポストモダン建築の旗手として名を馳せた。そして1988年には海外での最初の建築作品となるロサンゼルス現代美術館(MOCA)が竣工し、名実ともに日本を代表する国際的建築家となる。

画像: ハラ ミュージアム アークで行われた米寿を祝う会

ハラ ミュージアム アークで行われた米寿を祝う会

 80年代の磯崎を知る人物の一人が、1983年から’90年にかけて磯崎新アトリエに勤務した青木淳だ。入所当時、スタッフのほとんどは磯崎にとって初の国家的プロジェクトとなるつくばセンタービルの計画に忙殺されていたという。青木が所員時代に担当した主なプロジェクトは水戸芸術館(1990年)。水戸に文化施設を造りたいという市長の強い思いから始まったプロジェクトであり、磯崎も真摯に向き合っていた。「基本的に磯崎さんは、クライアント思い。クライアントとの話を徹底的に掘り下げるのですが、一度全部忘れる、切断するんです。そして忘れることで、結果として応えられる。施主が言語化できない無意識の欲望を実現するのですが、それには飛躍が必要で、それが磯崎さんの場合は切断なのでしょう。論理的に導き出された答えではなく、よくわからないけれどうまくいく。それを成し遂げられるのが磯崎さんの魔法であり面白いところですね」

画像: 1990年に開館した水戸芸術館。シンボルタワーはDNAらせんを描く ART TOWER MITO, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

1990年に開館した水戸芸術館。シンボルタワーはDNAらせんを描く

ART TOWER MITO, PHOTO COURTESY OF YASUHIRO ISHIMOTO

 クライアントとの強いつながりはプリツカー賞の受賞スピーチでも感じられた。磯崎は数名のクライアントの名を挙げると、「アーキテクトを信用したクライアントがいたことで、これまでの仕事ができ上がった」と謝意を述べた。意外にも思えたこの出来事に対して、青木は幸せなパトロナージュの時代が終わったことを述べたかったのではと言う。「建築家を信頼して依頼するクライアントが存在した時代、建築は人間のために行う仕事でした。しかし今やそうしたパトロンはいなくなり、人間不在のところでシステムが自動運転している不毛の時代になりました。その中で、もう一度、人間が何かしなければお終(しま)いなのではと、磯崎さんは言いたかったのではないかと思います」

 2000年代に入ると、磯崎の主要なプロジェクトの地は、急速に開発の進む中東と中国へと移る。特に中国では都市計画を多く手がけ、その中には国家規模のものも含まれる。都市工学者である羽藤(はとう)英二は、磯崎とともに中国で都市設計のプロジェクトを手がけるコラボレーターだ。「中国の省は日本だと県にあたりますが、人口だけ見ると一つの国に値する規模です。彼らは統治するのに必要な物語を求めていて、磯崎さんはテクノロジーや歴史などさまざまな方面から揺さぶりをかけ、物語を提示してゆく。彼は、都市や国家のビジョンを描くことのできる世界でも稀有な建築家だと思います。師である丹下さんは20世紀後半の日本における国家建築家でありテクノクラートアーキテクトでした。資本の力が強くなり国家建築家であることが難しくなった時代に、そうした薫りのする唯一の人が磯崎さんです」

画像: 磯崎が最も好きな作品と言うスペインのア・コルーニャ人間科学館(1995年)。船の帆を思わせる外観が特徴 DOMUS: LA CASA DEL HOMBRE, PHOTO COURTESY OF HISAO SUZUKI

磯崎が最も好きな作品と言うスペインのア・コルーニャ人間科学館(1995年)。船の帆を思わせる外観が特徴

DOMUS: LA CASA DEL HOMBRE, PHOTO COURTESY OF HISAO SUZUKI

 現在、羽藤は中国で進む新しい都市計画にも参加している。磯崎が構想する新たな都市は、彼が世界のデジタル化が本格的になる前から唱えていた“ハイパーヴィレッジ”としての都市を具現化したものとも言える。「100年続いた“Home to Office”を規範とする都市構造は次の世紀に向けて確実に崩れてゆき、人は居住空間に留まりながら、AIの支援を受けて自らを分人化させ、情報空間を行き交う時代へと移行しつつある。中国で構想中の新たな都市はこうした時代の都市像として、建築と交通と情報を同時に設計しようと試みたもので、ハイパーヴィレッジの一つの体現です。磯崎さんの描くスケールアウトした都市プランを現実離れしていると言う人もいますが、旧来の社会制度の中で作られた都市は確実に破綻します。今、目の前にある状況のその先に向かって都市と人類の未来を描くことこそ、今アーキテクトに求められていることだという磯崎さんのメッセージが、そこには込められているのではないでしょうか」

画像: 東日本大震災を受け、アニッシュ・カプーアと共同制作した移動式コンサートホール、ルツェルン フェスティバル アーク・ノヴァ(2013年/宮城県松島町) LUCERNE FESTIVAL ARK NOVA, PHOTO COURTESY OF IWAN BAAN

東日本大震災を受け、アニッシュ・カプーアと共同制作した移動式コンサートホール、ルツェルン フェスティバル アーク・ノヴァ(2013年/宮城県松島町)

LUCERNE FESTIVAL ARK NOVA, PHOTO COURTESY OF IWAN BAAN

 磯崎は、新しい才能を見抜く目利きとしても知られる。現代建築界をリードするレム・コールハースや故ザハ・ハディドなども、コンペで磯崎に選ばれ、その代表作となる建築物を作る機会を与えられた。石上純也もまたその一人で、磯崎が審査員を務めた2010年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で企画部門金獅子賞を受賞した。時代の風を読む磯崎の嗅覚の鋭さについて、石上は次のように述べる。「磯崎さんがザハやレムの案を選んだ頃と今ではコンペの概念がまったく異なります。磯崎さんが選ぶ作品はその時代を反映し、結果として歴史に残るものになる。コンペは本来もちろんそういうものですが、その当時のコンペは磯崎さんがいることによって、建築の可能性を広げるとても重要な実験的フィールドになっていたと思う」

 フランス在住の建築家、田根 剛はプリツカー賞授賞式で初めて磯崎との対面を果たした。田根は磯崎を、現代建築を切り開いた人物と言う。「近代という時代を抜け出して、現代に向かう切り替えを、自らの建築やコンペの審査、国際会議、著書などを通じていち早くグローバルに行なったのが磯崎さんです。磯崎さんがいなければ現代建築はこれほどまで飛躍できなかったのではないでしょうか」。また田根は磯崎が建築界に起こしてきた“事件性”にも注目する。「歴史をつくるには二つの方法があります。一つは権威が持つ大きな力によって歴史をつくる。もうひとつは事件を起こす。磯崎さんは建築の事件を起こすことで歴史をつくってきました。メタボリズムや新都市を構想し、国際コンペで無名の建築家を一躍表舞台に引き上げる。事件を起こすことで、建築によって建築界を前進させ続けました」

画像: ヴェルサイユ宮殿で開催されたプリツカー賞授賞式でスピーチを行う磯崎新。隣に写るのは、ジェイ・プリツカーの息子、トム・プリツカー。授賞式には、国内外の建築家やクライアントが集まった

ヴェルサイユ宮殿で開催されたプリツカー賞授賞式でスピーチを行う磯崎新。隣に写るのは、ジェイ・プリツカーの息子、トム・プリツカー。授賞式には、国内外の建築家やクライアントが集まった

 プリツカー賞のスピーチを、磯崎は「アーキテクチュアとは何か?」という問いで締めた。「プリツカー賞を設立した初期は、“architecture is art”、芸術としての建築といえば納得されました。しかし20世紀の終わりに社会的・文化的な変わり目が訪れ、アートは中身が変わりました。もはやアートはないという人もいます。ではアーキテクチュアとは何か? アーキテクチュアそのものの意味は広がり、国家から都市、住宅、社会情報システム、国家戦略に至るまでを設計するものが、アーキテクトとされる。この時代は建築のターニングポイントです。こういうときにこの賞を受賞することは、感無量であります」。磯崎新というアーキテクトもまた、時代とともに変化し、拡張しつづける。

画像: 大分市美術館で開催の[磯崎新の謎]展の展示風景。過去に手がけたインスタレーションや都市計画が主に 展示されている。写真は、1976年にNYのクーパー・ヒューイット 国立デザイン博物館で、ハンス・ホラインとともにキュレーションした展覧会『MAN TransFORMS』で発表した作品を再制作したもの ≪エンジェル・ケージ≫(1976/2019)from MAN TransFORMS(1976-77, N.Y.)

大分市美術館で開催の[磯崎新の謎]展の展示風景。過去に手がけたインスタレーションや都市計画が主に 展示されている。写真は、1976年にNYのクーパー・ヒューイット 国立デザイン博物館で、ハンス・ホラインとともにキュレーションした展覧会『MAN TransFORMS』で発表した作品を再制作したもの
≪エンジェル・ケージ≫(1976/2019)from MAN TransFORMS(1976-77, N.Y.)

“紙管のシェルター”で
被災者支援を続ける
建築家 坂 茂の終わらぬ使命

【2020年1月公開記事】

BY NIKIL SAVAL, PORTRAIT BY NOBUYOSHI ARAKI, ARCHITECTURE PHOTOGRAPHS BY BENJAMIN HOSKING, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 坂 茂(ばんしげる)について書くということは、現在生きているほかのどの建築家について書くこととも違う。なぜなら、彼の主要な作品の多くは、実際に見たり、体験したりできないからだ。作品が隠された場所にあるとか、行くことが不可能だ、という意味ではない。多くの建築家と同様、彼も数多くの個人住宅を設計してきたし、その多くは個性的で進歩的だ。

建築家、坂 茂。2019年7月17日に東京で撮影

 彼は日本のスキーリゾートの軽井沢に、合板を用いたプレハブ工法のホテル「ししいわハウス」を造り、フランスのメスではポンピドゥー・センターの分館、「ポンピドゥー・センター・メス」を造った(フランスの建築家ジャン・ドゥ・ガスティーヌとの共同設計で、竹で編んだ中国の帽子に似せた屋根がのっている)。さらにコロラド州の「アスペン美術館」では、カーテンウォールの外側に合成樹脂加工を施した段ボールの格子状スクリーンを配置した。最近完成した静岡県の「富士山世界遺産センター」は、逆円錐型の構造体の半分がガラスの箱に入っており、その上に平らな屋根がのっている。

この建物は清らかな風情を感じさせ、日本の最も著名なシンボルの麓に広がる静かな町に、厳かに建っている。だが、坂の全作品を見渡してみると、このような“普通の”建築物はかなり異質だ。彼の主要な作品は、一時的な仮設の建築物であり、クライアントにとってその施設が必要なくなれば、この世から消滅してしまう運命だからだ。彼のクライアントとは、災害や人災の被害者たちだ。

画像: 「ポンピドゥー・センター・メス」(2010年) HUFTON+CROW/VIEW

「ポンピドゥー・センター・メス」(2010年)
HUFTON+CROW/VIEW

画像: 「アスペン美術館」(2014年) MICHAEL MORAN/OTTO

「アスペン美術館」(2014年)
MICHAEL MORAN/OTTO

 坂は住宅やビジターセンター、コンドミニアムやタワーもデザインするが、緊急時用のシェルターのデザイナーとして、その名が最も知られている。それは地震や洪水で被災した人々や、暴力や虐殺を逃れてきた人々のための建物だ。それらのために採用したのは、坂のシグネチャーである素材、さまざまな長さや厚さの再生紙の管(紙管)だ。世界中のどこでも手に入る。小さなサイズなら、トイレットペーパーやペーパータオルの芯もそうだ。豊富に手に入るだけでなく、構造的にもしっかりしており、シェルターや住宅、さらに教会の構造としても使うことができる。坂はそんな建築物すべてを自ら造ってきた。

 1999年にはルワンダの虐殺で難民となった人々のシェルターを建て、1995年には日本で起きた阪神・淡路大震災の被災者のための住宅を建設し、同じ1995年には富士山の麓に自身のための週末用別荘を造った。自分の別荘を建てたのは、紙管の耐久テストをし、それを日本で建築資材として使えるよう政府の認可を取るためだった。これらがうまくいったことで、坂は紙管を使って神戸に教会を建てることができた。この教会はのちに撤去され、そのまま台湾に運ばれ現地で再建された。彼はしかし、別荘で時間を過ごすことはほとんどない。「週末の休みがないので」と彼は昨春、東京のオフィスでのインタビューで語った。「あの家は全然使っていない」と。

画像: 「紙の家」(1995年)。富士山の近くにある坂の別荘 HIROYUKI HIRAI

「紙の家」(1995年)。富士山の近くにある坂の別荘
HIROYUKI HIRAI

 実際に会ってみると、坂はとても落ち着いた人物で、カタログのページをさっとめくって説明する以外には、椅子から立つこともほとんどない。自分の作品について話すときには、質問を予期し、それに対する答えを効率的に提示し、時折少しいらだっているようにも見える。常に全身黒ずくめの服装で、肩幅は広く、身体はがっちりしている。若いとき、ラグビーをしていた名残があるようだ。特徴的な円錐型の髪は少し薄くなってきた。60代前半の年齢になり、彼も、彼自身が現代における人道的な建築家として最もその名が知られ、称賛されていることを自覚している。

彼は2014年にプリツカー賞を受賞した。ライバルたちも遅まきながら、世界中で最も危険にさらされている人々に建築で貢献するという彼の使命に讃同し、彼の後を追いかけるようになった。坂の作品の根底には、他者への思いやりと献身があるが、世界の厳しい現実を反映してもいる。彼の最も重要な建物が存在するところには、災害と死が常に隣り合わせで存在する。建築界というところは、一部のカリスマ的な人物の意見や、博物館のボードメンバーからの献金で物事が決まっていく社会だったが、坂のインスピレーションをかき立てたのは、気候変動や難民の危機、移民の大移動などだった。

 坂の成功が意味するのは、建築界の内部が変わっていく可能性だ。建築を使って政治的な目的を達成することから、不可避な危機への解決策(一時的なものでしかないとしても)を打ち出すことへのシフトが起きつつあるのかもしれない。10年以上の間、“スターキテクチュア(世界的に有名なスター建築)”、すなわち建築家と建築物のブランド化に重点を置いてきた建築界だが、次第に社会的な使命としての建築のあり方が問われ始めた。

だが、坂はすでに何十年も前からそうした建築を手がけてきた。彼は、突然サスティナブルな素材に注目し始めた同業者たちを称して「流行だから」と言う。彼は“サスティナビリティ”という言葉は、空虚なバズワードだと認識している。彼は単純に資源の無駄遣いを懸念しているだけなのだという。一時の流行を冷静な目で見るこうした態度こそが、彼を人道的建築家のヒップスター的存在にしているのだ。

 人が“かっこいい”と言い出す前から、この分野に夢中だった――坂はそう言いたいのではないだろうか。だが彼は同時に、公共の利益になる作品をつくることに興味を抱いて建築を学ぶ学生の数が世界中で増えていることは、嬉しいことだと語る。これは、人道的な建築物に対する需要が切迫して高まっている今の時代において、建築業界を根本から変えるほどの力をもつ変化といえる。彼は楽観的であると同時に、厳しい見解をもっている。「これから先も、問題は次々に起こるだろう」と彼は言う。「そのひとつひとつを解決していく必要がある。自然災害は発生しつづける。それを止める手立てはない」

 何世紀にもわたって海外の影響を受けずにきた日本の伝統的な建築は、どこか隔絶された雰囲気がある。また近代の日本の建築家たちの間では、建築において何が“日本的”で何がそうでないかという点がさんざん議論されてきた。そのような理由から、現代の日本人建築家を、日本古来の伝統という特別な枠の中に押し込めて考えようとする傾向がいまだに根強い。どんな状況であっても、そのような態度には問題があり、坂の作品を理解するのに適した方法ではない。そもそも、彼は日本的な建築家だと解釈されることを拒否している。

「私はここで建築を勉強したことは一度もない」と彼は日本をさして語る。「それに私は東京で、伝統的ではない建物で育ったから」。彼の建築魂に国境はない。もちろん、建築界にはさまざまなインターナショナリズムがあるが、そのほとんどが金銭ずくのものだ。多くの建築家たちはプライベートジェットで移動する富裕層で、世界中のあちこちに、自分を象徴するような建物を、現地の文化に関係なく建てまくる。

画像: ニュージーランド・クライストチャーチの「紙の大聖堂」(2013年)。2011年の地震で被災した教会の跡地に建つ EMMA SMALES/VIEW

ニュージーランド・クライストチャーチの「紙の大聖堂」(2013年)。2011年の地震で被災した教会の跡地に建つ
EMMA SMALES/VIEW

 だが、坂のインターナショナル・スタイルはそれとはまったく違う。彼が若い頃に受けた建築教育における中心的存在は、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエだったが、それ以外にも多様なグループの建築家たちが活躍していた。アルヴァ・アアルト、バックミンスター・フラーやフライ・オットーがいた。さらに1940年代に始まった南カリフォルニアの「ケース・スタディ・ハウス」を牽引した建築家たちの影響は、坂の作品に最も色濃く表れている。紙管を使ったシェルターは、唯一、坂の象徴的な建築だが、それ以外の彼の作品では、彼固有の特徴はほとんどわからない。たとえば、日光に照らされて輝くアルミニウムのリボンといえば即、フランク・ゲーリーの作品だとわかるような明確なシンボルはない。彼は新しい建物を造るたびに、新しい自分を試しているように見える。

 坂が幼い頃は、大工仕事の現場に触れる機会がたくさんあった。両親と暮らした東京の家は木造で、それ自体は珍しくなかったが、頻繁に改築が行われていた。ファッション・デザイナーだった母は、定期的に自宅を増築してお針子さんたちの仕事スペースを確保していた。父はトヨタに勤務していた。坂は家に大工たちが出入りするのをじっと観察していた。「美しい工具を使って彼らがやることを見ていたし、木の匂いを楽しんでいた」と彼は言う。建築家という職業があることすら知らず、彼は大工になりたいと思っていた。中学校の美術の授業で、基礎的な住宅の模型を作る課題があり、そこで自らの才能を発見し、建築というものが大好きだということに気づいた。

 彼はたまたま雑誌でジョン・ヘイダックの作品に関する記事を読んだ。ヘイダックはニューヨークにあるクーパーユニオン大学の建築学部の学部長を1975年から2000年まで務めていた。当時、同大学の教師陣にはピーター・アイゼンマン、リカルド・スコフィディオやベルナール・チュミなど錚々(そうそう)たる建築家が名を連ねていた。坂はクーパーユニオンで学びたいと思ったが、同大学は米国外の志望者を受け入れていなかったため、ビザを取得して英語を勉強するためにカリフォルニアに渡り、米国内で建築学校を探した。カリフォルニア大学バークレー校やUCLAなどの伝統的なマンモス校を意識的に避けた結果、南カリフォルニア建築大学、通称サイアークに入学した。同校は新設校で、フランク・ゲーリーやトム・メインなど当時は型破りだった建築家たちが教鞭を執っていた。

 サイアークはサンタモニカにある工場の建物を再生させて校舎として使い、学生たちが自ら足場を組んでスタジオを建設した。同大学は1972年に設立され、共同創設者で初代ディレクターを務めたレイ・キャップが「自治を貫く独立した学校組織で、200人の学生と25人の教員が協力して学問の方向性を決める」というビジョンを掲げていた。それが具現化された結果、成績によるランクづけは廃止され、活発な議論が頻繁に行われていた。英国人建築家のピーター・クックが「誰が教師で誰が学生なのか、じっくり会話を聞かないと判別できない」と書いたほどの、徹底してオープンな環境ができ上がった。

 そこで坂が何よりも習得したのは、同校に活力を与え、街並みにインパクトを残したカリフォルニア・モダニズム主義の考え方だった。彼が最も感銘を受けたのはケース・スタディ・ハウスだ。プレハブ(組み立て式)工法で造られた36戸の一戸建て住宅の実験プロジェクトのことで、全戸が実際に建てられたわけではないが、ロサンゼルスを中心に1945年に開始された。『アーツ&アーキテクチャー』誌の編集長、ジョン・エンテンザがプロジェクトの発起人で、リチャード・ノイトラ、ピエール・コーニッグ、レイ&チャールズ・イームズたちが住宅のデザインを手がけた。このプロジェクトは、ミース・ファン・デル・ローエ作のトゥーゲントハット邸、ル・コルビュジエのサヴォア邸などのモダニズム初期の住宅に使われたアイデアをさらに発展させようという試みだった。人が生活する住居部分を解放し、部屋間の仕切りや、屋外の景観との境界をなくすような造りだ。

 このケース・スタディ・ハウスを通して、坂は日本の伝統的な建築を再発見したのだった。「私の場合、ケース・スタディ・ハウスを通して偶然に日本の影響を受けた」と彼は言う。「ケース・スタディ・ハウスには日本の影響が色濃く出ていた。たとえば日本の伝統家屋のように内側と外側をつなげるところ、素材の使い方や柱梁構造など。素材の革新的な使用法もたくさんあった。それらに魅了されたし、カリフォルニアでの私の建築体験を豊かなものにしてくれた」

画像: 2015年に完成した「無垢杉の家」。日本の山梨県北杜市にある。ミース・ファン・デル・ローエからインスピレーションを得てミニマリズムの味わいを出した

2015年に完成した「無垢杉の家」。日本の山梨県北杜市にある。ミース・ファン・デル・ローエからインスピレーションを得てミニマリズムの味わいを出した

画像: ニューヨーク州サガポナックにある「サガポナック・ハウス(The Furniture House 5)」(2006年) MICHAEL MORAN/OTTO

ニューヨーク州サガポナックにある「サガポナック・ハウス(The Furniture House 5)」(2006年)
MICHAEL MORAN/OTTO

 坂がバックミンスター・フラーの作品を学んだのも、カリフォルニアだった。フラーは独学でその道を究め、いまだにどんな流派にもカテゴライズされていない、20世紀アメリカン・デザインの天才である。サイアークで、坂とほかの学生たちは「ジオデシック・ドーム」を造るよう指示された。ジオデシック・ドームはフラーが1950年に最初に手がけた地球儀のような球状の構造体で、表面がたくさんの三角形で細分割されている。この形のドームは、ヒッピーの共同体からウォルト・ディズニー・ワールドのエプコットのアトラクションまで、世界中に普及していった。フラーは、最小限の素材で組み立てられ、安価で、わかりやすい形をしたドームが世界の住宅危機問題の解決策になると信じていた。

 坂にとって印象的だったのは、新しい構造を見つけようとするフラーの粘り強い探究心と、流行の建築スタイルを頑なに拒否する姿勢だった。フラーと、もうひとり、軽い皮膜状の屋根構造を1960年代に考案したドイツ人建築家のフライ・オットーについて話しながら、坂は言った。「彼らは、独自の建築を造り出すために、当時流行していたスタイルの影響を受けることなく、素材と構造の開発に取り組んでいた」。坂の言葉からは、彼自身にぴったりの定義を探そうという意志を感じることができる。

 世界中にその名が知れ渡っている建築家にしては、坂の私生活は地味なものだ。彼と、ジュエリーやハンドバッグのデザイナーである妻との間には子どもがいない。東京の世田谷の一角にある、何の変哲もない慎(つつ)ましやかな3階建てのオフィスビルの事務所で、40人のスタッフが働いている。近所には坂が造った多くの建物がある(彼の事務所でガイドマップをもらった)。この地域を見るだけで、日本の一戸建て住宅がいかに類い稀なほど多様性に富んでいるかがわかる。ひとつひとつの建物が全部違うのだ。

 坂の初期の作品のひとつに「羽根木の森」アパートメント(1997年)がある。この建物はまるで森の中にガラスの箱が現れたように見える。細い杭状のピロティに支えられて宙に浮いているかのようだ。建物は木に囲まれており、玄関には鏡とミラーガラスが使われている。その近くには2006年に完成した「ガラス作家のアトリエ」があり、これは「羽根木の森」とはまったく異なる形だ。きわめてシンプルな組み立て式スチール棚を基本構造に使い、青い鉄製のフレームや、玄関の上についているチャーミングな丸窓が、ポストモダン風の馬小屋のような雰囲気を醸し出している。家から家へと歩いていると、統一感はないが、自分の考えを形にする新しい手法を探して、あらゆる方法を試した建築家の足跡を感じることができる。

画像: 東京近郊に建つ「ガラスシャッターの家」(2003年)。3階建てビルの表側全体がシャッターで覆われたデザイン HIROYUKI HIRAI

東京近郊に建つ「ガラスシャッターの家」(2003年)。3階建てビルの表側全体がシャッターで覆われたデザイン
HIROYUKI HIRAI

画像: 川越市内の3世代が暮らす住宅として建てられた「はだかの家」(2000年)。プライバシーを最小限にし、オープンな空間での生活にこだわった HIROYUKI HIRAI

川越市内の3世代が暮らす住宅として建てられた「はだかの家」(2000年)。プライバシーを最小限にし、オープンな空間での生活にこだわった
HIROYUKI HIRAI

 1980年にクーパーユニオン大学に編入すると、坂はより厳しく、競争の激しい環境に飛び込んだことに気づいた。坂はピーター・アイゼンマンに師事したが、ふたりの仲はうまくいかなかった。アイゼンマンは坂の名前を「難しくて覚えられない」と言い、彼を「シュガーベア」と呼んだと坂は言う。また、アイゼンマンから「君は日本人だからこの理論がわからないんだ。だから君は全然違うことをやっている」というような意味のことまで言われたことを覚えている(アイゼンマンは、ニックネームの件は認めたが、愛着を込めてそう呼んだと語った。もうひとつの発言については、こう言った。「そういう言い方はしなかったと思う。『君は日本人だから、西洋的な概念や西洋的な理論は理解できない』とは言ったかもしれないが。つまり、西洋の学生が日本の概念である“間”を理解するのが難しいようにね。私が言いたかったのはそういうことだ」)。

 ふたつの異なる建築スタイルを融合するというグラフティングの概念を学ぶ授業で、坂が作品を持ってくるたびに、アイゼンマンはそれを評価せず、理解を示すこともなかったと坂は言う。さらに坂はもうひとりの教授とも意見が合わなかった。この教授(坂はその人の名前を伏せた)とアイゼンマンは坂の卒業制作を不合格にすることを決め、坂はプロジェクトのやり直しを強いられた(アイゼンマンは、委員会において二人の教授の意見だけで坂が落第になることはなかったと言い、その決断は学部長ヘイダックの意向によるものだったはずだと語る。

アイゼンマンいわく、ヘイダックは「その鉄の手で学校を支配していた」)。クーパーユニオンでの待遇に疲れ果てた坂は、1982年に一年間休学して日本に帰国し、予想もつかない建築スタイルを打ち出す磯崎新のもとで働いた。磯崎は第二次世界大戦中に日本の国土が爆撃され、多くの尊い命が犠牲となったことに思いをはせた建築を手がけていた。磯崎もまた2019年にプリツカー賞を受賞することになった。

 坂が日本に戻ったのは、数年間離れていた祖国を改めて知ろうと思ったからだった。「磯崎さんのもとで一年間働いてみて、建築を学んだだけでなく、日本社会を理解する機会を得られた」と彼は言う。そして皮肉なことに、彼は磯崎が日本にいながら、日本以外の国で精力的に作品を造り、日本建築の枠や気風にとらわれることなく、国際的な建築家として活躍していることに感銘を受けた。

 クーパーユニオンを1984年に卒業すると、坂は再び日本に戻った。ギャラリーのキュレーターとしてパートタイムで働きながら、最初の自分の建物をデザインした。それは彼の母のためのアトリエで、彼はのちにその建物を自身の設計作業の拠点として改装した。また写真家の二川幸夫のもとでも働いた。二川は『グローバル・アーキテクチャー』誌、通称『GA』を創刊した人物でもあった。その仕事のおかげで、坂はフィンランドを初めて訪れ、そこでミッドセンチュリーのアルヴァ・アアルトの作品に出会った。それは坂にとって人生の転機ともいえる出会いだったが、まったく予期せぬ出来事でもあった。

「クーパーユニオンで学んでいた頃、アルヴァ・アアルトにはまったく興味がなかった」と彼は言う。「あの大学ではいわゆる国際派建築家のル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエが重視されていて、アルヴァ・アアルトはあまり尊敬されていなかった」。たとえばフィンランドの郊外に1939年に建てられたマイレア邸は、白樺の森に囲まれた環境をそのまま活かし、そのモニュメントともなっているL字型の別荘だが、アアルトの作品はこの別荘のように、特に木という一般的な素材と触れ合う官能的な体験が、その魅力の拠りどころとなっている。坂はアアルトの作品を本で学んでいたが、理解するのは難しかった。写真を通して学べる建築家の作品もあるが、アアルトの作品は実際に経験する必要があったのだ。

「彼の作品には文脈がある。つまり置かれた環境や地元のコミュニティ、文化的な背景などが感じられる」と、坂は2007年にデザイン・ビルド・ネットワークというメディアに語っている。「アアルトはクライアントが望む個性的で彫刻的な建物を造りながら、同時に文脈をもたせることも可能だと証明してみせた。周囲の環境を反映させ、自然の素材である木や煉瓦などを使い、デザインの新しい手法を試みることも可能だと」

 1986年に坂は東京のAXISギャラリーからアアルトの展覧会場のデザインを依頼された。坂はアアルトが得意としていたベントウッド(曲げ木)のデザインを再現したいと思ったが、木材は値段が高すぎた。そこで坂は紙管で波打つような形のパーテーションを造った。紙は彼が開発し、それまでも繰り返し使ってきたモチーフだった。坂は高校時代に紙の構造モデルを造り、スケッチを描いて東京芸術大学を受験したが、不合格だった。サイアーク時代には紙は安価で手に入りやすいことから、欠かせない素材だった。ギャラリーではディスプレイ用ケースを固定するのに紙管が使われていたが、坂はほかにもいろいろ使い途があると考えていた。紙という素材は目新しいものでは決してない。紙が発明されて以来、科学的な改良が加えられたこともそれほどない。再生材料から作られ、必要なら防火・防水加工も簡単にできるし、使えなくなったら再びリサイクルできる。そして、そんな紙の変哲のなさこそが、坂が驚くべき利用方法を生み出せる理由なのだ。

 坂がデザインした富士山世界遺産センターを私が訪れたのは初夏で、その日は激しく雨が降っており、いつもならはっきり見えるはずの富士山が見えなかった(17世紀に松尾芭蕉が、「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」と詠んだ有名な一句がある)。このセンターと、坂が造るほかの作品の傾向や趣向とを比べてみると、驚きを感じる。まず、建物の中心に、逆さになった巨大な「山」がある。これが何を意味しているのかは明確だろう。坂は、現代建築にはつきもののモニュメント的な象徴主義を極力排除してきた建築家だけに、ほかの作品ではこんな表現はしないはずだ。だが、円錐型の構造を覆うヒノキ材でできた格子を見ていると、そこにはフラーの構造への情熱の継承があり、心と身体に訴えかけてくる素材を好む新しいモダニズムが息づいているのがわかる。

画像: 坂が設計した、静岡県の富士山世界遺産センター。2017年にオープンした。逆さ富士を思わせる構造で最も目立っている素材は地元原産のヒノキ材

坂が設計した、静岡県の富士山世界遺産センター。2017年にオープンした。逆さ富士を思わせる構造で最も目立っている素材は地元原産のヒノキ材

 批評家たちは坂のシェルター建築を好み、通常、彼の住宅作品には興味を示さない。だが、そんな住宅のひとつひとつが、今も続く彼の実験の過程なのだ。坂は長年、住宅に不可欠だと考えられていた要素を取り除いたり、足したりを試してきた。

 1995年に彼は「カーテンウォールの家」を東京に造った。屋根から特大のカーテンを吊るし、文字どおり家を布で包んでしまうのだ。また1997年には長野県の高台に、窓の仕切りや壁を取り払った箱のような「壁のない家」を建てた。部屋を仕切るのにスライドするパネルを使い、究極のオープンフロアのデザインを実現した。坂はこれらを「私のケース・スタディ・ハウス」と呼んだ。「何か実験的なものを造りたかった」と彼は言う。「壁のない家、カーテンウォールの家、紙の家。当時造ったひとつひとつの家に、それぞれ違ったテーマがある」

画像: 東京の「カーテンウォールの家」(1995年) HIROYUKI HIRAI

東京の「カーテンウォールの家」(1995年)
HIROYUKI HIRAI

 彼がシェルター建築を手がけるようになったきっかけは、1994年にザイール(現在のコンゴ共和国)でルワンダ人の難民たちが暮らす仮設施設を見たことだった。当時、国連難民高等弁務官事務所はビニールシートとアルミニウムの支柱を難民たちに支給していたが、多くの人々はアルミニウムを売って換金してしまい、テントを支えるために近くの森林から木を切り出し、結果的に森林破壊が起きてしまった。

坂は国連難民高等弁務官事務所に何度か手紙を書き、ジュネーブに飛んだ。そこで彼は組織の首席サイト・プランナーのヴォルフガング・ノイマンに出会った。ノイマンは、紙管を使ってシェルターを造るという坂のアイデアに興味をもち、彼をコンサルタントとして雇った。彼の案はのちにルワンダ北部の難民キャンプで実際に採用された。坂が最初に紙管を災害支援プロジェクトに使った場所は、阪神・淡路大震災で6,000人以上の死者が出た神戸だった。被災者のために、約16m²の面積の小さな住宅をいくつも造った。坂によれば、シェルターひとつあたりの建設材料費は約2,300ドル、施工時間は一日だったという。主にボランティアによって、数週間で約30戸が建てられた。

画像: 1995年の地震で家を失った人々のための、神戸の仮設住宅「紙のログハウス」 TAKANOBU SAKUMA

1995年の地震で家を失った人々のための、神戸の仮設住宅「紙のログハウス」
TAKANOBU SAKUMA

 これらのシェルターは神戸で4年ほど使われたあと、解体され、リサイクルされた。だが同じく坂がデザインし、再生紙で建てられた市内の教会とコミュニティセンターは10年間継続して使われ、彼の作品の耐久性が証明された。また2011年、東日本大震災と津波が起きたあと、彼は東北地方沿岸の女川(おながわ)町で船舶用の輸送コンテナを使って189戸の小さな住宅を建てた。さらに「紙のログハウス」(神戸にも設置された)の土台には、ビール用のケースに砂袋を入れて重しにした。坂は極力“地元の材料”に頼り、現地で手に入る、安価で、使用後にゴミにならないような素材を使用している。

 これらの建物は現場で、NGO「ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク」のスタッフによって速やかに建設される。この団体は坂が地元の学生やボランティアの助けを得て、1995年に立ち上げた。当初、ボランティアたちへの報酬は寄付金や坂自身の収入から支払われていたが、現在はプロジェクトによっては公的資金を得られるようになってきた。だが、彼はコストの高い建築プロジェクトの依頼を受けると、支援にも使えそうな新しいアイデアをしばしば現場で試してみる。富裕層のための建築に、あえて安価な材料をあれこれ使ってみて、いざというとき、すべてを失った被災者たちのためにその素材を活用するのだ。

画像: 「紙の教会」。1995年、同じく神戸に建てられ、2008年に台湾に移築(写真は台湾) AFYEN HSIN-CHU

「紙の教会」。1995年、同じく神戸に建てられ、2008年に台湾に移築(写真は台湾)
AFYEN HSIN-CHU

 そんなふうに彼は自身のキャリアを通して、紙やその他の安価でサスティナブルで再生可能な材料は、これまで建築界で一般的に使われてきた材料と比べても耐久性に問題がなく、被災者のためのシェルターばかりでなく、実際に美術館のファサードや別荘に使うのに適していることを示してきた。それはある意味、政治的な行動でもある。つまり、階級や経済格差やその他の垣根を崩して平等にしようとする動きであり、それはあらゆる建築家にとって悪夢といえるからだ。だがもちろん、これらの素材も今やブランドになった。「素材と構造を開発するのは私にとって大事なことだ。自分のスタイルを作り出すために」と彼は言う。彼のオフィスで話をしていたときも、私たちが座っていた椅子は紙管でできていた。

 坂は同情や怒りの感情を見せることがない。彼は通常、自分の人道的支援を説明するのに、人助けの衝動よりもむしろ、資源を無駄にすることへの恐怖を口にする。それは彼がシビアに実利を追求する建築の分野の最先端を走っている、ということでもある。今また、彼は仮設施設の範囲を超えて人道支援を広げようとしている。インド南東部のアーンドラ・プラデーシュ州政府と協力して、新しい首都のアマラーヴァティーの住宅建設に取り組んでいるところだ。数階建ての建物のため、紙管は恐らく適切ではないだろう(彼が考えているのはファイバーグラス製のスチレンボードだ)。

だが、今後も災害のことが彼の頭から離れることはない。彼はより大規模な都市開発を通して、災害支援に備える都市づくりを行っていると話した。日本では今後も必ず地震が起きるだろうし、彼は特に言及しなかったが、気候変動が引き金となるさまざまな災害が起きることも予測できる。

「21世紀初頭の今こそが、サスティナビリティと災害支援の方向に舵を切る大きな分岐点だ」と彼は言う。「それは今世紀のメインテーマであり続けるだろう」。モダニズム主義全盛だった時代から確実に月日は流れた。「当時の人々はユートピアがいつか実現すると信じていた。でも、私たちはそれが真実ではないことを知っている。ユートピアなど存在しないということを」

 慎重に言葉を選んで話す坂が、そんなセオリーどおりの発言をするのは稀だった。モダニズム主義者のユートピアを探す旅は終焉を迎え、今、私たちは少なくとも厳しい現実に直面しながら生きている。それはわざわざ日本に行かなくとも、私がいま生活している場所でも実感できる。そうでなければ、坂が彼の使命に打ち込む理由も、坂が長年向き合ってきたような惨事に立ち向かおうという政治的な意思が世界中に広がりつつあることも説明がつかない。

坂の行動に感銘を受けた建築家たちが、彼ら自身の社会的責任を自覚したり再認識するだけでなく、たとえばブルタリズム建築の福祉住宅が解体されたり、旧ユーゴスラビア建築の新たな展覧会が開かれたりするたびに、私たち自身もまた思い出す。最も悲惨だった戦争で焦土と化した場所から、社会も建築家もプランナーも全員が力を合わせて立ち上がったのが、そう遠くない過去だということを。そしてそのとき、全員が力を合わせて、貧しく助けが必要で無防備な人々に手を差し伸べたということを。

 坂は“普通”の建物を造り続けながら、あるとき、普通でない状況で生活している人々がたくさんいることに気づき、それを何とかするために自分の時間を、少なくともその一部を費やすようになった。今後、彼と同じこと、または彼以上のことをやる人間が何人出てくるのかはわからない。富士山世界遺産センターの一角にある標識には、富士山は現在も活火山であるということが、旅行者向けに書かれていた。あとになって私は気づいた。それは脅威であると同時に、吉報でもあると。

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