BY MARI SHIMIZU, PHOTOGRAPHS BY KEIKO HARADA
歌舞伎俳優の尾上右近さんには、本名とは別に、もうひとつの名前がある。それは清元栄寿太夫(きよもと えいじゅだゆう)。歌舞伎に欠かせない音楽のひとつである清元の太夫(うたい手)としての名だ。右近さんは家元である清元延寿太夫の次男なのである。2018年に栄寿太夫を襲名し、歌舞伎にとっても清元にとっても異例の“二刀流”の道を歩み出した右近さんだが、そこに至るまでには秘かな「長い反抗期」があったという。
「役者を志したきっかけは、3歳の時に父方の祖母の家で曽祖父の六代目(尾上)菊五郎が踊る『鏡獅子』のビデオを観て、『僕はこれになる!』と強く思ったことでした。その念願がかない、役者として舞台に立たせていただけるようになったのは本当にうれしいことなのですが……。その一方で周囲の『清元はどうするの?』という何気ない一言に苛立ちを覚えた時期がありました。今思うと恥ずかしいのですが、当時の自分には『役者辞めて清元をやればいいのに』と聞こえていたんです」
歌舞伎俳優としての在り方を模索する右近さんは、2015年23歳の時に自主公演「研の會」を立ち上げ、憧れの『鏡獅子』にチャレンジ。その時、もうひとつの演目に選んだのが『吉野山』だ。これは名作『義経千本桜』の一場面で、源義経の家臣である佐藤忠信が、静御前のお供をして桜満開の吉野山を旅する様子を描いた舞踊だ。いくつかのバリエーションがある中で、右近さんは伴奏音楽を清元で上演するやり方を選んだ。
「考えてみれば『鏡獅子』の衝撃の後に歌舞伎のさまざまな役と出会えたのは、清元というバックボーンあってのこと。その中で『吉野山』の忠信を踊るような役者になりたいと思うようになっていったんです。“憧れの役に出会う”という感覚も『吉野山』を通して知りました。だから第1回の自主公演で『吉野山』を踊るのは理にかなったことだと思えました。当時は栄寿太夫を襲名することになるなど夢にも思っていませんでしたが、あの時の『吉野山』で新たな道が拓けたように思います」