BY DANA STEVENS, TRANSLATED BY MIHO NAGANO
「もののあはれ」――。このフレーズをあえて翻訳すると「万物に宿る哀愁」または「儚はかなさの美」となるが、この言葉は、何世紀にもわたって、日本の芸術と哲学の美意識の根幹をなしてきた。小津安二郎は、第二次世界大戦後の東京を舞台に、穏やかで生活情緒あふれるドラマを描いて高い名声を得た映画監督だ。そんな彼の作品の中で「もののあはれ」の感覚は、時として批評家が「ピロー・ショット」と呼ぶシーンによって表現されている。

小津安二郎の1953年の映画『東京物語』のワンシーン。小津監督の代名詞ともいえるローアングルから撮影した代表的なショット。
©MOVIESTORE COLLECTION LTD /ALAMY
ピロー・ショットとは、カメラが登場人物のアクションから離れて、時折、近くにある物体に焦点を合わせることを指す。風に揺れる木や、月明かりの窓辺に置かれた花瓶、通りすぎる電車などがそうだ。小津映画では、劇中の登場人物がその瞬間にその物体を見ていると示唆するような、ありがちな演出はほとんどない。むしろ、監督である小津自身が、意図的に、観客である私たちの目を役者の演技からそっと引き離し、現在繰り広げられている物語の関心外に、現実世界が存在しているのだと気づかせてくれる。小津はかつてインタビューでこう語っている。「あえて自作の映画の中に"余白"を残すことで"表からは見えない地下水のような、常に流転していく人生の不確実性"を表現している」のだと。
当時の、ごく限られていたであろう数少ない技法を駆使して、あれほど多くの影響力ある映画作品を残した監督は、彼のほかには、ちょっと思い浮かばない。小津は1927年から1962年の間に54本の映画作品を監督し、1963年の自身の60歳の誕生日に頭頸部がんで死去した─つまり、生きている間、ほぼ毎年1本以上のペースで作品を量産していた計算になる。彼は、自身のキャリアを通して、本当に描きたい数少ないテーマだけを、厳選した技術で表現し、無駄を徹底的にそぎ落とすことに集中した。それが高じて、1949年頃以降の彼は、同じ作品を何度も作り続けたと評されるほどだった。この点について小津は、晩年のインタビューで「僕は豆腐屋だから、豆腐しか作らないといつも言っている」と答えている。
彼の映画は総じて、その作品内で描かれた季節がそのままタイトルになっていることが多く、個々のタイトルがどれも調和している。たとえば『早春』(1956年)、『晩春』(1949年)、『麥秋(ばくしゅう)』(1951 年)、『小早川家の秋』(1961年)、『秋日和』(1960年)などがそうだ。それぞれのあらすじも非常に似通っている。中流もしくは、中の上の階級の日本人家族が、東京へ通勤圏内の郊外に建てられた伝統的な日本家屋で暮らしているという設定が典型だ。一家の子どもたちは成人となり、すでに結婚しているか、または結婚適齢期の年齢だ。話題の中心は、家族のひとりである若い娘がいつ誰と結婚するのか、またはしないのかという点に集約される。しかし、小津映画の中では構図のほうが、あらすじよりも常に重要度が高い。これは彼のもうひとつのイノベーションだといえる─つまり、小津が一番やりたかったのは、たとえば、登場人物たちが、足の指の爪を切るといったような、ありふれた日常生活の中でとる行動を、観客側がつぶさに観察するのにふさわしい銀幕上の空間を細心の注意を払って構築することだった。
多くの批評家たちは、小津がほとんど、もしくはまったく使わなかった古典的な西洋映画の技法を基準にして、小津作品を定義づけようとした。たとえば、回想シーンや、ディゾルブ(註:映像をオーバーラップさせる)、オーバー・ザ・ショルダー リバースショット(註:人物の後ろから肩越しにもうひとりの人物を描写し、それを逆側からも撮影する)などの手法だ。日本では無声映画時代が1930年代に入っても続いており、実際、当時は小津もこれらのテクニックを十分に駆使していた─戦後になり初めて、彼はそれらの手法を極限まで排除するという実験に着手した。小津は俳優たちが首をかしげるときの角度や、まなざしの方向に至るまで細かく指示を出した。ほぼ常に、カメラを登場人物に対して低い位置に置き、ローアングルから撮影することで、床から天井までの広い空間をカバーし、酒・しょうゆの瓶や急須や花瓶などの日用品が整頓されて所狭しと並ぶ様子を映像で見せた。
この斬新なカメラ・アングルによって、映画の観客たちは、家の中に招かれ、かつ、適度な距離を保ちながら、そこで繰り広げられるドラマをそっと見守る目撃者の立場を味わうことができる。そんな新しい視点から、小津は映画という媒体が日常生活をいかに表現できるのかを改めて私たちに考えさせるのだ─ストーリーの重要な部分を省略して、何げないしぐさを映したり、ある出来事が起こる前の予兆の部分から、いきなり出来事が起きたあとの場面に飛ばして描いたりしながら。
結婚がテーマの作品の場合でも、恋愛や結婚式のシーンは描かれていないことが多い。1949年の作品『晩春』は、主人公の女性(小津のお気に入りの女優、原節子が演じている)が生まれ育った家を出て結婚することを承諾するのかどうかを描いている。しかし、彼女が最終的に縁談を承諾することになる相手の男性の姿は、ついに一度も画面に登場しない。
小津が繰り返し描いた重要な主題は「孤独」で、当時、人気を博していた映画監督が扱うには珍しいテーマだった。彼が製作した最も有名な映画『東京物語』(1953年)では、老夫婦のとみと周吉─東山千栄子と小津のお気に入りの主演男優、笠智衆が演じている─が、自宅のある海辺の小さな町から汽車に乗って、都会に住む、すでに成人した子どもたちを訪ねる。老夫婦は現代的な生活を送る多忙な子どもたちの日常の中にはすでに自分たちの居場所がないことに気づく。老夫婦の次男は第二次世界大戦で戦死し、その未亡人の紀子を原が演じている。その紀子だけが、彼女と同世代の登場人物たちの中で、唯一、無私のやさしさをもつ人間として描かれている。映画の後半では、とみの急病と、老夫婦が自宅に戻ってからのとみの死が立て続けに描かれる。電報や電話で知らされた子どもたちが危篤の母の枕元に集まり、別れを告げる。葬儀がすむと長男、長女、三男はそそくさと都会に帰ってしまう。一番下の娘である次女が「いやぁね、世の中って」と言うと、戦争未亡人である紀子は「そう、いやなことばっかり」と悲しげな微笑をたたえてこたえる。『東京物語』のラストシーンは、カタカタと規則的に鳴る船のエンジン音(時計の針のような)と乾いたため息の音で終わりを迎える。外では川の水がゆったりと流れ、室内では妻を失ったばかりの周吉が黙って座っている。
小津の神秘的な私生活においても孤独はひとつのテーマだったといえるだろう。彼は裕福な商家の息子として生まれたが─小津の父親は繁盛している肥料問屋の跡継ぎだった─学業成績はぱっとせず、現在の高校に相当する当時の5 年制の「中学校」を卒業すると、現在の大学にあたる、当時の「高等商業学校」を受験したが、合格せず、結局進学はしなかった。小津の生涯についてたどったドキュメンタリー映画『生きてはみたけれど』(1983年)に出てくる小津の当時の友人たち数人の話によれば、小津は「中学校」時代に下級生への恋文を書いたことで学校の寄宿舎から追い出されたという。小津が最も親しくつきあった友人は、共同で脚本を執筆した野田高梧(こうご) だ。ふたりは映画の撮影が終わると地方の山荘などに数カ月間こもって次回作の構想を練りつつ、脚本を執筆した。その間、ふたりは酒を大いに飲み交わしたという(『東京物語』の脚本を生み出すのに103日と43本の酒瓶が必要だったと野田は自身の日記に書いている)。小津は生涯独身で、戦争中に3回徴兵され出征したとき以外は、生涯のほとんどを母親と暮らし、母親は小津が死去する前年に亡くなった。彼は映画作品を通し、成人した子どもが、実家を離れて旅立つときの別れのつらさという主題に何度も何度も回帰し、本質を深く掘り下げてきた。
映画業界で商業的にヒットする作品のほとんどは、テンポが速く、アクション満載で、小津作品とは対極にある。だが、人間関係の繊細さを探求して描くタイプの映画製作者たち、たとえば、クレール・ドゥニ、濱口竜介、アキ・カウリスマキ、マイク・リー、ケリー・ライカート、ヴィム・ヴェンダース、コゴナダなどの作品には、必ず小津の影響が見られる。とくに、韓国生まれのアメリカ人映画監督のコゴナダは、小津の長年の共同脚本家である、野田高梧の名前をもじって自分のペンネームにしているほど小津に入れ込んでいる。
英国映画協会(BFI)が2012年に世界中の358人の映画監督を対象に行なった投票で、『東京物語』が史上最高の映画作品に選ばれた。だが、1980年代初頭、アメリカのビデオレンタル店には、日本の古典的な映画はまだほとんど入荷していなかった。インディペンデント映画の旗手、ジム・ジャームッシュはスーツケースいっぱいにVHSのビデオテープを詰めて東京から持ち帰り、字幕がついていない映像を鑑賞しながら、小津特有のカメラ位置や、固定されたレンズの焦点距離について勉強したことを覚えている。私がジャームッシュと今年2 月に話した際には、彼は小津のことを「観察眼カメラの巨匠」と呼び、小津の作品づくりの技術的なディテールを饒舌に語った。だが「場」の設定が厳密に計算されつくされている小津作品が、なぜほかのどんな映画作品と比較しても、これほどまでに時を超えて普遍的に感じられるのかと問うと、ジャームッシュは言葉に詰まり、うまく答えられず、しまいにはそんな自らの姿に思わず吹き出した。「彼の映画の核を成すのは、細部の積み重ねなんだよ─。それ以上、いったいどうしろって言うんだ? 言葉で説明しろって? 彼がもうあんなに見事に説明してくれているじゃないか」とジャームッシュは言った。「映画という言語において、彼は自分だけの方言を使いこなしていたんだ」
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