小柄で太っちょ、動物の言葉を話せる博物学者のドリトル先生の物語は、今もなお、子どもたちの心をとらえ続けて離さない。『ドリトル先生航海記』の新訳を手がけた生物学者、福岡伸一さんにこの物語が持つ深い眼差しについてうかがった

BY CHIWAKO MIYAUCHI, PHOTOGRAPHS BY SHINSUKE SATO

 このシリーズは、長いこと井伏鱒二訳で親しまれてきたが、生物学者の福岡さんの新訳で、新たな解釈も加わり、また別の楽しさを味わえる作品となった。古典的な表現が減って、全体的に若々しくなり、何より文章のテンポがいい。新訳を手がけるにあたり、どんなことに注意し、工夫を凝らしたのだろうか。

「まず、ドリトル先生の物語は、お母さんやお父さんが子供に読み聞かせてあげる本としてあってほしいなと私は思いました。読み聞かせは、“息遣い”が大事なんです。だから声に出して読みやすいように、“短文の繰り返し”で訳しました。息継ぎがしやすいように訳してあるので、ぜひ大人が子供に読んであげてほしいなと思います」

「さらに、井伏訳では、ドリトル先生は自分のことを“わし”と言い、“~しとるんじゃ”といった年寄りっぽい話し方をしています。確かにドリトル先生は太っちょだし、髪も薄くて、お茶の水博士のように『わしゃ~じゃ』と訳したくなる気持ちもわかりますが、物語をよく読むと、そんな年寄りじゃない。スペインで闘牛を止めさせる場面(『航海記』)で、ドリトル先生は猛牛の上で角を持って逆立ちしているんです(笑)。年寄りにはとてもそんな芸当はできない。せいぜい40代かなという感じです。なので、ドリトル先生の自分の呼び方を“わたし”に変え、福岡訳では若々しいドリトル先生を誕生させました」

画像: スペインにて。「闘牛は野蛮でおぞましい見世物だ」と怒ったドリトル先生が、牛たちと示し合わせて闘牛を辞めさせようと画策。牛の角をつかんで逆立ちし、闘牛士たちを煙に巻く軽業シーンに、福岡さんは「ドリトル先生は意外と若い」と新訳での年齢設定を若返らせたという ILLUSTRATION BY HUGH LOFTING

スペインにて。「闘牛は野蛮でおぞましい見世物だ」と怒ったドリトル先生が、牛たちと示し合わせて闘牛を辞めさせようと画策。牛の角をつかんで逆立ちし、闘牛士たちを煙に巻く軽業シーンに、福岡さんは「ドリトル先生は意外と若い」と新訳での年齢設定を若返らせたという
ILLUSTRATION BY HUGH LOFTING

 小学生の頃にこの本に出会って以来、ずっとスタビンズ少年になりたかった。そしてドリトル先生のような博物学者(ナチュラリスト)になろうと決めた。その念願の生物学者となった今、いつからか福岡さんの胸にある種の「悔恨」が宿るようになったという。10年前に新訳の仕事でドリトル先生に再会し、その悔恨の正体が鮮明に見えてきた。それはちょっとした「ミドルエイジ・クライシス」だったという。

「私の専門にしてきた分子生物学も含めて、近代科学の研究というのは、常に分析的に物を見て、調べ、世界を分けて細かいパーツにしていく作業の連続です。ミクロにパーツに分けると、そこに精妙な仕組みがある。さらにそれを下の階層のミクロなものに分けていくという要素還元主義的な分析が近代科学です。でもドリトル先生は、そこに非常に鮮やかにアンチテーゼを出している。世界はどんなに分けても分からないと。ドリトル先生が私たちに示唆しているのは、分析するのではなく、まず世界が語る物語を聞け、ということなのです」

 なるほど、確かにドリトル先生は、動物や虫や植物や貝の言葉に、ただひたすら耳を傾けてその声を聞きとろうとする。なかなか言葉が聞き取れない無口な貝の“イフ・ワフ”が口を開いてくれるのを、文句を言いつつも根気よく待っている。それがドリトル先生の生き物との“交流”のあり方だ。

「ドリトル先生のやり方は、ロジックを作らないというか、反ダーウィニズムといっていい。そういう点も深読みすると面白い。生物学というのは、分析的にロジックを突き詰め、階層を作って世界を整理しようという、ある種一神教的なプログラム志向があります。その思考の対極にあるのが、ファーブルであり、ドリトル先生であり、世界の運動のありようをそのまま受け止めようというベルクソン的な系譜です。私は、分子生物学者という分析的な方向の仕事をしてしまいましたが、少年時代に昆虫を追っていた体験から原点を再確認してみると、じつはそういうことがやりたかったわけじゃないと思い至った。本当はドリトル先生みたいになりたかったはずじゃないの? と……。それが私の悔恨です。たぶんそういう不全感はずっと心の片隅にあったんだと思います」

画像: 『ドリトル先生航海記』 ヒュー・ロフティング著、福岡伸一訳 ¥781/新潮社

『ドリトル先生航海記』
ヒュー・ロフティング著、福岡伸一訳
¥781/新潮社

 ふたたびドリトル先生の世界に戻りたい。子供の頃、虫の観察で感動した世界のすばらしさ、“センス オブ ワンダー”をまた生身の五感で感じ取りたい。本来のナチュラリストとして――。そんな思いが高じて、京都大学を辞め、日本を震撼させた3.11の後には、研究室も畳んで、文系の学問に転向したと福岡さんは述懐する。

「ドリトル先生は、私の原点です。いま私はその原点に立ち返るために、少しずつ人生の軌道修正をしつつあるところです。いくつになろうとそれは遅すぎることはないと思っています。ドリトル先生は、生き物たちの声に耳を傾けて、それを書き留めました。それがドリトル先生の世界を記述する方法です。私たちは自然を見て何を書こうとするのか。詩や物語を書こうとするのか、あるいはカタログを書こうとするのか――。どちらがいいのか分かりませんが、やはり自然のあり方を記述する一番の方法は、詩や歌のように、自然の美しさや精妙さを語り、寿ぐことじゃないかと今は思います。科学者がそんなこと言うと、お前何言ってるのと言われそうで若い頃は言えませんでしたが、今ならそう言ってもいいかなと思います(笑)」

「自分の原点を思い出したときに、詩や物語が出てくる」と福岡さん。ナチュラリスト・ドリトル先生は、子供たちだけでなく、大人にとっても人生の大いなる羅針盤として、悠々とそこに在る。福岡ハカセは、少年時代から長い時間を経て、今また“スタビンズくん”になろうとしているのかもしれない。

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